物想い
やはり黒薙は強い。
書簡を卓に置いて息を吐く。
はっきり言って、これまで戦ってきた敵とは、とてもじゃないが比べ物にならない。
私室で仕事終わりに黒薙の戦績を分析していた。
外は既に月も出ている時間だ。
書簡には穏が集めてきた情報を資料化したものが、いくらかの山になっている。
戦績は黒薙が洛陽に所属していた頃から漢中の戦いまでの、賊掃討をも含めた細かい戦まで記されていた。
兵数、天候、装備、陣形、戦い方──資料は詳細を極めていた。
流石は穏だ。
これからの孫呉を任せられる一人だ。
その資料を読み込んでいくと、黒薙の軍神さながらの戦上手が見えてくる。
こんなことを言ってみるが、本当は黒薙の姿を見れない、その気を紛らすためだろう。
そういうところは、私も雪蓮のことを言えたものではないか。
その雪蓮は落ち込んでいるのか、部屋に籠ったきりになっている。
私だって手元から玉を取り零(こぼ)したような気持ちだ。
とはいえ、蜀との外交関係をなんとかしない訳にもいかず、感傷に浸る間もなかったが。
黒薙を騙して捕らえたのだから、双方の関係はそれは悪いものだ。
これからどう外交しようか、考えているところだ。
諸葛亮の姉──諸葛謹を送ることは決まっているが、それ以外はまだ決められずにいる。
蜀と接触するには、こちらに非がありすぎた。
ため息をついて、今は黒薙の能力分析をする。
まず、全体の戦績から目につく一つ──兵数。
これまで黒薙は賊掃討以外、つまり、正規軍との戦いのほとんどは、相手に比べて少ない兵数で戦に臨んでいる。
これは名将からはかけ離れた、猪武者のような戦績だ。
兵法を念頭に置いて戦う基本中の基本は、相手より兵を多く整えること。
兵法は勝つ基本を説いた方法論だ。
それを用意の根本の段階を切ったようなもので、しかし黒薙はほぼ全ての戦を制している。
二つ──戦い方。
黒薙は傭兵の頃から、自ら先頭に立って戦うことが多い。
蜀に属している今はよいのだろうが、傭兵時代は黒薙が大将だ。
その大将が先頭に立つ──私だったら即刻止めている。
雪蓮にも強い輩と戦いたくて前に出たがる性分で、それを何度も止めた。
しかし、それを部下が遮らなかったのは黒薙自身の武勇が優れていることももちろんだろうが、それ以上に敵陣の綻(ほころ)びを見抜く目があるからだ。
その目があるから黒薙は先頭に立つし、必ず敵陣を崩す。
そして敵陣を貫くという簡単な戦い方で、それでいて柔軟に戦う。
奇策を使って戦っているのも柔軟さ故だ。
状況に応じて、その場に合った様々な戦い方をこなす。
最後は、必ずと言っていいほど黒薙の奇襲や強襲で引き起こした混乱を突いて片を付ける。
簡単なやり方で、それ故に難しいことをやってのけている。
無から混乱を導く──これほど難しいものはないと思う。
三つ──士気。
黒薙は今や、知らぬ者はいないほどの名将として名高い。
そのためもあるのか、黒薙指揮下の兵は士気が異様に高い。
黒薙の兵や部下たちにとって、黒薙の存在がよほど大きいらしく、黒薙がいるというだけで士気が高揚する。
練度も異常に高い。
士気は場合によってはただの雑兵が訓練された兵に勝つことも可能になる、戦の重要素だ。
練度と士気、両方をよく保つ黒薙の腕前は流石といえる。
四つ──これは戦とは関係ないだろうが。
「忠義の神髄、か。そういう者ほど、皆欲しがるものか」
寂しさ紛れにぽつりと呟いてみる。
私たち、呉の捕虜となってしばらく説得したが、まったく耳を傾けずに脱走して蜀へ舞い戻った。
漢中戦に参加できなかったことか、むざむざと敵に捕まったことか──なんらかの責任をもって黒薙は自ら罰を求め、一時の出奔をしたという報告もあった。
非常に義理堅く、超然としている。
自身の生き方を貫いている。
私や雪蓮は黒薙に強い魅力を感じ、惹き付けられた。
黒薙自身の何もかもが私たちを惹き付けた。
「──やはり敵に回したくはないな」
また、ため息が出てくる。
黒薙の欠点といえば、高い練度故の兵数の少なさ。
厳しく、高度な訓練を課すのだから、それに耐えられる兵は限定される。
それでも、それに勝利しようものなら相当の犠牲を覚悟しなければならないだろう。
黒薙の率いる兵が一万だとするなら、こちらは五万は用意しなければ安心できない。
二万では勝てないかもしれない。
三万、四万は五分か。
あの曹操でさえ黒薙軍二万と曹操軍五万で対峙し、しかも兵の補給を受けていたにも関わらず、撤退を余儀なくしたのだ。
最低でも四万の差がなければ、確実な勝利はあり得ないだろう。
それも、五万を用意して、それを率いる優秀な将を集めてだ。
それでも、二万以上の兵を失う覚悟はしなければならないだろう。
そして、黒薙を失う可能性もあるということ。
黒薙は降らない。
どんなことがあろうと──仲間という存在がある限り。
「黒龍──黒は闇だというのに、黒薙は正義だ」
闇が悪とは限らない──黒薙なら、そう返すだろうか。
そんな簡単な返し方はしないか。
返事もしないのかもしれない。
わからない。
ここにいないのだから、わかる訳がない。
「冥琳様、周泰です」
扉の向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
魏の動向を調べさせていたが、その報告だろうか。
「入れ」
「失礼します」
すぐに明命を部屋に入れる。
いつも通り、背中に大きな刀を背負った明命が静かに入ってくる。
「魏になにかあったか?」
「合肥に赴任していた楽進、李典、于禁、程昱、郭嘉が曹操のいる許都に戻りました。後任は満寵とのこと」
満寵はなかなかの将だ。
流石に魏は国土が広いだけあって、優秀な人材も多い。
その魏に蜀は勝利し、黒薙も曹操と対峙して追い返している。
「他には?」
「ありません」
「そうか。──黒薙のことだが」
ちょうどいい。
明命に黒薙のことを訊いてみるか。
とは言っても、黒薙を失った悲しみを共有したいだけなのかもしれない。
もしくは、明命に黒薙の評価を訊きたいだけか。
「明命は脱走した黒薙を追ったということだが」
「はい」
「なにか話したか?」
「はい。黒薙様に孫呉に戻るよう、私は言いました。雪蓮様と冥琳様が、その」
「気にするな。伯符と同じく、私も黒薙に惹かれている」
「はい。──お二方が黒薙様に好意を持っていることを伝えました。しかし、黒薙様はそれは関係ないと仰いました」
なんとなく、黒薙の言いたいことがわかる気がする。
「臣下として忠誠を誓うことは、当然のこと。それは黒薙様にとっては信念であり、たとえ蜀呉で争うことになろうとも、雪蓮様や冥琳様が好意を抱いていようとも、忠誠を誓った主を裏切ることは絶対にしない……と」
やはり、忠臣。
雪蓮は黒薙と愛し合いたくてたまらない。
黒薙が手元から飛んで蜀に戻れば、取り返そうと宣戦布告するのもおかしくない、と思う。
今は雪蓮は籠りきりで、その間に私が外交に手をつけているが。
それでも、黒薙は構わないと言うのか。
争えば、漁夫の利を得る魏の天下が決するというのに。
「──明命は、黒薙を迎えた方が良いと思うか?」
「黒薙様を迎えたい、という気持ちは確かにあります。ですが、靡(なび)かないと諦めてもいます」
「わかってはいるが、な。それを抜いて、黒薙は迎えた方が良いか?」
「──申し訳ありません。どうしても背を向ける黒薙様しか、頭に思い浮かびません」
暗に黒薙から手を引いて、その手で蜀の手を取った方が良いと言っているのか。
黒薙を取ろうと手を出せば、蜀は手を払うだろう。
しかし、蜀とて単体で魏を倒せるとは思っていないはず。
蜀に手を差し出せば、あちらは手を払うことはしないだろう。
明命はそんなことを言うような娘ではない。
純粋に、黒薙は絶対に今の主に忠誠を誓うと思っていて、実際にそれは正しいだろう。
「難しいな。両方の手を取りたいというのに、こちらは片手しか取ることができない」
明命が首を傾げる。
比喩が過ぎたか。
黒薙なら、なんと切り返してくるだろう。
「冥琳様ぁ! 大変ですぅ!」
穏がこちらの返事も待たずに飛び込んできた。
「穏。返事くらい待て。なにかあったのか?」
少し感傷に浸っていたというのに、ため息が出てくる。
「あ、あのですねぇ。黒薙さんがこちらを訪ねてきましたぁ」
一瞬聞き流しそうになり、書簡に向いていた顔が上がった。
明命の表情も驚愕に変わっていた。