漢中の終息
昨日の和議の使者、黒薙が去ってからずっと考え続けていた。
気づいた時には既に真夜中になっていた。
そのために昨日は蜀軍と争うことはなかった。
黒薙の言う通りに撤退すべきか、否か。
本当なら既に撤退しているのだ。
しかしいつまでもここにとどまっているのは、やはり黒薙がいるからだ。
黒薙に私の絶対的な勝利を見せつけたい。
もっとも黒薙は忠臣とわかっている。
どんなことを言っても、どんなに自軍が劣勢になっても戦い続けるだろう。
しかし私は意地を張っている。
「誰の指示で撤退準備を!」
私は朝から声を張り上げていた。
目の前の兵は萎縮している。
昨夜も考え続け、少し眠った翌朝のことだ。
今朝、身仕度をしていると何やら幕舎の外が騒がしい。
終えてから外に出てみると兵たちが陣屋を解体しているのが目に入ったのだ。
「華琳様!」
声を聞き付けて、桂花が慌てて走ってくる。
「桂花。何故、撤退準備が?」
「どうやら楊修が指示したようです」
楊修といえば秀才と名を売っていた。
知謀に長けているようで、今回の漢中戦に伴ってきたのだ。
戦中は楊修も良策を見出だせていなかった。
すぐに楊修を呼ばせた。
色の白い男が笑みを浮かべながら悠々と歩いてきた。
「これは一体どういうこと?」
実を言うと楊修に良い印象を持っていない。
確かに知略に富んでいるようだが、その才能を鼻に掛けているのが気に入らなかった。
「失礼ながら、昨日の和議の使者との話を聞かせていただきました」
黒薙との会話を盗み聞きしていたということか。
話に集中し過ぎたか。
普段なら文官の盗み聞き程度、気配で感じ取れる。
「その中に鶏肋とありました。鶏肋は食べるほどの肉はありませんが、捨てるには惜しい。正に鶏肋はこの漢中のことを指すのでしょう」
楊修はさも当然のように胸をそらす。
確かにたいして役に立たないという意味で言った。
しかしその対象は漢中ではなく、策を絞りきれずに引き際をも見誤った私自身だ。
こんな男をこの戦に連れてきてしまったのか。
気づいた時には楊修の首が地面を転がっていた。
「片付けなさい。撤退準備を止めてはならないわ。撤退できると思った兵は、戦の役に立たないわ」
桂花が御意を得て騒ぎを聞き付けた春蘭たちにことを伝える。
負けた。
完膚なきまでに。
黒薙に勝利を見せつけることができなかった。
定軍山を見上げる。
そこには劉や蜀の旗の他に、やはり漆黒の黒旗もあった。