抜けずの快刀
「はあ。いつまで駄々をこねているつもりだ?」
呆れた様子で冥琳が息をついた。
正面に座る黒薙はそれを気にした風でもない。
むしろ、何も聞いていないように見える。
目を瞑って腕を組み、瞑想しているかのようにただ黙って冥琳の説得を聞いている。
黒薙は駄々をこねている訳ではない。
信念を貫いているだけで、それは黒薙にとって我が儘(わがまま)ではないのだ。
我が儘というより、それが当たり前と考えている。
冥琳もただ呆れている訳ではなく、黒薙の忠誠に感心しているのだ。
黒薙を軟禁してから二十日以上経つ。
漢中の戦いは一向に変わらない。
蜀は防戦一方で魏が攻めあぐねている。
それはこちらも同じで黒薙はいつまでも首を縦に振らない。
「まだお前は死ぬ訳にはいかないのだろう? だったら少しの間でも我らの傘下に加わるのだ。蜀に戻るのを考えるのはそれからでも遅くはなかろう」
「何度言おうと無駄だ。私は蜀の臣。二君に支える気はない」
目を開けずに言った。
その中性的な声は透き通っていて耳にすっと入ってくる。
なんの恐れもない、死すらも恐れていない芯の通った声色だ。
「それが駄々をこねている、と言っている。お前は生きるために、私たちと戦うのだ」
「たとえ一度でも貴女たちの傘下に入るつもりはない。私を待つ皆を、私は決して裏切らない。それ以外に言葉はない」
なおも言葉を続けようとする冥琳が口をつぐんだ。
黒薙はこれで話は終わり、というように目を開いて冥琳を見た。
その黒い瞳はやはり湖のように澄んでいる。
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「まったく。本当に頑固だな」
冥琳がまた息を吐いた。
私は苦笑するばかりだ。
いつもは冥琳が苦笑いをすることが多いのだが、今は説得を見守るだけの私が肩を竦めている。
説得については冥琳に一任する、と決めたのだ。
そろそろお昼時。
黒薙にも勿論昼食が与えられ、昼食の時間までが冥琳が説得する時間なのだ。
廊下の窓から差す光は温かい。
「私が説得しても良かったのに」
「お前ではいつ勝手に抱き付いたりするか分かったものではないからな」
「私だってそんな節操なしじゃないわよ」
いつもは明命に説得する冥琳の護衛を頼んでいるが、今日は私が同行した。
思春は知らないが、明命は黒薙を配下に説得することについて特に異議はないようだ。
むしろ、歓迎という雰囲気がある。
黒薙を尊敬して止まないからだろう。
祭も異論はないようだが、蓮華は良く思っていない。
関わっていない、自身の目で見ない者はあまり信用しない蓮華らしい。
名将と名高いだけで性根では何を考えているかわからない、とでも思っているのかもしれない。
一度、蓮華に黒薙と会わせても良いかもしれない。
黒薙の英雄の覇気は蓮華にも良い影響を与えるはずだ。
「あ、お姉様」
と、私が考えていることを察知したかのように蓮華が廊下の曲がり角から現れた。
「どうしたの? 黒薙の説得なら失敗したわよ」
「面目ないです」
「冥琳が何日もかけて説得しているのに、ですか? 黒薙はそれほど頑固ですか?」
「頑固っていうより、忠臣なのよ。それを今は頑固っていうのかもしれないけど」
「忠臣と一言で言えどそれを当たり前だと思い、主君のみならず蜀に待つ者全てを裏切らない。黒薙は正に忠臣中の忠臣でしょう」
冥琳が言うと蓮華は窓の外を横目に見た。
「──お姉様、黒薙と話をさせていただけませんか?」
少し間を置いて口を開いた。
「あら、気になるの?」
「お姉様や冥琳が執着する黒薙がどんな男が見るだけです」
「それを気になると言うのではないのですか?」
冥琳がからかうように言った。
「冥琳とお姉様ほどではありません」
それに冥琳と私は苦笑した。
事実なのだ。
「話してみれば? 実になる話が聞けると思うわよ」
「今は昼食です。少し間を置いてからの方が良いかと存じます」
「わかりました。一応、思春は連れていきます」
言ってから蓮華は失礼します、と私たちの横を通り過ぎた。
黒薙が蓮華に何をするとも思えないが、まだ認めていないのだから仕方ない。
「黒薙は蓮華とどんな話をするかしら」
「黒薙から話すことはしないだろう。ただ訊かれたことに答えるだけだ。それに彼女も質問をするだけだろうな」
「まあ、そこは心配しないわ。蓮華は絶対に黒薙を認めるわ」
曹操さえ認める男なのだ。
蓮華が認めない訳がない。
蓮華も黒薙の虜になるのか、と考えていることに気付いて思わず頬が緩んだ。
それならそれで良いかもしれない。
姉妹で、それこそ冥琳も含めて黒薙を取り合っても良い。
しかし、黒薙が出した手を取ることはないだろう。
払うこともしないだろうが、目を閉じて蜀に帰ることしか考えていないのだ。
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「合肥の兵が集まっている気配があります」
明命が昼食を終えて城に戻ったところに音もなくやってきた。
「交州の治政が軌道に乗り始めたからな。それを見越しての警戒だろう」
冥琳が眉をひそめた。
冥琳の言う通り、蜀と魏がそれぞれ勢力拡大に乗り出したのと同じくして押さえた交州がようやく安定し始めた。
そこで拡大した土地や人口に合わせて兵数をさらに増やして軍備を整えようとした──その矢先のことだ。
「さらに漢中侵攻に従軍していた郭嘉や程昱、楽進、于禁、李典が合肥の戦線に配備されました」
「首脳とも言うべき二人をこちらに回してくるか」
冥琳がさらに考え込んだ。
楽進たちはともかく、郭嘉と程昱は曹操が抱える参謀の中でも筆頭だ。
「警戒されて過ぎのような気がするけど」
「交州で徴兵を始められたら嫌でも目に入る。超過な警戒をしておいて悪いことはない」
「どうするの? 軍師殿。別にまだ合肥を奪ることを決めてた訳じゃないけど」
「特に目標を決めていた訳ではないのだ。こちらも警戒するだけでいいだろう」
こちらの冷やかしを気にするともなく言った。
「朱治、朱然、徐盛を戦線に回せ。指揮は穏に任せる」
「はっ」
冥琳の言伝てを聞き終えて短い返事をして明命はさっと消えた。
黒薙のことをどう思っているか訊いてもよかったかもしれない、と今さら思った。
「蜀にはいいの?」
「特に警戒せずとも何もない。警戒したら逆効果になるかもしれん」
黒薙を手放さないという意思表示とも取られかねないし、加えて関係も悪化するだろう。
「魏がこちらにも目を向けるとなると、漢中の戦線の戦力低下は免れまいな」
「──漢中もそろそろ、かしらね」
漢中で魏の補給線が乱されたと報告があったのはそれから間もなくだった。




