借り
「楽進様。建業でおかしなことが起こっているようです」
昼過ぎの水軍の調練の最中に報告に来た兵が言った。
呉に斥候として放った一人だった。
沙和や真桜たちと合肥に赴任してからまだそれほど経っていない。
漢中の戦の報告が毎日入ってくるが、あまり思わしくない。
しかし兵糧はまだ持つらしく、まだ華琳様は漢中にとどまるようだ。
黒薙殿と戦えないのにまだ続けることに意味はあるのだろうか。
それはまだしも、この戦での兵糧の消費は膨大なものだ。
あまり続け過ぎると兵も疲弊する。
そろそろ退いた方がよいのではないか、と思っていた矢先のことだ。
「おかしなこと?」
側で一緒に調練していた沙和が興味に惹かれる。
真桜も水面を見つつも耳を傾ける。
「建業近くの漁民から聞いた話なのですが、なんでも建業に軟禁していた捕虜が逃げ出したとか。呉は少数の兵を挙げて探索に乗り出しています」
それを聞いて沙和や真桜は私を見た。
黒薙殿の姿を思い出していた。
許都で会議した時に建業で捕虜を軟禁したと情報が入ったが黒薙とは確定しなかった。
確定していないとはいえ、呉の本拠である建業の監視を攻略して脱出する芸当を成せる者はそうそういない。
黒薙殿と見て間違いないのではないか。
「捕虜の容姿は?」
「そこまでは。ただ建業から少し離れた長江沿いで暴れている者がいるようです」
「そこまで案内できるか?」
「ちょ、凪。まさか思うけど」
私の思惑に感づいたのか真桜が訊いてくる。
「その捕虜をこちらに引き込みたい」
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何人の兵を倒したのだろう。
短い剣を槍で防ぎ、そのまま兵の腹を蹴り飛ばす。
その後ろにいた兵ごと巻き込んで蹴られた兵が倒れる。
その隙を突こうと後ろから兵が剣を突き出す剣を辛うじて避け、少し後ろに退いて兵の持つ剣を腕ごと脇に挟み込み、手を叩いて剣を落とさせてから脇を緩めて後ろに向く回転を利用して回し蹴りをする。
その回転も利用して槍を振り回し、近づいてきた三人まとめて打ち倒す。
「黒薙様の周囲を囲んで絶えず攻撃してください! 黒薙様を疲れさせるのです!」
周泰も背中の太刀を構えて突っ込んでくる。
回転の攻撃後の隙を突いてくる鋭い攻撃だ。
懐を狙った袈裟斬りを足元に刺さっていた剣を逆手に抜いてなんとか防ぐ。
続けて返す太刀に回転から止めて溜め込んだ槍で突く。
周泰は返す太刀を攻撃ではなく回避に使い、突きの標準をそらして防ぐ。
すかさず逆手に持った剣を持ち直して斬り上げる。
「くっ!」
周泰は両手で太刀を構えてなんとか攻撃を防ぐ。
そのまま刃を返そうとも思ったけど危険を感じて周泰は後ろに下がった。
周泰の側に兵が数人集まる。
「流石です、黒薙様。全く歯が立ちません」
ギリギリの戦闘に周泰が肩を揺らす。
いつの間にか俺の周りには二十数人の兵が転がっていた。
「逃がしてくれるのか?」
「まさか。是が非でもあなたを連れて帰ります」
「ふむ。案外強情だな」
消耗が激しい槍を足元に捨て、周泰に向けて歩いて近くの槍を引き抜く。
まだ終わりそうもない。
周泰の側には三十人ほどの兵がいる。
それに恐らく建業にも伝令を送っているだろう。
援兵が来る可能性がある。
ここに長くとどまっているのはまずい。
不意に聞き慣れた軽い音が聴こえた。
反射的に音がした方に向けて槍を払った。
数本の矢がはたき落とされる。
「何者!?」
周泰も斬り払って矢を落としている。
矢の放たれた方を見る。
やや遠くに数人の青い鎧の兵が弓矢を構えていた。
あれは魏兵か?
何故呉の領地に。
しかし、それを考えている暇はない。
今が好機だ。
迷わず魏兵と思われる部隊に駆けた。
「黒薙!」
一瞬時が止まった気がした。
孫策の声だ。
さらに背中に周泰の声がかかるが無視して槍と剣を構えて走る。
魏兵は矢を放つが俺の後ろの呉兵に射撃していて俺を狙う素振りもない。
構わず魏兵の隊列を駆け抜け、長江に出た。
「──楽進」
その姿を見て言葉を漏らしていた。
長江にとめた数隻の小舟の前に楽進が立っていた。
「やはり黒薙殿でしたか。建業を脱出したという御仁は」
「情報が早いな。しかし何故ここに?」
「程昱殿の策です。呉兵と魏兵が入り乱れる隙を黒薙殿が見逃すはずはない。黒薙殿でしたら十中八九、魏兵に紛れ込んで混乱を狙うだろうと」
「流石程昱、確かにその通りだ。それで?」
槍と剣を構える。
しかし楽進に構える気配はない。
「黒薙殿は蜀に戻りたい。そうですね?」
「無論だ」
「これからどうするおつもりですか?」
「馬か舟を使って蜀領まで戻る」
「魏か呉の領土を通らなければなりません。それを許されるとお思いですか?」
「なにが私の前に立ちはだかろう構わん。だが私は蜀に帰るぞ」
「……やはり忠臣ですね」
「お前もな」
「だからこそ、私はお願い申し上げたい。どうか、一度魏に属していただきたい」
「──見返りに魏領を通すか?」
楽進の考えとは思えない。
俺を忠臣と呼んでいるのだ。
程昱の案か。
「黒薙殿は蜀領ないし漢中に行きたい。魏で相応の働きを頂ければ魏領を通って漢中に行くことを認めましょう」
「──つまらぬことを言うものだ」
槍と剣を下ろしてその場を歩き出す。
「黒薙殿」
「私は黒薙だ。蜀の臣だ。もう言い飽きた」
振り返り言い捨て、また歩き始める。
しかしすぐに服の袖を引かれた。
「──お待ちください。私をお斬りください」
「っ!? 何を言う」
振り向くなり言われた言葉に思わず手を引くけど楽進の手は離れない。
「私を斬り、後ろの小舟を使って蜀にお向かいください。水夫(かこ)は近辺の漁民です。逆らうことはありません」
「──お前はどうする?」
「黒薙殿を逃がした非があります。その謗(そし)りは甘んじて受けます」
「それだけではない。呉との関係を悪化した。その非についても咎(とが)められよう。そうまでして私を逃がそうとする理由はなんだ?」
「黒薙殿を心底から尊敬しているからです。それに黒薙殿に私は借りを二つ作っております」
「五丈原の会談でもらった」
「やはりそれでは足りません。貴方が私にして頂いたことは、私にとって今を生きていることなのです。私は生かされているのです」
楽進の袖を握る手が震える。
生かしたのは惜しい武人であったからだ。
そして自分の元に来てもらいたかった。
共にいたいという想いはやはり今も変わらない。
「楽進のことだ。私の元に来い、と言っても来ないのだろう」
「──まだ私をそのように評価してくださいますか?」
「私は失いたくないのだ。お前のような忠義の武人を。いずれ戦うことになっても、私が勝ってもやはりお前を生かす。お前が私の元に来るまで何度でも勝ってやる」
「…………」
楽進が我を忘れて口をぽかん、と開けている。
「──忠義の武人なら、私はやはり魏を裏切ることはできません」
「それでいい。戦って、負かして、生かして。それを繰り返してでも。いつか私はお前を迎えよう」
楽進の腹を打った。
「かはっ……!」
「そしてやはり、お前が謗りを受ける必要はない」
意識が遠退いていく楽進の身体を支えた。
意外に華奢な身体だった。
上着を脱いで土に敷いて楽進をそっと横たえてから小舟に歩く。
「──程昱」
小舟に隠れて見えなかった小柄な身体がこちらをじっと見ていた。
水夫は困った顔をしている。
「やはり黒薙殿は蜀以外に属さないのですね」
「私を試したか?」
「恐れ多いことを致しました」
「いや。私でもそうしたかもしれない。──すまないが舟を借りるぞ」
「その前にお聞かせください。黒薙殿の理想の主は誰なのですか?」
理想の主。
その言葉に意味はあるのか。
だけど、これだけは言える。
「三国の君主。今は劉備殿に仕えているが、最初に仕えていたならば私はどの君主でも一生その主に付き従おう」
「──黒薙殿の言う英雄に、ですね」
「──お前も同じであろう」
程昱が小さく頷いた。
五丈原の会談でのことだろう。
今の三国の君主なら、民たちに善政をしてくれる。
そして正しく英雄なのだ。
「舟よりも馬が良いでしょう。呉は屈強な水軍を持っております。蜀に向かって長江沿いに馬を用意しております」
「すまない。この借りはいずれ必ず返す」
「返さずとも良いのです。それよりも黒薙殿、道中お気を付けて」
「また会おう」
頭を下げ、剣を腰に差してから走り出す。
仕事が増えた。
必ずやり通さないといけないし、その前に待たせられない。