和議
「定軍山から和議の使者が?」
口に出して目を細める。
桂花も眉を潜めて考え初めている。
一人で考え込んでいた翌朝のことだ。
攻撃指令を出そうと考えいた矢先に兵士が幕舎に来てそう報告したのだ。
「蜀はこちらが疲弊していることくらい承知のはず。今さら使者なんて──」
「とはいえ、華琳様。あちらとて呉の存在が気になっているでしょう。蜀はほぼ全兵力を投入してこの戦に望んでおります。ここは停戦協定を結んで守りに徹したいのでは?」
確かに合肥に対するように兵を集めているとはいえ、蜀に転換しないとも限らない。
私たち魏に比べて蜀はやはり小さい。
呉が蜀の土地を併呑してから、という考えもない訳ではないのだ。
「なんにせよ、使者と会って話さなければ。目的を知ろうとしたところで可能性なんていくらでも出せるわ」
桂花が頷いて使者を連れてくるように指示した。
和議の使者は二人いるらしい。
「お連れしました」
幕舎の外から兵の緊張した声が言った。
少し震えがある気がする。
幕舎の幕が開く。
思わず息が詰まった。
「久しぶりだな。曹操」
幕舎に入ってきたのはあまり会っていないというのに見慣れた姿だった。
しかし服装がだいぶ変わり、以前にも増して線の細さと威圧が感じられるようになった。
背後には天下の猛将、呂布を連れている。
「──まさか、貴方が来るとはね」
動揺を隠そうと頬杖をついた。
隣の桂花は口を開けて閉じない。
「驚かせてしまったな。私は建業にいたのだからな」
動揺を見透かして黒薙は笑みを浮かべた。
やはり建業にいたのだ。
今の黒薙なら孫策のみならず、誰しもが配下に欲しがるだろう。
もっとも、私は黒薙の初期の頃から欲しかったのだが。
「呉の本拠である建業を脱出するとは流石黒薙、というところかしらね」
「途中まではな。曹操の部下には随分世話になった」
「──楽進、かしら?」
思い当たる節がある。
合肥には凪たち三人と凛、風を送り込んでいる。
黒薙は笑みを絶って、神妙な面持ちで頷く。
「建業を脱出した後、ここまで来るのを楽進たちに援助してもらった。一時、魏に仕えよと言われたがな」
凪だけで考えたとは思えない。
風の画策だろうか。
「しかし小さいながら呉と交戦した。呉との関係は多少悪化したと言えよう」
それは仕方のないことだ。
蜀であれ呉であれ、いずれはどちらかを攻めるのだ。
それが早まっただけのこと。
「勝手に私を援助し、呉との関係を悪化した。その罪に楽進たちは罰を受けることになる」
「無許可という訳ではないわ。程昱たちには軍を動かす権利は与えてある。しかし、外交に関しては許可はしてないわね」
「ここまでくる援助をしてもらった私としては、その罰を帳消しにしていただきたい」
やはり。
話の流れで黒薙が使者としてここに来た意味がわかった。
凪たちの恩を返したいのだ。
義に厚い黒薙らしい。
「ふむ──別に帳消しにするのは構わないのだけれど。貴方からは何をいただけるのかしら?」
桂花が何か言おうとするのを手で抑える。
「私としては恩を返したいのだが、生憎と私は蜀の臣。なんでもかんでも曹操の欲することを容易には応えられない」
「あら残念。私の元に来てもらいたかったのだけれど」
「残念だったな。しかしそう言っていられるのか? 見たところ、そちらの兵の士気はとても低いが」
黒薙ほどの男なら数人の兵を見るだけでその部隊の士気くらい把握できるだろう。
確かにこちらの士気は低い。
しかし蜀とてこちらが容易には退かないことはわかっているのではないか。
「低いとしてもこちらはまだ戦えるわ」
「果たしてそうかな? 一度(ひとたび)補給線を切れば兵が逃げ出しそうだが」
脅しか、それとも警告か。
いずれにせよ、黒薙の言うことはもっともだ。
今は補給が保たれているが、それが切れたと伝われば統制などできはしないだろう。
こちらは天蕩山を攻略されて補給頼りなのだ。
しかも長く帯陣して、未だ成果を上げられずにいる。
しかし補給部隊には護衛の兵を多くつけている。
容易には補給を絶たれることはないはずだ。
「言っておくが補給線の安全の確保は難しい。ここは山なのだ。桟道を落としてしまえば完全に袋の鼠だ」
そう、地形慣れしていないのが今の私たちの弱みだ。
あちらは歩兵どころか騎馬すらも庭のように山を駆けている。
そして私が一番恐れているのは補給線の桟道を切られることだ。
そうなれば長安からの補給が完全に絶たれ、孤立する。
「こちらは迎撃できる策をいくらでも用意できるのだ。曹操、既に引き際ではないか?」
そう来たか。
桂花は唖然として黒薙を見ている。
黒薙、蜀はここまでの魏の劣勢に追撃をかけず、逃がしてやろうというのだ。
圧倒的に兵の多いこちらに身を低くすることなく、こちらと対等な態度で交渉を仕掛けてきた。
いや、寧ろこちらが及び腰になっているかもしれない。
「こちらからの提示は、楽進たちへの罰の取り消しだ。代わりに魏の撤退には手を出さないことを約束しよう」
「な、何を馬鹿なことを! 兵力ではあなたたちを圧倒しているのよ」
流石に桂花はきつい口調で反論する。
「荀彧だな? 魏一の参謀は今の戦況すら読めないか。いや」
桂花がまた口を開きかけたが、黒薙が言葉を続ける。
「受け入れ難いだけか。わからんでもない。魏はこれまでの戦をほぼ勝ちで納め、負けをあまり知らぬのだからな」
袁紹との官渡戦も、馬騰との涼州戦も、劉備軍との徐州戦も勝ってきた。
とはいえ、黒薙との漢中戦はこちらの負けと思っているが。
「なんですって。あなた、曹操様を前になんて無礼を!」
桂花が怒鳴り、その声を聞き付けた兵二人が幕舎の幕から黒薙の背後に飛び込んでくる。
「……動くな」
しかし呂布が持っていた戟を構えて兵に背を向ける黒薙の前に立つ。
兵は呂布の殺気に怯えている。
「曹操。貴女なら見えているはずだ。それとも、私が実際に補給線を切ってやろうか」
背後を振り返ることはなく、黒薙はじっと私を見つめてくる。
その目の中にある深い黒い湖。
それは相変わらず美しい。
ふと、今日の朝食を思い出した。
「──鶏肋、ね」
自嘲気味に呟いた。
桂花はそれを聞いて一瞬考え、すぐにこちらに目を見開く。
黒薙も少し考えた。
「──私が決めることではない。が、私は別段悪いことではないと思う。今ここで決めることはない。三日待とう。明日から三日待って撤退しない場合、背後はないと思え。楽進たちを罰しないことも条件付きだ」
「最初から罰するつもりなどないわ。そちらは約束しましょう」
「──賢明な判断を期待する。行くぞ、恋」
「……(コクッ)」
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「……雛斗」
「うん?」
黒鉄ではない馬に揺られながら定軍山を登っていた。
既に魏軍から離れ、魏兵は定軍山から離れた丘で待機している。
曹操の命令を待っているのだろう。
たぶん、この三日は攻めてはこないと思う。
曹操は悩むか、それとも即決するか。
「……外に誰かいた」
「──わかってたよ」
そう返すと恋はこくりと頷いた。
「……あれでよかった?」
「聞き耳立てるくらい、別に気にすることじゃないよ。もしかしたらこちらの思惑通りに動いてくれるかもしれない」
「……??」
「わからなくていいよ。とにかく、この三日は魏に動きはないと思う。その間に呉とのやり取りを考えなきゃいけないか──」
たぶん、愛紗や星は怒ってると思うからそれを抑えつつ冷静に話し合わないと。
一度、山の中腹から魏軍を振り返り、すぐに顔を前に戻した。