あなたが欲しいから
幕舎の中は外からの夕陽に照らされ、戦況に反して温かい色をしている。
椅子に座り、何を見るともなく卓を見つめる。
天蕩山が陥落してから数日経つ。
山の砦には蜀の旗が掲げられ、忌々しくも悠々閑々と風にはためいている。
守将の秋蘭は春蘭の単騎突撃に助けられ、こちらに戻っている。
恥じて自害を請うたが、負けたくて負ける者などこの世に居はしない。
それに秋蘭ほどの逸材を失う訳にもいかない。
そうして叱咤してから天蕩山陥落の詳細を聴くと黒永の策ということがわかった。
(「黒永と言えば、黒薙の従者だったわね? 桂花」
「はい。洛陽在住から今まで黒薙に付き従っています。南中の侵攻軍抑える以外に目立った戦功はなく黒薙の補佐役、正に従者としか言えない者です」
「ふむ。能力的にはどうなのかしら?」
「別段、戦に秀でた者とは言えないかと思われます。逆に内政、国政に関しては諸葛亮や龐統と共に任されているほど優れたものを持つようです」
「私が天蕩山で対峙した黒永は能吏という言葉とはかけ離れた、黒薙に似た武人としての姿が強かったです。打ちのめしはしましたが、不屈の目をして戦う意志を解きませんでした」)
「──また黒薙、ね」
誰もいないからと小さく呟いた。
今は黒薙は建業だろう、とやはり甘く見ていたのか。
漢中の自然の要害にまともに触れていなかった。
こちらは損害ばかり、今回の件で膨大な量の兵糧も失った。
しかし、どうやら長安からの輸送を乱していたのは黒永の部隊だったらしい。
天蕩山陥落から毎日あった輸送妨害の報告がぴたりと止んだのだ。
黒永は秋蘭と対峙した際、負傷して背後に送られ、成都で療養しているらしい。
兵糧の輸送が滞りなく届いていること、兵力はいまだこちらが遥かに勝っていることからまだ退かずに対峙を続けていた。
「なにを意地になっているのかしらね」
また虚空にぼやいた。
今の私はおかしい。
普通なら既に撤退を指示するはずなのだ。
それを何かと理由を付けて漢中にとどまっている。
いや、何故かはわかっている。
黒薙に勝利を見せつけたいのだ。
蜀対魏の圧倒的な勝利を黒薙に突き付け、黒薙をまた勧誘しようとしているのだ。
馬鹿なことをしている、と自分でも思う。
黒薙は忠臣中の忠臣。
どんなに自勢力が劣勢になろうと最後まで今の主、劉備に尽くすだろう。
そんなことはわかりきっているはずだった。
しかし、止められない。
やってみなければわからない、と自分の中で訴えている。
「あと、一月。それまで続けて、駄目なら撤退ね」
口に出して呟いていた。
そうしなければいつまで経っても漢中を撤退しないだろう。
───────────────────────
黒薙が逃げた。
それも魏領に向けて走って行った、と明命は歯を食い縛りながら報告していた。
今は探索部隊を引き上げさせ、私は自室の寝台に仰向けに寝転がっていた。
手元から大事な脆い玉を落として割ってしまったような──いやもっと強い、胸の中に穴がぽっかり空いたような何とも言えない絶望感が身体を支配していた。
窓から差す孫呉に似た燃えるような陽の光が鬱陶しい。
腕で目を覆うが、それでも光は目につく。
好きだった。
ただただその姿を、雰囲気を、心情を愛して止まなかった。
「──忠義の神髄、ね」
半ばわかっていたことだ。
黒薙は忠臣中の忠臣。
孫呉に降ることはしないことを。
しかし、それでも。
「私の側にいて欲しい──」
この胸を埋めて欲しい。
それは黒薙をこの手に抱かない限り、一生埋められない気がした。