最高の謀叛
城壁から天を覆う灰色を仰ぐ。
こういう時は、黒薙はいつもぼうっとしていた。しかし、今はフードを被った少女の顔を思い出して、考えて止まない。
張郃軍を追い返してから、それほど経っていない。まだ、長安と成都に送った間者も帰ってきていないくらいだ。
姜維の様子を見てきた呂蒙から、報告は来ていた。
信用できるらしい。
小さいながら知識が豊富な諸葛亮を尊敬している少女だという。
呂蒙は既に漢中に戻している。
「雛斗様。申し付け通り、兵糧を極力買い占めて参りました」
足音もなく来た黒永の声に、城壁の下に目を落とす。
緑を基調とした鎧の蜀兵と俺の直轄である黒兵が演習用の槍を持って、向き合って槍衾の練習をしていた。
黒兵は騎馬隊なのだが、元・孟達の兵よりは歩兵での槍の扱いも集団戦も熟知している。
こうして向き合うことで、黒兵の槍衾の気合いが身に染みる。
次にやらせてみれば、声の上げ方も整列しての前進も変わるだろう。
「漢中の二万のみなら、三ヶ月は保つかと」
「今のところはそれだけでも充分だけど──梓潼と上庸を足すと、どう?」
「それぞれに蓄えられていた兵糧を合わせて──五ヶ月ほどでしょうか」
孟達のいた上庸は、新兵五千と孟達の連れてきていた五千の一万で張翼を行かせて確保させた。
孟達の息がかかっていたとはいえ、今は百でも一千でも兵が欲しい。
梓潼で張嶷と馬忠、姜維が成都からの脱走兵を集めさせているが、今のところ五千ほどしか戻ってきていない。
元々、成都には五万の兵が残っていたが、そのほとんどは五胡に対する鎮守府に配属されている。
成都にはせいぜい、一万ほどしかいなかったはず。
つまり、袁紹たちについた兵はそうそう多くはない。
とはいえ、曹操の南下に対するために無理な徴兵を少し続けたため、不満の燻っていた賊や南蛮兵も集められているかもしれない。そうすると一万以上はいると考えた方がいい。
梓潼に収容した兵を含めて一万、上庸に一万、漢中に二万──計四万が黒薙が指示できる兵の内容である。
少ない、少なすぎる。
加えて兵糧も五ヶ月。
兵糧は黒永に任せておけば少しずつ集まって来るだろうが、あまりそれに力を割いてもおけない。
指揮できる将も多いとは言えないのだ。
成都にいた費禕や蒋琬は、文官ながらも用兵にもそれなりの腕があった。彼らが、こちらか王平のいる永安に無事に逃げ延びてきてくれないか。
鎮守府に張仁と法正もいるが、彼らは五胡に対していなければならない。
鎮守府の兵は訓練度も高いし四万はいる。二人の忠誠心も高い。
袁紹も無闇に手を出さないだろうし、出そうとしても慎重な顔良が止めているはず。
鎮守府が動こうともしないだろう。
黒薙の考えが現実になるのなら、この中国大陸内部はほとんど無防備な状態になる。
「雛斗様。成都を攻めはしないのですか? 姜維に任せておけば、鎮守府の兵と挟撃すればすぐにでも」
「俺なら、この漢中をすぐに攻め奪ろうとするな」
いきなり黒薙が言ったのに、黒永は眉を潜めた。
「張郃ですか? しかし、追い返したばかりですし」
「追い返しただけで、損害は多くない。おそらく、多くて五千かな。体勢さえ整えばすぐにでも攻撃に戻れる。それに、俺たちの兵は各地に分散させていて、先の戦より漢中の戦力も低下している。狙わないはずかないよ」
練兵を黒兵の部隊長に任せて、黒永と共に砦に戻る。
あれからずっと定軍山にいた。常に戦闘態勢を取っておく。
「それに対するためにも、兵を動かすわけにはいかない。二万で八万を相手しなければならないからね。増援の手段は取っておく」
それでも四万、姜維と張翼から兵を割いてもらうと考えると三万に達するかどうか。
それに張郃、司馬懿を相手せねばならない。
司馬懿が何を考えているのか読めない。
今は自分の予感に従うしかなかった。警鈴は、まだ弱く鳴り続けている。
「桃香に送った伝令が早く届けば……。それに、曹操。雪蓮……」
今の俺はここで司馬懿に備えるしかない。
思い過ごしであってほしい。
だが、胸の逸りは収まらない。
「黒薙様!」
青い兵装の男が黒兵に連れられてきた。
長安に送っていた間者の一人だった。
「一大事です! 司馬懿が魏より謀叛を表明しました。長安より以西が調略により、司馬懿の支配地に。声明から得た情報によりますと、さらには北方の公孫氏と烏丸族や黒山の賊が同調している模様。加えて、長安から八万の兵が出陣、漢中に向かっている模様!」
「魏に、謀叛人が。黒薙様、これは……?」
状況を上手く飲み込めない黒永がすがるようにこちらを見る。
曹操が鄴周辺に戦力を割いているとは思えない。
離反した北方は烏丸族と黒山賊を吸収して河北を併呑しようとするだろう。そして、併呑される可能性の方が高い。
兵力差で鄴周辺は押される。
しかし、これだけで終わるとは思えなかった。
「氷、揚州に送った間者は?」
「まだ戻っておりません。しかし、なぜ揚州を気になさるのです」
「蜀──成都が奪られたんだぞ。主力が荊州の方へ行っている隙を突いてだ。呉も今、同じ状況だ」
「雛斗様、まさか……」
ようやく俺の危惧している事態に考え至ったのか、思わず袖を掴んできた。
「魏、呉、蜀。三国すべての主力が全土の中央に集まり、居城がもぬけの殻──司馬懿は絶好の機会で、三国すべてを支配しようとしているかもしれない」