月光に消える壁
一度は来た、というか連れてこられた場所だけど、やはり建物に覚えはなかった。
如何(いか)にして脱出するかしか考えていなかったのだから、当たり前かもしれない。
にしても、今夜は月が綺麗だ。
「あの時とは服装も覇気も違うものを感じるのう」
静かだけど、その中に熱いものを感じさせる女性が言う。
俺は和服の袖に手を差し込んで、黙って目を瞑っている。
謁見の間に通された俺は、黄蓋や孫権といった重臣たちと、孫策と周瑜が来るのを待っていた。
「祭は黒薙と、まともに会ったことはないの?」
「はい、蓮華様。夷陵にて捕らえようという時に少しですが」
孫権と黄蓋が目の前の俺がいるのに話しているけど、それは気にしない。
俺に話題を振る様子もない。
もう真夜中だ。
遅くに建業に着いた俺は、夕飯を食べている時にたまたま居合わせた黄蓋に自らを明かし、孫策と周瑜に会わせて欲しいと願い出た。
黄蓋は面食らった顔をしたものだ。
「我ら孫呉に帰順を、という訳でもなさそうね」
「無論です」
ようやく目を開いた。
「今は浪人の身ですが、時が来たれば蜀漢に戻ると主とお約束しました。今でも、私は蜀の一兵士と思っております」
「しかし、浪人ということは在野の士ということ。呉であろうが魏であろうが、お主を勧誘しようと構うまい」
「仰る通りです。好きにお誘い下さいませ」
黄蓋はふむ、と唸った。
孫権も少し驚いている。
「相変わらず、お前には驚かされるな。黒薙」
聞き覚えのある声に、また目を瞑った。
「まさか、自らこちらに来るとは思っていなかったぞ」
その声が近づいてくるけど、目は開かなかった。
「夜分遅くに、申し訳ありません。しかし、一度、しがらみも何も無い身で話し合うのが良いと思いました」
足音が前に来てから、目を開いて膝を付いた。
「前に会った時は、そのように頭を下げることはなかったというのに」
「あの時は立場上、蜀が一兵士でありました。今は浪人ですから、地位に天地の差があります。敵同士でもありません」
頭を上げないままに言った。
声色からして、苦笑いをしているらしい。
「立ってくれ」
一度深く頭を下げてから上げ、立ち上がった。
褐色の肌に、黒い長い髪の眼鏡をかけた女性が、やはりいた。
「やはり、綺麗な瞳をしている」
それを聞いて瞬(まばた)きをした。
「よく言われます」
「あの時は自己紹介をしていなかったな。私が周瑜公謹だ」
やっぱり、そう名乗った。
「冥琳。お姉様は?」
孫権が口を挟んできた。
「穏をやりました。すぐに駆けつけましょう。黒薙は私と孫策のみで話をしたいのだな?」
目を細めた。
確かに、そのつもりだった。
だけど、口にして言ったことはない。
「仰る通り、そのつもりで参りました。しかし、皆様が許されますまい」
「私は一向に構わないのだかな。蓮華様、祭殿。どう思われますか?」
「──黒薙なら、私は構わないと思うけれど」
孫権が俺を見てくる。
その目をじっと見つめると、桃色の髪を揺らして目をそらした。
「蓮華様がそう仰られるのなら、儂も却下することもないと思うが」
黄蓋も言うけど、二人とも控えめな返事だ。
いつの間にか周瑜の隣に控えている周泰はじっとしているだけだ。
「黒薙!」
これも、聞き覚えのある声だ。
すぐに急ぎ足の音が、背中に近付いてくる。
いきなり柔らかいものが勢い良く背中に押し付けられ、首に腕が巻き付く。
「なんで。なんで」
何度もそう言って、身体を揺らしてくる。
声はくぐもっていた。
「敵同士。私は蜀の臣であるが故に、そう決めて譲りませんでした。それが孫策殿を拒み、建業を逃げ出した理由です。浪人になりました。今は、私は孫呉を敵とは見ません。そちらがどう思われるかは、別ですが」
敵だった。
孫策が俺をどう思っているか知っても、孫策に押し倒されても、敵という言葉が先に立った。
「頑固なのね。私は、敵とかそんなの考えていなかったのに」
長江に二人きりで話した時の孫策は、一人の女だった。
俺と二人きりになりたくて、密書を送ってまで方法を模索した。
孫策は、心に素直だ。
「申し訳ありません。しかし、仲間を裏切りたくはなかったのです」
「わかっているわ。あなたはそういう人だって。そういうところも含めて、私と冥琳は惚れたんだもの」
周瑜を見ると、周瑜は肩を竦めて苦笑いした。
「雪蓮。黒薙は私と雪蓮の三人だけで話したいと言っている」
「えっ。でも蓮華たちは」
「お姉様。私は、黒薙となら心配することはないと思っています。祭も同じくです」
孫権が言うのに、黄蓋も頷く。
孫呉の重臣がこう言っている。
「先に皆様に申し伝えておきますが、離れたとはいえ、私は蜀の臣であると心に決めております。この度は、孫策殿と周瑜殿と話すことだけではなく、国の話もしたいと思って参上しました」
孫策の腕を解く。
流石にそれは予想していなかったらしく、周瑜たちは目を見開いた。
「もちろん、三人だけの話し合いはそれに及びません。国関係の話は皆様も含めて下さって構いません。三人だけの時に、その国の話に触れないこともお約束致します」
「外交の使者、ということか?」
「そこらの旅人の戯れ言と取って下さって構いません。しかし、私は蜀にとっても呉にとっても必要なことだと思っております」
黄蓋が訊くのに言う。
「私はそれで構わないわ。黒薙と話すことができれば、それでいいわ」
「雪蓮。黒薙は私たち孫呉のことも思って、ここまで来たというのに。……しかし、私もそれで一向に構わない。もちろん、他の者たちの意見も聞いてだが」
しかし、思ったより孫権や黄蓋たちの印象は悪くないらしい。
重臣のみんなは、三人だけの話し合いには異論はない。
孫策を止めるのを、諦めている訳でもなさそうだ。
ただ、やはり国の話は重臣も交えてということになった。
そうと決まると、孫策は俺の手を引いて謁見の間を飛び出して行った。
その後を周瑜も追いかける。
これでようやく、孫策と周瑜とゆっくり話すことができる。
そう思っていたけど、孫策は一つの部屋に入るなり俺を正面から抱きすくめた。
「そ、孫策殿。話は」
「いらないでしょ。私は、もう我慢できないわ」
耳元に聞こえる孫策の声は熱かった。
体も、こちらも火照ってきた。
「ちょっと雪蓮」
周瑜も続けて入ってくる。
そして扉の鍵を閉めた。
「私も混ぜろ。いつもお前は私を置いてけぼりにする」
そんなことを言いながら周瑜は背中から抱きついてきた。
身体が熱くて何がなんだかわからなくなってきた。
「まっ、お待ちください! お互いの気持ちを話し合うのは」
「いらないだろう。だから夜中に来たのではないのか?」
「そのようなこと」
周瑜の声が孫策とは反対の耳に近い。
「もう、拒みはしないのだろう? そのために出奔して、身分や所属の縛りをなくして私たちに会いに来た」
「私と冥琳は、最初から黒薙が欲しかったのよ。あなたが蜀にいた時から。最初から拒むつもりはなかったんだから、これでお互いに拒むことなく愛し合うことができる。あなたが、私たちを好きではないのなら別だけど」
周瑜と孫策が小声で、だけど耳元にはっきり聞こえる。
孫策と周瑜は、正直だ。
まるで子供みたいに。
だけど、本当は俺の方が子供だ。
何かにつけて敵だ敵だと、好きでいてくれる二人を突っぱねてきた。
駄々をこねる子供みたいに。
「……大人だね、二人とも」
「やっと、違う声が聞けたわね」
孫策の嬉しそうな声。
安心したら、普段の口調が漏れていた。
俺も、素直になれるのにホッとしたのかもしれない。
「俺は黒薙。字は明蓮。真名は、雛斗。好きでいていいんなら、真名を預けるのは当然だよね」
惹かれていた。
それは、孫策は長江で会った時から。
周瑜はまだわからない。
だけど、こんなに熱い身体を押し付けられた。
こんなに強く腕を締めてくる。
俺は、いつの間にか二人を好きになっていた。
「私は周瑜公謹。真名は冥琳だ」
俺の言葉をすぐに理解した冥琳が真名を預けてくれる。
「私は孫伯符。真名は雪蓮よ。国の話し合いは、明日でいいわ。今夜は、三人で愛し合いましょ」
雪蓮が微笑んで、俺と冥琳を寝台に連れ込んだ。
これで、いいんだよね。
敵じゃなくて、一人の男と女として会う。
この選択は間違いじゃない。
これで俺のやることは終わりじゃない。
まだ蜀に戻るのは先になる。
それを最後に考えて、その後は雪蓮と冥琳との時間に浸った。
今夜は、月が綺麗だった。