三国の変動
今日で七日になる。
今は主がいない部屋の扉を流し見ながら会議の座に向かう。
あの黒い毅然とした姿がないだけで、どこか緊迫した雰囲気があるように思えた。
それも特定の人たちだけだ。
朝の定例会議に向かうところだ。
城の中にみんなの住む部屋がある。
大抵、みんな自分の部屋で仕事をする。
本当は街に好きな場所に家を建てても良いのだが、みんな好んでこちらに住んでいる。
そういえば、雛斗は洛陽に家があったと聞いた。
その頃のことはよく知らないが、雛斗に知人はいなかったのだろうか。
廊下を歩いていると部屋から亞莎が扉を開いて出てきた。
手には書簡がいくつか抱えられている。
「おはよう。亞莎」
声をかけるとすぐに亞莎が気付いてこちらを向いた。
「おはようございます。北郷さま」
挨拶を返されて、やっぱりと思った。
どこか少しだけれどぴりぴりした雰囲気がある。
自分はあまり好きではない戦場に似た雰囲気だ。
雛斗は好きかもしれないが。
元黒薙軍の面子は雛斗がいなくなった途端、緊迫した雰囲気を醸し出し始めた。
雛斗と氷さんのいない雛斗の部隊は霞と恋が交代で調練をしているが、やっぱり戦場と変わらないような調練をしている。
死者が出たという報告は上がっていない。
亞莎はそのままいそいそと会議の座に向かった。
「……考え過ぎか」
そう呟き、亞莎のあとを追うように会議の座に急いだ。
実は桃香に聞いたのだ。
雛斗は水鏡先生に会いに行ったのではなく、呉の君主孫策と会いに行ったのだと。
会いに行った、と聞いてまさか愛人かとも思ったがまだわからない、と桃香は言った。
そうかもしれない、ということか。
それともまた雛斗が孫策を惹き付けたのか。
どちらにせよ、また呉の策謀があるかもしれない。
そしてそれを承知で雛斗は氷さんを連れて孫策に会いに行った。
孫策の本当の気持ちを知るために。
危険を承知で踏み出す辺りは雛斗らしい。
十日……それが雛斗が示した期間。
十日を過ぎたら、雛斗は呉の策謀に嵌まったと判断する。
もし、嵌まっていたら……と考えて頭(かぶり)を振った。
雛斗は戻ってくる。
そう桃香と約束した。
なにより雛斗は天下の名将黒龍黒薙なのだ。
何かあっても、きっと戻ってくる。
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「魏に軍備を整え始めた雰囲気があります」
雛里の切り出した言葉でその場が緊迫した。
霞や亞莎等は目を鋭くしただけだ。
会議にみんなが集まってすぐのことだ。
「長安に兵が集まり始めていることから、恐らく呉ではなく私たち蜀の攻略に乗り出したものと思われます」
続ける朱里の言葉に愛紗たちも目を鋭くした。
「ではすぐに出陣の準備をするべきです」
「まあ、そう殺気立つな。愛紗。朱里、敵の数と装備は?」
星が愛紗を抑える。
「兵力は四十万。山岳地帯ということもあり、騎馬は少ないでしょう。軽装備の歩兵、弓兵が中心になるかと」
四十万という数にみんな息を飲んだ。
想像するのもバカらしい数字だ。
しかし、軍師陣はそうでもない。
「四十万ともなれば、兵糧の消費は膨大なはずね。守れば勝てるわ」
詠がにやりと笑って言った。
他の軍師も頷く。
「この兵力差ですから、こちらは総力を上げて挑まなければなりません。しかし、この戦はとにかく守って、魏の兵糧消費を重ねることが勝利への道筋です。こちらには兵力がない代わりに山という天険の要塞があります」
「魏にとっては苦手でも、俺たちからすれば山は好都合だ。これを活かさない手はない」
雛里に続けた俺の言葉にみんなが頷く。
蜀領の益州は山ばかりだ。
調練もそんな中でやってきたからみんな山での戦が得意になっていた。
特に山から逆落としをかける騎馬隊が強い。
あちらは騎馬が使えなくとも、こちらが使える。
地理ではこちらが有利だ。
「それにしても雛斗さんがいない上手いところを突いてきました。雛斗さんの部隊はどうしましょう?」
紫苑が言う。
雛斗の部隊は奇襲、強襲、突撃に特化した騎馬隊だ。
騎馬に精通した人じゃないと操れない。
そうでなくても雛斗の部隊だけでなく、元黒薙軍は激戦を生き抜いたために練度が高い。
「生半可な将では操れまい。漢中の砦に籠ってもらうしかあるまい」
「それしかないでしょう。定軍山の砦の防御をお願いしましょう」
桔梗の案に朱里が賛成した。
「ウチと恋は連携した方がええ。同じ定軍山の防衛に加わった方がええと思う」
今まで黙っていた霞が言った。
元黒薙軍の連携の強さはよく知っている。
なにせ兵力が倍以上の曹操を漢中で追い返したのだ。
「では雛斗さんの部隊と桃香様の本隊と共に定軍山の防衛をお願いします。騎馬を率いる星さんと鈴々ちゃんと翠さんとたんぽぽさん、弓兵を率いる紫苑さんと桔梗さんはそれぞれ騎馬と弓兵を組み合わせて定軍山左右の山に砦を築いて登ってくる敵を迎撃してください」
「麓付近の敵を弓で、砦近くに迫った敵を騎馬で打ち払えば迎撃は容易なはずです」
これなら登山する側の魏は容易には砦にとり付けないはずだ。
地の理は完全にこちら側が有利だ。
「し、失礼します!」
と、いきなりかん高い声が会議の場に響いた。
声のした出入り口を見る。
「氷さん? じゃあ雛斗も一緒に帰ったのか?」
入ってきたのは氷さんだった。
その姿を見て少し安堵したが、氷は息を乱している。
霞や恋がすぐに立ち上がった。
「……まさか思うけど、雛斗は?」
霞が氷さんに訊く。
その張り詰めた雰囲気に他のみんなは戸惑い気味だ。
ただ、桃香だけは少し震えている。
「雛斗様は、呉の罠にかかり……捕縛されました!」
その瞬間、その場が凍りついた。
「……ど、どういうことだ?」
そんなに時間は経っていないはずなのに止まった時間が長く感じた。
しばらくして愛紗がようやく言葉を絞り出した。
「……どうもこうもないです。氷、雛斗は司馬徽を訪問した訳ではないですね?」
ねねが淡々とした口調で言った。
しかし、目は鋭い。
「……孫策に、お会いに」
その人の名が出てその場が揺れた。
「そんなんやろって思たわ。せやけど孫策と会ってるとは思わなかったわ」
「おのれ、孫呉……一度ならず二度まで雛斗を罠にかけて……!」
愛紗が腹の底から熱い震える声を出す。
「…………」
すると恋が出入り口に向かって歩きだした。
「恋さま、お待ちください! 今は魏が攻めてくるのです」
すぐに亞莎が恋を止める。
「……雛斗を助ける」
表情の変化に乏しい恋だが、振り向いた恋の目はやっぱり鋭かった。
「桃香様、ご主人様! 雛斗は私たちにとってなくてはならない方です。なんとかして助け出すべきです!」
愛紗が立ち上がって怒鳴る。
今にも呉に向かって飛び出していきそうだ。
星も歯を食い縛っている。
「だ、だけど……」
桃香は愛紗の険相に押され気味だ。
「氷さん、雛斗は捕縛されたんだよな?」
「は、はい。見かけた漁師の話では舟に乗ってそのまま建業に連行されたそうです」
「て、ことは呉は今は雛斗を交渉に使うか。あるいは登用しようとしている可能性が高い。つまりは雛斗に何かあることはないと思う」
桃香の話と照らし合わせると、孫策は雛斗に好意を持った可能性がある。
雛斗は孫策を好敵手として見ている、と俺は思っていた。
雛斗から好意を持つ可能性はなくはないにしても、こうも呉が雛斗に執着しているところを見るとやっぱり孫策の方が雛斗に好意を持った可能性が高い。
雛斗に危害を加える可能性は低いはずだ。
「ですが……!」
「今は魏をなんとかしないと。そうしないとたとえ雛斗を助け出しても帰る場所がなくなる。雛斗に関してはあまり刺激しないようにして、魏を対処してから考えよう」
「…………」
愛紗が何か言おうとしたが、なにも言えずに唇を噛んだ。
最悪の予想が的中してしまった。
雛斗のいない中、魏を相手にしなければならない。
もしかしたら魏はその情報を掴んで攻撃に踏み込んだのかもしれない。
雛斗一人いないだけで、三国が激変している。
出入り口の前に立ち止まったままの恋が、ただ下を向いて肩を震わせていた。