赤壁の戦い その三
おかしな胸騒ぎがした。
これまで感じたことのない、嫌なざわめきだ。
曹操は一際大きな船、艦と呼ばれる大型船の船室で揺れる灯りでじっと書簡を見つめていた。
三隻の青の旗が船首に掲げてある。それが自分たちの船だ。夜に出立する故、兵たちと共に迎え入れて欲しい。
黄蓋からの寝返りの申し出である。
別にこれについては不満はなかった。
つい最近、黄蓋が降伏と口を滑らせて周瑜から刑罰を受けたことは確認済みである。
建業にいる張昭という文官の筆頭も降伏を唱えていて、それは今も続けていて文官一同の要になっている。黄蓋と張昭は意見が一致していたということで、戦時もしばしば書簡を交わしていたこともあるというのも、張昭から間者を通して聞いた。
信憑性はある。
連れてきた荀彧や、張昭を探り当てた程昱とも何度も話し合って賛同している。
それとは違う何かに予感を感じているのか。
「華琳様。前線の蔡瑁から伝令が。暗闇でわかりにくいですが、青の旗を船首に掲げた船がゆっくり近付いてくるとのこと。打ち合せ通り、黄蓋の船かと思われます」
荀彧がさっそく駆け込んできた。
呉軍きっての宿将の黄蓋が寝返るのだ。これであちらの意気も多少衰えるだろう。
「罠の可能性もあるから注意するように蔡瑁に伝えなさい。蔡瑁の後ろで監視している楽進たちにも」
最初から蔡瑁は信用していなかった。だから長江をよく知っていると言う蔡瑁でも、楽進と李典と于禁を付けた。
こちらの寝返りに応じた者は、他の裏切りにも応じるものだ。
ただ、水軍には自分たちより長じていることは確かであった。
「もちろんです。しかし、水軍というものはこれほど差が開くものだとは思いませんでした」
「まったくね。あちらにとっては蔡瑁の船も私たちの船も、どちらも赤子同然なのかもしれないわね。まあ、赤子でも上に立てば呉も迂闊に手を出せないようだけれど」
魏は烏林、呉は陸口に布陣してからそれなりに時が経つ。
北に布陣して、北風を背にする魏軍は有利であり、攻略を急ぐ必要はない。
黄蓋のようにじわじわと戦力を削ってからでも遅くはないし、呉軍の水軍を弱めておくことは大事なことだ。
「今は黄蓋が寝返ったあとの呉の様子を見てみましょう。張昭の揺さぶりもお願いね」
「わかっております。呉の首脳陣党首である張昭が揺れれば、呉軍の背後が脅かされることになります。少なからずの動揺も出てくるでしょう」
戦況は悪くない。こうして敵から離反者が出てきている。
水軍では負けるが、この大軍である。
いくら水軍に長じているといえども、それにも限界があるはず。
負ける要素が見当たらないというのに、なぜこんなに嫌な予感がするのか。
不意に何かがぶつかった聴こえた気がした。
その瞬間、全身が震えた。
何か来た、いや。何かが襲いかかってきたような。
「なんでしょうか。誤って味方同士の船ががぶつかったのでしょうか?」
「……いいえ。錨で船を抑えているし、船同士に橋渡しをしているわ。そんなことありえないわ」
「そ、曹操様!」
親衛隊である典韋が慌てた様子で駆け込んできた。
「何事!」
「前方から火の手が上がっています! 今も火が広がっていて、物凄い勢いです!」
「なんですって! 風は北風のはず」
「それが、風がいつの間にか南に変わっています! このままでは火が我が船全体に火が広がって」
「で、伝令!」
伝令の兵が転げそうに駆け込むのに、思考飛んだ。
予感が、今的中したような。
「司馬懿が謀反! 長安以西が司馬懿に奪われ、北平の鍾会もそれに合わせて謀反! 司馬懿との同調を表明しました!」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。




