安泰
謁見の間の扉が開かれ、足音を立てずに入る。
今は草履を履いているためだ。
刀と和服には、やはりこれが似合う。
それに、静かだ。
「此度(こたび)は拝謁をお許しいただき、誠に恐縮です。黒薙です」
膝を付き、右拳を左手で包み、その腕の輪に頭を下げる。
その昔、拱手と呼ばれる礼の中で最敬礼の挨拶と言われるものだ。
雪蓮たちと交わった翌朝。
昨夜言った通り、国の話をするために重臣を集めて改めて入場した。
今は浪人のため、雪蓮たちには腰を低くしている。
刀も預けている。
「国の話をしたいと黒薙は言ったわね。どういった話かしら」
雪蓮は既にわかってる、といったような口振りだ。
冥琳もそんな表情をしている。
他人がいる時は、雪蓮も冥琳も互いに真名を呼び合わないようにした。
重臣たちに変な波紋を呼ぶことは避けたい。
「率直に申し上げます。蜀と同盟をお結びくださいますよう、お願い申し上げます」
ふむ、と冥琳が腕を組む。
やはり考えないでもなかったんだろう。
「一応訊くけど、なぜかしら?」
今の状況を再確認するのにちょうどよいと思ったのか、雪蓮が訊く。
「現在、北半分以上は魏が制しております。南は端の西を蜀、真ん中の荊州を含めた東を孫策殿が治めております。国の規模を見るだけでも魏と蜀、魏と呉を比べると差がありすぎます。人口も北が多いです。蜀はもちろん、恐れながら呉も単独で魏に対抗するのは難しいだろうと存じます」
「孫呉の力が、魏に劣るとでも言うのか?」
鋭い目の短髪の少女が、目を細めて睨んでくる。
長江で捕らえられた時に見た顔だ。
「恐れながら凡人の私の目から見ても、国力では到底及ばないかと。国力は時をかければ次第に力が付きますが、それは魏とて同じこと。それどころか領土が多い分、魏の方が余程力を付けましょう」
「それで今、魏が力を戻す前に同盟か」
「仰る通りです」
冥琳が呟くのに短く返事した。
「今、魏は漢中での蜀攻略戦の損害を復旧させるのに必死で、戦どころではないでしょう。魏が再び攻める力を蓄え、動く前に同盟を結び、連携できる態勢を作れば、曹操も安易には南下しますまい。ましてや、蜀は山地、呉は水路が道を阻み、攻略は時がかかります。魏の攻略に時がかかるほど、連携して援軍も送りやすく、魏領への側面攻撃もしやすくなります。魏を牽制できるのです」
「確かに、曹操が攻めてから同盟なんてする暇もないし、したとしても同盟を万全な態勢に整えるのに時間がかかって援軍、側面攻撃どころじゃなくなるわね」
「魏はその領土の広さ故に、多方面に攻撃を受けやすいです。同盟を結ばれて同時に攻められるのも、蜀か呉のどちらかを攻めてる間に片方に攻められるのも、あちらにとっては嫌でしょうからね〜」
俺の長い説明に雪蓮が呟くのに、小さな眼鏡をかけた桃香に似たほんわかした雰囲気の少女が言う。
かなり周囲の状況を読めている。
「国力が多いということは、多方面への攻略も可能性としてはあります。しかし、今までの大きな戦を見るに、それはありますまい」
「どういうことだ?」
また目の鋭い少女が訊く。
「多方面攻略に乗り出すとしたら、将兵を分けることになります。本拠の守備に残す者も必要になり、それだけ戦力が下がる訳ですから攻略により時をかけます。魏の最大の弱点は、大兵力のために兵糧でしょう。時をかければかける程、兵糧の問題が浮き彫りになり、兵站が面倒なことになります。また、先程あちらの方が申された通り、蜀と呉のどちらかの攻略が失敗した際、逆にがら空きの魏領に攻められることもあり得ます。以上のことを踏まえ、曹操は多方面攻略を行うことはないだろう──と、私は考えます」
また長い説明を切ると、孫権が唸った。
「鋭い指摘だ。武勇、用兵の将かと思っていたが、状況を見渡す鋭い慧眼もある。蜀はこれほどの将を抱えていたのか」
「恐れ入ります」
孫権に頭を下げる。
「黒薙の言うことはよくわかったわ。周瑜とも話して、確かに蜀と同盟を結ぶことは視野に入れていたわ。しかし、蜀は許すかしら?」
呉には、俺を捕らえたという前科がある。
愛紗や恋が、それを心から許すことはないと思う。
俺が許す、と言っても聞かないかもしれない。
「蜀の首脳陣は、私が皆様に申し上げたようなことが理解できないことはないと思われます。従って、孫策様の手を無下に弾くような真似は致しますまい。ましてや、蜀は国力においては三カ国の中でも劣っております」
それに、氷にも言い置いてきた。
もしものことがあっても、氷が朱里や雛里に話すなりして、なんとかするはずだ。
「そうね──会議を開きたいわ。重臣たちを交えて、方針を決めたいの」
「私は、お願いを申し上げに参上しただけでございます。後は、私の領分を超えております」
最初と同じく膝を付き、拱手をして頭を下げた。
「では、私はこれで失礼致します」
「えっ。もう行っちゃうの?」
露骨に雪蓮が残念そうな声を上げた。
それに思わず笑みを浮かべそうになる。
「浪人とはいえ、呉と刃を交えたこともあります。そんな私がここにいては、臣の方々が心良く思いますまい」
目の鋭い少女をちらりと見ると、少女はぷいとそっぽを向いた。
それを見て、孫権は苦笑している。
「そんなことないわ。まだ話したいこともあるのに」
「孫策様。私は黒薙です。そして、浪人です。浪人でいなければなりません」
「雪蓮。黒薙は罰という形で今の身分にいる。罰を受けているのに、ここにいては蜀を裏切るようなものなのだ」
冥琳はよくわかってくれていた。
とはいえ、俺が浪人でいるのには他にも理由がある。
「──仕方ないわね」
「申し訳ありません。しかし」
「そんなに謝らなくても、わかったって言ってるじゃない。あなたにはあなたの立場があるって」
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「見送りなんていらないのに」
桟橋の上に風を受ける。
川を走る風は涼しくて心地がいい。
しかし、その川は茶色く土に濁っている。
「そういう訳にもいくまい。先程、雛斗の言った通り、呉の中には雛斗のことを心良く思わない者がいないとも限らない」
冥琳の長い黒髪が風に靡く。
「誰が来ようと。俺は黒薙だよ」
「わかってる。けど、無用な争いは避けたいじゃない。それにしても、天気が良くてよかったわね」
雪蓮も気持ち良さそうに風を受ける。
会議は俺が出立した後にやるらしく、昼を終えて船着場に向かった俺を雪蓮と冥琳が追ってきた。
「蜀にいない時間を長くしたくはないからね。晴れてくれて、助かったよ」
「──魏に向かうのか」
冥琳に頷いた。
長江を北上して、合肥を通って許昌へ行くつもりだった。
「そんなに旅が好きなのかしら?」
にやりと笑う雪蓮に苦笑した。
星と槍を直しに行って帰る途中に、ここに寄ったことがあった。
「旅は嫌いじゃないよ」
「そんなことで野に下った訳ではないだろう」
冥琳が目を細める。
「だから、ここに来たじゃない」
「確かにな。だが、魏に向かう訳はなんだ?」
冥琳は俺がこんなことをしている理由がわかっているのか。
雪蓮も顔から笑みは消えている。
「敵情視察、という訳ではあるまい。雛斗はそんなことをする男ではないからな」
「一晩過ごしただけたのに、俺のことをよくわかったような言い様だね」
すると冥琳の頬が少し赤らんだ。
「はぐらかすのが上手いみたいね。訊かれたくないのかしら」
雪蓮がじっと見つめてくる。
この鋭さは経験したことがある。
曹操もこんな鋭さを持っている。
「俺は蜀のためにやる。それだけだよ」
雪蓮の手を取る。
温かい。
雪蓮は少し驚いたけど、またじっと俺を見つめる。
「……ま、いいわ。だけど、無理はしないでね」
握る手を強く握ってきた。
「うん。ありがと、雪蓮」
「何も起こらないことを願っている」
「冥琳も。ありがと。俺も、次は味方として会うことを願ってるよ」
腰の刀を確認して、背を向けた。
船に移る。
「こちらのことは任せてくれ。なんとかして皆を説き伏せて、蜀と外交できるようにする」
船から頷いて、二人に笑った。
雪蓮と冥琳も笑みを浮かべてくる。
程なくして民間用の船は出発した。