脱出
不意に胸の奥が詰まった。
閉じていた目を見開く。
窓から注ぐ日に照らされた向かいの椅子には誰もいない。
孫策の妹の孫権と会見した。
どうということはない、質問に答えただけだ。
ただ孫権はいい目をしていた。
とても捕虜の言葉を聞く目とは思えなかった。
椅子から立ち上がる。
胸のはやりは収まらない。
何か自分が急いているような、焦りにも似た感じ。
漢中に向かわなければ。
それだけ自分の中に出てきた。
いや、捕らえられた時からそれしか考えていなかった。
行動に移そうと考えたのは初めてだ。
椅子にかけていた上着を肩に羽織り、手甲をはめ、なにも私物がないことを確認してからゆっくりと窓を開いた。
「ゴメン、孫策」
窓の下の兵に気付かれぬよう、ひっそりと言った。
約束は約束だから。
物音を立てないように窓を飛び出した。
待ってて、今行く。
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「合肥に動きはありませんねぇ。防備を固めているだけです~」
穏が気の抜ける口調で報告する。
切羽詰まった時もこんなんだけど。
「漢中に専念したいのだろうな。二つの戦線に目を向けていたら隙ができる」
冥琳が淡々と言った。
昼も過ぎて、この後少し時を置いてから再び黒薙の説得に行く。
毎回同じ言葉しか交わさないが、冥琳は然程気にかけた様子はない。
黒薙と喋ることは苦痛ではないのだ。
黒薙の信念に惹かれてさえいる。
会議の場には私と冥琳、穏の三人だけがいる。
祭と思春は水軍の調練、蓮華はその視察に向かっている。
蓮華は黒薙と対談してから説得を続けることについて口出ししなくなった。
黒薙を認めたのだ。
思春はまだわからないが、やはり蓮華は黒薙の器量を無視しなかった。
「兵を多少荊州に移しても動くまい。二万ほど江陵に移動させるか──」
長い卓上の地図を見つめて考え込む。
呉はまだ魏に比べて兵力も国力も及ばない。
数で劣る兵を隙なく配置したい。
隙をなくして膠着している間に兵力を少しでも増強しなければ。
「失礼します!」
明命が音もなく現れた。
少し汗をかいている。
「何事だ」
「黒薙様が脱走しました! 既に兵舎を抜け、城下町に向かっています!」
思わず椅子を蹴立てて扉に向かった。
冥琳や穏の声が背中にかかったが無視して外に出た。
なんでなの。
どうしてこうも私から離れたがるの。
「黒薙……!」




