定軍山の戦い1
やはり黒薙は呉にいるようだ。
黒の鎧を装備した兵こそ砦にある櫓の上に弓や弩を構えているものの、黒薙の存在を示す漆黒の黒旗はない。
「とはいえ、流石に厳しいわね」
山の頂上にある砦を睨む。
天空に浮遊する要塞のようにこちらの兵を寄せ付けない。
まるで天から降ってきたように際限なく岩が落とされ、ようやく部隊が砦に取り付いたかと思えば、砦から騎馬隊が打って出て岩から苔を剥がすように打ち払う。
隙のない戦い方だ。
定軍山の戦況を見て軍を退かせ、昼食の指示を出してから本陣の幕舎に戻った。
幕舎は砦から落とされる岩に当たらない、見晴らしのいい小高い丘の上に建ててある。
定軍山より五里ほど離れていて我が四十万の軍が山を取り囲む様は流石に壮観だった。
が、その大軍でさえ砦の一つや二つも落とせずにいる。
「あのように防がれてはこちらは兵を失うばかりよ。あれに取り付いてまともに攻撃すら出来ていないのよ」
「とはいえ、こちらからはどうしようもありません。大軍を活かして相手の疲労を誘うしかないかと。毎日変わらない戦況は相手も同じですから」
本陣の幕舎にこうして集まって桂花と凛、そして風が毎日話し合っているが効果的な策は挙がりそうにない。
漢中に侵攻してから十日になる。
凛の案で穴を掘って砦内に侵入することも考えたが、掘ってる途中に硬い岩にぶち当たって進行できずにいる。
岩を防ぐため丸太を前面に出しつつ登山しても砦に取り付くのに邪魔になるし、取っ払えば騎馬隊がこぞって払い落とす。
ここ数日、無意味な攻めが続いている。
春蘭や凪は意気揚々と秋蘭や沙和や真桜と共にそれぞれ左右の砦に向かっているが、左右それぞれに弓と騎馬に特化した将が配置されていてまるで城攻めに移れない。
中央に位置する定軍山は私や軍師、流流などの親衛隊で攻めているが、やはり進展はない。
「兵の様子はどうなの?」
頭を下げてくる三人に頷いて訊く。
「こちらは数が多いと、最初は士気は高かったのですが。──変わらない戦況だけにそろそろ士気も低下しそうですね」
風が淡々と言った。
「兵糧は?」
「まだ大丈夫です。北方で大規模な屯田をした甲斐がありましたね」
凛がさっと書簡を流し見る。
冀州や幽州などの北方では大軍を常駐させる必要はない。
周囲に敵はないのだから。
烏丸に備えておけば良い。
そこで少し多めに兵を送り込んで屯田をやらせた。
すると予想以上の効果があった。
老兵や負傷兵などを送り込んだのが大きかったらしい。
それだから兵糧に心配はないようだ。
「だったら少し考えてることがあるのだけれど」
「なにか妙案が?」
「成都急襲」
訊いてきた凛のみならず、桂花まで顔を上げてこちらを凝視した。
風はなにやら考え込み始めた。
「成都本拠を攻め奪れば、いかに奴らが漢中に籠ろうが劉備軍の負けは一目瞭然」
兵糧がある今だからこそできることだ。
必要な兵糧を持ち、強行軍を編制して成都を急襲するのだ。
成都は蜀の本拠地。
それが魏の手に落ちれば本拠地を失った蜀はおのずと瓦解するはずだ。
「しかし、漢中の軍に背後をとられるのは必至です。賛成はできかねます」
凛は断固反対を示した。
「兵糧がある今しかできない。なかったら強行軍は持たないでしょう」
「敵地に強行することがどういうことか、華琳様もお分かりのはずです」
桂花もやはり反対した。
敵地に強行すると、当然補給線が遮断される。
さらに敵の勢力圏内なのだから士気も下がる。
時間がかかれば強行軍はなす術もなく霧散するだろう。
兵法から考えれば敵の勢力圏にむやみに突入するのは愚策中の愚策なのだ。
「なら、他になにか策はあるのかしら? せめて、定軍山を攻め奪る策」
聞き返すと凛と桂花は黙り込んでしまった。
風も考え込んでいてなにも言わない。
中央に位置する定軍山さえ奪ってしまえば残りの山との連携は崩れる。
し、劉備や関羽などの本隊もいるのだ。
しかし、定軍山には本隊に加えて黒薙の兵とおぼしき部隊、呂布や張遼といった元黒薙軍の将たちがいて堅い。
黒薙がこの場にいたら、とこういう時に私は考えてしまう。
恐らく黒薙なら軍師の考えとはまた違う考えを思い付くだろう。
黒薙は軍師ではなく軍人。
現場にいる軍人の方がその場の判断が正しいことも多い。
そして黒薙は軍人の考えと共に奇策も編み出す。
黄巾の頃には輜重を囮にして奇襲をしたりしているのだ。
しかし、今の私にはそういった頭の回る軍人は秋蘭くらいしかいない。
それに秋蘭は奇策を考えるのではなく、軍人の考えだ。
風なんかは奇策を編み出すが、今は何も言わない。
「華琳様、秋蘭です」
と、強行軍の編成を考えようとしたら幕舎の外から呼ばれた。
「どうかしたの? 兵の士気が下がり始めたかしら?」
幕舎に入れた秋蘭は浮かない顔をしていた。
「士気が下がりもします。長安からの補給路が乱されました」
その報告を聞いた瞬間、黒薙と呟いていた。




