定軍山の戦い4
城壁からそれほど離れていない定軍山に目を細める。
真上をいくらか過ぎた日が照らす旗は緑を基調とする劉旗だ。
やはりあれが変わることはなかった。
やはり、と考える辺り自分も多少気疲れしているのかもしれない。
疲れている訳ではないか。
この戦況に飽き飽きしているのだ。
天蕩山に就いてから数日経つ。
変わらない戦況にこちらの兵の士気は明らかに落ちている。
こればかりは仕方ない。
どんなに訓練された兵でも例外なく意気消沈するだろう。
たとえ黒薙でも。
「──黒薙なら、なにを考えるのだろうな」
姉者が隣にでもいるかのように一人ごちた。
姉者は相変わらず意気揚々と張飛や趙雲の守る砦に攻め登っている。
黒薙ならどうやってあの砦を攻め奪るだろう。
姉者と違って闇雲に攻めることはしないだろうが。
あの会談から一人になると黒薙のことをしばしば考えるようになっていた。
どうもあの顔がちらついてならない。
私と姉者との会話を見て苦笑いした、緊張感のまったくない表情。
戦では毅然として威圧してくる神出鬼没の黒い龍。
しかしあの時ほんの一瞬見せた姿は天下の名将とは思えない、黒龍とはまた違った魅力を持った普通の少年だった。
「華琳様もそこに惹かれたのか」
そう考えると特に疑問も不思議もなかった。
私だって興味を持ってしまっているのだ。
凪にもそんな節がある。
それどころか尊敬している。
魏の娘たちの多くは黒薙に何かしらの感情を持っているが、凪や風はそれが強い気がした。
ともかく未だ動かぬこの戦況も時間が経てばこちらに有利に動いてくるはずだ。
国力はこちらが圧倒的なのだ。
勝てる見込みは充分にある。
そうでなければ華琳様がここに居座り続けたりはしない。
暫く定軍山を眺めているとこちらの山の麓から登る部隊があった。
輜重隊にしては兵数が多い気がする。
「長安の輜重隊です。入城の許可を」
気になって城門上に移動する。
城門前に整然と隊列を組む兵はいつもよりいくらか多めの兵糧を積んだ輜重を囲んでいる。
先頭の指揮者はやや緊張気味な張りのある声だ。
「守将の夏候淵だ。いつもより兵が多いようだが」
城門に立ったまま訊く。
「殿のご配慮により、護衛の兵を付けてくださいました」
なるほど。だから兵がいつもより多く、輜重隊が襲われることなく多く兵糧を運ぶことができたのか。
兵糧は多く備えて損はない。
華琳様に感謝しつつ、輜重隊を城内に入れた。
「どちらまで運びましょう?」
「蔵に運び入れてもらいたい。案内の兵を出そう」
指揮者はなかなかの器量人らしい。
兵の指揮がとても一隊長とは思えないほど的確だ。
こういう人材を華琳様は好む。
後で護衛の感謝と共に報告しよう。
「では後は頼む。兵糧の量などの報告は案内の兵に伝えてくれれば良い」
「はっ」
はっきりとした返事に頷いてから城に戻った。
「──始めてください」
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「華琳様。少し休まれてはいかがですか?」
桂花が報告書から目を離す。
最近はため息が増えて桂花に声を何度もかけられている。
疲れている、と自分でもわかっている。
しかし兵はそれ以上の士気という精神的な疲れを抱えながら戦っているのだ。
「大丈夫よ。それより左右の砦の侵攻はどうなの?」
「はい。進展はないです。ただここ最近、矢による迎撃が減っているようです。どうやら矢の量に限りがあるようです」
それはこちらにとっては有利だ。
黄忠や厳顔による弓兵の迎撃は砦到達までの大きな障害だった。
落石がまだあるにしてもそれも数に限りがあるはず。
「攻撃を続けなさい。奴等の迎撃手段を減らしていけば兵力と国力で勝るこちらが有利になるわ」
「春蘭と流流に伝達します」
凪や凛たちを合肥に割いたため、凪たちが担当していた砦に季衣と流流につかせた。
秋蘭は天蕩山に向かわせた。
あそこには長安からの輜重を溜め込んだ貯蔵庫だ。
落とすわけにはいかなかった。
「殿! 輜重隊の兵が」
幕舎の外からだ。
「入りなさい!」
咎めようとした桂花を抑えて許可した。
何か嫌な予感がした。
鎧甲冑のない、土埃にまみれた兵を抱えた兵が転がり込んできた。
「一体どうしたと言うの?」
「ちょ、長安の輜重隊が桟道を抜けた地点で敵の攻撃を受け壊滅! 輜重を盗み出されました」
輜重が盗まれたことより、鎧もつけない兵が気になった。
「あなた、装備はどうしたの?」
「敵にもぎ取られました。他の兵もほぼ全て」
「──嫌な予感がするわ。秋蘭に伝令を送りなさい。警戒を強めるよう、と」
「か、華琳様!」
流流がとても焦った様子で駆け込んできた。
「まったく。今度はどうしたの?」
立て続けの問題に苛つきつつも訊いた。
「左右の砦から騎馬隊が突撃して! 黄忠と厳顔の部隊が我らの部隊を突破して天蕩山に向かいました!」
苛ついた熱に水をかけられ、思わず息を飲んだ。
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「は、早く消せ!」
「誰だよ! 篝火を倒したのは!」
蔵から上がる黒い煙に兵たちは慌てて対処する。
一つしか上がっていないが、蔵の燃えようは相当なもので下手をすれば隣に移ってしまいそうです。
「北郷殿。ここからが正念場です。なんとかして城門を開けて紫苑様と桔梗様を迎え入れなければなりません」
輜重に燃え移らないように移動させつつ、側にいる鎧姿の北郷殿に言います。
私も甲冑をかぶっていて輜重を囲む兵は皆、雛斗様の兵で魏の兵装をしています。
長安からの輜重隊を襲って装備を奪って変装したのだ。
その前に朱里たちと連絡をとって天蕩山攻略に乗り出した。
煙が上がったら紫苑様と桔梗様の部隊が包囲を突破して天蕩山に攻めかかる。
「城門に向かってください。しかし、怪しまれてはいけません。警戒されることなく城門まで行って開城するのです」
「わ、わかった!」
慣れないらしい武装をかちゃかちゃ言わせて頷く。
輜重が燃えないようにという名目で移動させ、兵の多くを兵舎に散らばらせて数人で城門に急いだ。
騒ぎを大きくするため兵舎に火事を伝えるのだ。
「そこ、待て!」
思わず鳥肌が立った。
後ろからかけられた声は先に聞いた。
魏の猛将、夏候淵だ。
「先程の輜重隊だな。どこへ行く?」
「ひょ、氷さん。どうすんだ?」
弓を片手に夏候淵はこちらに歩み寄ってくる。
何も言わずに抜刀した。
夏候淵は恐るべき反射でそれを弓で受けた。
「なっ! 何をする!」
夏候淵は弓矢を構えた。
流石に歴戦の将、不意打ち程度受けてはくれない。
鎧甲冑を外して落とす。
「私が夏候淵を押さえます。北郷殿は兵たちと共に城門を開城してください。それを叶わなくしては計画は台無しです」
「け、けど氷さんは!?」
「雛斗様をお助けするまで、私は死ぬつもりはありません。早く行ってください!」
一瞬たじろいだが、北郷殿は兵と共に駆けていった。
「お前、黒永だな? 黒薙一の臣下。なるほど、兵の指揮も大したものの訳だ。この騒ぎもお前の策略か」
矢をつがえたまま私を睨んでくる。
いつもの服装になると剣を両手で構えた。
「良いのですか。他の騒ぎを抑えなくて?」
「騒ぎならなんとでもなる。今は城門を開城させないことが第一だ。そこにお前は立ちはだかった。なら、お前と戦うしかあるまい」
流石に冷静に状況を把握している。
「時間もない。頭は冴えるようだが武勇はどうかな」
「私は黒薙様ほどの知略も軍才も武勇もありません。しかし黒薙様に教わった全て。それら全てを駆使して他の将に劣るとは思いません!」
「ならばこの夏候淵、敬意と我が武を持ってお前と打ち合おう!」
その声と共に夏候淵は矢を放った。
雛斗様、私は貴方をお助けするまで絶対に死にはしません。
どうか、私に僅かでも力をください。
腹の底から声を上げて夏候淵に立ち向かった。