わずかな安息
「何故ですか!? ご主人様。もはや孫呉の暴挙を、私は許すことはできません!」
会議の場に愛紗の怒声が響く。
いつもは諫める星も今回ばかりは腕組みをして、黙って目をつむっている。
「一度ならず二度までも雛斗を捕らえ、軟禁した。確かに愛紗の怒りもわかるがな」
桔梗は眉を下げている。
隣の紫苑も同じ表情をしている。
朝の定期会議だ。
漢中の戦から既に数日経っている。
桃香や俺たち本隊、定軍山の左右の砦に籠っていた鈴々たちも共に成都に帰還し、軍備を整え直していた。
先に雛斗たちを送っておいたが、呉とは何もなかったようだ。
霞さんや亞莎が軍事や内政を回し始めていたこともあり、俺たちが成都に入って軍備を整えるのも組しやすかった。
「しかし北の強大な魏と対するためには、国力の及ばない私たちは必然的に、呉と手を組むしかありません」
朱里が遠慮がちに言った。
俺たちが押さえているのは益州と南中のみ。
それに比べ呉は広い荊州の多くと揚州、魏は北半分を領している。
俺たちはまだ小さすぎる。
そんな俺たちが魏と戦っていくには呉との同盟は必要なのだ。
呉と戦うには魏の存在が脅威だ。
「しかし!」
愛紗が食い下がる。
俺の隣に座る桃香はどうしたら良いかわからないようだ。
俺だって悩んでいる。
雛斗を捕縛されて怒っているのは愛紗だけではない。
その娘たちを抑えることができるのか。
そうでなくても元黒薙軍のみんなも気色ばんでいる。
不意に扉が開いた。
「ゴメン。遅れた!」
ようやく議論の的とも言える人が駆け込んできた。
いつも通りの真っ黒な和服に身を包んだ雛斗だ。
雛斗は氷の看病もあって会議の多少の遅れを許していた。
最初こそ雛斗は辞退しようとしたが、強く言うと雛斗が折れた。
雛斗の氷さんを想う気持ちは誰もが知っている。
「ちょっと雛斗。あんたからも言ってやってよ。愛紗が呉を攻めるって聞かないんだから」
詠がうんざりしたように言った。
「愛紗。呉と争うことに何の意味もないよ。魏という強大な敵がいる俺たちは、逆に呉と手を取るしか対等に渡り合う方法はない」
自身の席、端に歩み寄りながら愛紗に言う。
雛斗は左利きのため、端に座らなければ多くが右利きの人たちと肘をぶつけてしまうのだ。
「雛斗を罠に陥れた手など、私は握れん!」
「国の事情と私情は別だよ」
雛斗が目を細めた。
愛紗が思わず怯む。
「呉も単独で魏に勝てるとは思っていないはず。それにもし仮に呉とぶつかったら、その後はどうなると思う?」
「その後?」
焔耶が首を傾げる。
「あの強力な呉のことだからもし、俺たちが勝ったとしても疲弊した勝利になると思う。弱ってる俺たちを魏が見逃すはずはないでしょ」
流石に猪突なみんなにも状況が読めてきたらしい。
俺が思っていたことをわかりやすく説明してくれた。
「一刀や桃香が渋る理由はわかったでしょ。で、でも俺はそうやって愛紗が怒ってくれるのは嬉しい、けど……」
ちょっと頬を赤く染めて、語尾が聞き取れないところでそっぽを向いた。
こういう素直なところが雛斗の魅力なんだろうなぁ。
「あ、当たり前であろう。雛斗は、私にとって……」
釣られて愛紗も赤くなる。
「むう。私も怒っているのだぞ、雛斗」
愛紗の隣の星も便乗する。
「わかってるよ。……ありがと、みんな」
「ああん、もうかわええなぁヒナちゃん!」
俯いてぼそぼそ言うのに霞さんがくねくねして雛斗に飛び付く。
それを見て肩を強張らせていた人たちがようやく肩を下ろした。
「じゃあ状況把握ができたところで。これからどうしたらいい?」
「現状では呉の動きがわからないので、少し様子見をした方が良いと思います」
朱里が雛斗の方を見ながらも言った。
雛斗は犬みたいに飛び付こうとする霞さんをいなしている。
「魏の方はどうかな?」
桃香が微笑みながら雛斗を見る。
氷さんが怪我をして雛斗が落ち込むかと思ったけど、そうでもないように見える。
悪いと思うけど、ちょっとホッとした。
「国力があるとはいえ、四十万もの兵を動かしたのです。流石に次の動きまでに整える時間が必要だと思います。つまり、しばらくは呉との関係に注意するのが良いかと」
雛里も物欲しそうに雛斗を見ている。
素直に甘えてくればいいのに。
「とはいえ、魏への対策は必要か。漢中に加えて上庸、武都に多少の兵を置いた方がいいかもしれない」
「一刀も全体の戦況を見るようになったね。俺も同感だよ。ただ、兵力が厳しいかもしれないね」
霞に星も加わったのに戯れていた雛斗が聞いていたらしく、抑えて言った。
「今のところの兵力は成都に五万、永安に三万、漢中に三万。巴郡など地方に配属している四万ほど。総兵力が十五万弱、というところです」
「成都の兵は地方への増援のために、最低でも今の五万が必要です。兵を割くとしたら、地方に散らばらせている四万からになるかと」
朱里と雛里が何も書類を見ずに兵の分散状況と現在戦況から必要な配属兵数をあげていく。
全て頭の中に入っているのだろう、流石だ。
「南中は兵数が必要か、だったら益州の分散している兵を全て漢中に当てるべきか──」
「南中はたぶん大丈夫だ。美以たちがこっちにいて南中の求心力はないから」
雛斗がすぐに考え込む。
雛斗は南中戦に加わっていない。
美以たちを懐柔した形で南中を手に入れたから、こちらへの反乱の芽はないはずだ。
「──一刀がそう言うのなら南中に五千、益州の敵勢力に接していない地方に二万を配して、一万と五千を漢中、上庸、武都の守備に回ってもらったらどうかな。以前の蛮賊のこともあるし、二万は地方に残した方がいいと思う」
「雛斗、あんたの騎馬隊の件。忘れた訳じゃないわよね? 中途半端な五千を特殊な騎馬隊に回したら?」
詠は涼州に住んでいたせいか、騎馬隊の増設に積極的だった。
詠の考える騎馬隊のあり方、軍の機動力が戦を制するという考えが雛斗だけでなく、他のみんなの騎馬隊を増設することを以前から主張していた。
雛斗の騎馬隊が奇襲、強襲に特化した特殊な騎馬隊で他より数が少ないのも考えて雛斗の騎馬隊増設を進めたいのだろう。
「馬の数からして俺の兵数を増やしても馬が足りないよ。財政状況もいまだ厳しい」
国力の増加に専念している蜀は財政が少し厳しい。
騎馬隊の増設は望むところなのだが、馬の維持費なども合わせると積極的には手が出せないのが現状だ。
「なら五千は遊軍として成都近郊に布陣してもらいましょう。突発した賊を抑える役も担えましょう」
紫苑の言葉に軍師陣も賛成した。
しばらくは呉と魏がどう出るか様子見。
その間に国力増加、軍備を整える。
少しは雛斗たちも心休まる時間がとれるだろう。
雛斗は呉の軟禁から漢中、成都と休む暇がなかった。
雛斗の方を見るとまた何か考えているのか、皆がついている長い卓を見つめていた。