運命の出会い
次に動くのは、さほど遠いことではないだろう。
もう昼を済ませて、地図作成の仕事を再開していた。
茶色い長江の先を見つめる。
先に動くのはこの先の呉でも、西の蜀でもない、やはり、我々魏だろう。
国力、兵力の上で、先の漢中の戦いで痛手を受けたとはいえ、三国一。
回復力も益州のみを治める蜀など、比べ物にならない。
「できれば長江を渡って、揚州も測量してみたいのだがな」
「無理ですよ。孫呉の治める領地ですぞ」
「言ってみただけさ。さっさと終えるぞ」
測量の報告を聞き流した私は言って、長江から目を離した。
長江沿いの地域を測り終えたら、今回の仕事は終わりだ。
戻ったら親友に任せている調練を代わらねばならない。
長江沿いに進んでいくと、商業・民間用の船着場に差し掛かった。
呉とは敵対関係とはいえ、民間・商業はそうではない。
南の物産が北に入ることは、悪いとは思わなかった。
むしろ、全国と商通を巡らせていくべきだと思う。
そうしていくと金は回るし、中原の文化が少しずつ辺境にも伝わって豊かになる。
「少し休憩するとしようか。明日には揚州に接する長江沿いの測量も終わるだろう」
官僚の泊まれる宿をとって、部下に留守を任せて船着場の街に繰り出した。
街を巡るのは好きだった。
自分は庶民の出で、その頃から街で何かを発見して回っていた。
道行く人はちらりと、こちらを見たりはするが通り過ぎるだけだ。
私の髪を気になっているのだろう。
この銀髪は白髪に見えて、私自身は好きではなかった。
しかし、友人たちは綺麗だと言ってくれるので長くして一つに編んで毛先で結いている。
桟橋を覗くと、ちょうど民間用の船が到着したらしい。
民間用の船は物資を降ろすことがあまりなく、人を降ろすことがほとんどだ。
商業用の船は実に多くの物を下ろす。
桟橋に降り立つ人々の中に、ふと目が行った。
その人はゆったりした黒い上着を着て、頭に黒い布を被って顔を隠していた。
それだけを見れば珍しい服装の旅人で済むだろうが、滲み出ている気はそこにいる人々の比ではなかった。
その者は共に降りた船長らしい人に軽く頭を下げてから、桟橋を歩き出した。
桟橋から街に入ると、その後を付いていった。
店の並ぶ街はそれなりに人は多く、付けていても怪しまれないだろう。
その者の背中には、首元で結いた黒い髪が布から垂れて、揺れていた。
女性だろうか、線の細さも武骨な私より余程女らしい。
右腰に反り返った剣を挟んでいるのを見るに、どうやら左利きらしい。
少女はしばらく街を進み、ひとつの酒場に入った。
私も入り、少女の後ろで席を待った。
「お一人様ですか?」
「……いえ。後ろの方も一緒で」
男とも女ともとれる声が言ったのに、胸がどきっとした。
店員が私を見て頷くと、席を案内された。
それに違うとは言えず、私は腰の剣を確認しながら少女の背中を付いていった。
「何者ですか。私の後を付けたりして」
席に着くなり、少女が言った。
布の影に薄く顔が見えた。
線の細い印象は顔にも表れていて、やはり綺麗な顔立ちだ。
じっとこちらを見つめてくるのに、胸が収まらない。
「気付いていたのか」
「船を降りて、少し行った辺りからですが」
ほとんど最初からだ。
後ろ姿しか見なかったが、こうして近くで見ると尚、綺麗と思う顔だ。
「付いていったのは、悪いと思う。貴女を見て、とても気になった」
少女がじっと見つめてきた。
吸い込まれるような黒い瞳を見つめられ、唾を飲む。
何も動けずにどきまぎしていると、少女の目がふっとやわらいだ。
少女が布を肩に下ろす。
長い黒髪と、はっとするほど綺麗な瞳が光に見えた。
「邪心がある訳ではないのですね」
「無礼を申し上げた」
「いえ、お気になさらず。見たところ、そこらの住民たちと同じとは思えません。船でも見かけませんでしたし、どなたでしょうか?」
「私は鄧艾(とうがい)、字を士載(しさい)と申す。魏に仕えている」
「これは魏のお役人様でしたか。これはこちらこそ無礼を申し上げました。私は旅の者で、張範と申します」
頭を下げてきた。
茶を勧められたので啜ると、張範も椀を傾けた。
役人の前だというのに、意外に肝は太いのかもしれない。
ふてぶてしい、とも言えるか。
「しかし、お役人様が何故私などを」
「船から降りたのを見た時から、ただならぬ方だと思った」
「私など、そこらの旅人たちと変わりませぬ。多少、剣には自信がありますが」
「そうは思えない。是非、話をさせてもらえぬか?」
言うと張範はにこりと笑った。
相手は自分と同じ女だというのに、胸の高鳴りは大きくなるばかりだ。
私は何故そうなるのかがとても気になった。