定軍山の戦い5
世界が揺れた。
肩から地面に倒れ込む。
すぐに立ち上がろうとしましたが、剣を地面に刺して上体を起こすのがやっと。
太股と剣を持つ方の右肩に矢が刺さっていて力が入らない。
特に足に力を入れようとすると鋭い激痛が走ってまったく動かせない。
「その腕にしてはよくやった。流石に黒薙の配下なだけある」
夏候淵が肩すら揺らさず、無感情に私を見下ろす。
やっぱり私が敵うはずもなかった。
夏候惇と二人で成す双璧。
それは堅すぎました。
「そしてその不屈の目。お前は黒薙に似ているな」
弓矢を構え、狙いを私の胸、心の臓につける。
地についている腕に力を入れ、後ろに転がりうつ伏せに倒れ込む。
かろうじて矢を避けましたが、剣を手放して息も絶え絶え。
もはや力も入れられません。
「諦めたらどうだ。もう体も動くまい」
「私は、黒薙様の永遠の従者です。まだやることが多く残っています」
苦しい呼吸で言い捨てる。
まだ雛斗様は呉に捕らわれている。
雛斗様は存命なのです。
この目で雛斗様の無事なお姿を確認するまで死ぬ訳にはいきません。
「お前はよくやった。後世まで語り継がれることだろう。この夏候妙才を出し抜いたのだからな」
再び夏候淵が矢をつがえる。
体に力が入らない。
土埃が目に入って片目しか開けられない。
その目もぎゅっと閉じた。
まだ死にたくないです。
雛斗様と共に居たいです。
雛斗様──。
軽い音と共に鉄の打ち合う音が聴こえた。
続けてまた軽い音。
その音は私より遠くから聴こえた。
「氷! 無事か!?」
重きのある女性の声の次に岩を砕いたような重い音が耳に入る。
「くっ。何者だ!」
夏候淵の声が遠退く。
頭を振って滲む目を開けた。
「桔梗様。紫苑様」
「遅れてごめんなさい。でも間に合ってよかったわ」
二人は矢をつがえ構えつつ私の前に立ち、夏候淵と対峙する。
ということは、北郷殿は開城に成功したようです。
「北郷殿は?」
「既に脱出した。我らの部隊が天蕩山を制圧しつつある」
桔梗様の重厚な武器が目の前に頼もしい。
「大手柄よ。雛斗さんも喜んでくれるわよ」
「まだ私がいる。私が生きている以上、天蕩山は渡さん」
この状況でも夏候淵は弓を下ろさない。
やはり生粋の武人です。
「黄忠と厳顔だな。定軍山左右の砦にいたはず」
「ふん。山の地形を活かせばあのくらいの包囲、我らの騎馬隊によれば貫くことなど容易(たやす)いこと」
「黒永の策に呼応してのことか。計算尽くしての天蕩山奇襲か。ますます持って、流石と言っておこう」
「じきに天蕩山は完全に私たちの手に落ちるわ。貴女はどうするのかしら? 夏候淵」
「愚問だな。天蕩山は渡さん」
今にも矢を放って対戦を始めそうです。
緊張が場を制して溢れてきそうです。
「秋蘭!」
突然、私たちの後ろから怒声が聞こえた。
「姉者!?」
夏候淵が目を見開く。
姉、ということは夏候惇でしょうか。
桔梗様が私を抱えて道の脇に跳ぶ。
私の居たところに刃が走った。
「天蕩山はもう駄目だ! 援軍は砦を出た敵の騎馬隊に背後を突かれて役に立たない。門が閉じる前に逃げる!」
夏候淵の前に夏候惇が立った。
つまりは単騎で天蕩山に殴り込んできたということでしょうか。
眼帯のない片目が私たちを睨む。
「しかし」
「お前をなくして華琳様になんと報告すればよいのだ。早く去るぞ!」
「──致し方ないか」
苦渋したが、夏候淵は頷きこちらを窺う。
「夏候姉妹を討ち取ってしまえば魏の力は確実に弱まるわ」
「然(さ)もありなん。逃がす訳にはいかんな」
紫苑様たちに容赦する気配はない。
夏候惇たちが走り出すのを射撃するが二人の見事な連携に払い落とされ避けられ、遂に逃がしてしまった。
「逃がしてしまったか」
「それはいいわ。とにかく今は氷さんの手当てをしないと」
紫苑様が兵に布を持ってこさせ、血の目立つ箇所に当てる。
「申し訳ありません」
「なにも誤ることなどない、氷。儂らは勝ったのだ」
「北郷殿も褒めて差し上げてくださいね」
「それもそうね」
二人して笑うのに私も脂汗を額に浮かべながら強張った笑みを返した。
意識は遠退かない。
まだ死なないで済むらしいです。
天は私に傾いてくださった。
そして雛斗様にも力を頂いた。
そうでなければこうして生きていません。