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親友と二人で王太子を捨てたら、同級生に求婚されました

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/03/07

 王宮の控室は、夜会の香の匂いと、絹が擦れる音で満ちている。

 私の指先は手袋の縫い目をなぞり、深呼吸の代わりに袖口を整えた。十年分の王太子妃教育は、こういう場で顔色一つ変えないためにあるのだと、あの人たちは言う。

 けれど、私が身に付けたのは、別のことだ。

 誰が嘘をつくか、誰が先に視線を逸らすか。誰が紙と印章を怖がるか。


 扉が二度、控えめに叩かれる。

 侍女が顔を覗かせ、困ったように眉を寄せた。


「マドレーヌ様、モンフェラン伯爵令嬢が、どうしても……今すぐ、お会いしたいと」


「通して」


 返事をした瞬間、侍女が一瞬だけ目を丸くする。私は笑わない。驚かない。今夜、こうなると知っていたからだ。


 ジュリエット・ド・モンフェランが入ってきた。

 かつて王立学院の回廊で、同じ本を取り合って笑った親友。今は、頬が青白く、睫毛の先に涙が溜まっている。


「マドレーヌ……お願い、怒らないで」


「怒る前に、あなたは何をしに来たの」


 言葉が冷たいと、自分でも分かる。けれど、ここで甘くして、何が守れる。

 ジュリエットは胸元の小さな扇を握り締めたまま、震える声で吐き出す。


「アレクサンドル様が……言っていたの。あなたとの婚約は、もう終わっているって。形だけで、すぐ破棄するって」


 私は瞬き一つしなかった。

 ジュリエットの瞳が揺れ、私の反応を探る。驚き、否定、罵倒、あるいは平手打ち。そういうものを待っている顔だ。

 待たせてやらない。


「それで、あなたは信じて、彼の部屋に入ったのね」


「……っ」


 ジュリエットの頬を涙が滑り落ちた。

 彼女は言い訳を探している。けれど、ここで言い訳を言わせたら、彼女は自分を守るために嘘を重ねる。私は、それをさせない。


「大丈夫。あなたを責めるために呼んだのではないわ」


「……え?」


 私は机の引き出しを開け、封筒を一つ取り出した。薄い青い紙に、王家の蝋印。

 封筒の口を切り、内容をテーブルに並べる。紙の角は揃えたまま、乱れなく。


「見て。あなたが聞かされた“婚約は終わっている”が、どれほど厚かましい嘘か」


 最初の一枚は、王太子の恋文だった。

 甘い言葉が並び、私の名が何度も書かれている。愛という単語が踊る紙面に、王太子の自筆署名。日付は、つい先月。


 次は、王家文書。

 婚約継続の確認。王印。臣下の署名。撤回の予定は無い。


 最後に、晩餐記録。

 王妃との席、王太子が同席し、私が隣に座った夜の記録。記録官の筆跡は几帳面で、どこにも空白がない。


 ジュリエットの唇が、きゅっと縮む。

 彼女は紙を見つめ、息を飲み、指先で恋文の署名をなぞった。目の前にあるのは、逃げられない現実だ。


「……嘘……」


「ええ。嘘よ。あなたに言ったことも、私に言ってきたことも」


 私は封筒の内側に残った小さな紙片を取り出した。

 王宮記録官から届いた覚え書き。王太子が夜会の合間にどこへ行ったか、誰の侍従が動いたか、廊下の番兵が何を見たか。

 紙は言い訳をしない。紙は裏切らない。


「私、あなたが来ると知っていたの」


「どうして……」


「侍女が見たのよ。あなたの手袋の色と、今夜の扇の柄。あなた、学院の頃からそれが好きだった」


 ジュリエットの顔が歪む。

 羞恥と怒りが、涙の下から顔を出す。


「私が……愚かだったって、言うの?」


「違う。愚かだと言うなら、あの男が一番よ」


 私の口調に、ようやく棘が立った。

 十年間、王太子妃になるために舌を抑えてきた。けれど、その沈め方は、今夜のために覚えたのではない。


「ジュリエット、あなたは今夜、誰のために泣いている」


「……自分のため」


「そう。なら、あなたは立てる。泣いて終わりにしたいなら、ここで帰ってもいい。私は止めない」


 ジュリエットは唇を噛んだ。

 目の奥の火が、涙の膜を押し上げる。


「帰らない。……帰ったら、私は一生、あの男の嘘の中で生きることになる」


「なら、私と一緒にやる?」


 私は問いを投げる。

 ジュリエットは一拍遅れて、頷いた。

 頷き方が乱暴で、学院の頃と同じだ。


「……やる。あの人を、夜会の場に引きずり出す」


「引きずるのは上品じゃないわ」


「上品にしてたら、あの人はまた調子に乗る」


 私は小さく息を吐く。笑いではない。

 この子はやっと、私の知っているジュリエットに戻ってきた。


「いいわ。では手順を決める」


 私はテーブルにもう一通、封をした書類を置いた。

 王宮記録官、レミ・デュランの署名入り。彼は記録の人間で、誰にも肩入れしない。だから頼れる。


「夜会の中央で、あなたが先に話して。騙された被害者として立つの」


「分かった。でも、私、声が震えるかも」


「震えてもいい。震えたら、皆があなたを見て、王太子を見て、何を思うか分かるでしょ」


 ジュリエットが目を見開いた。

 私の言い方が、学院の頃の意地悪さに似ていたからだ。


「マドレーヌ……あなた、怖くないの?」


「怖い? 何が」


「王太子を敵に回すこと」


 私は封筒の角を、指先で揃えた。

 十年。あの男の隣で笑い、礼を覚え、歩き方を覚え、沈黙の仕方も覚えた。

 それでも最後に残ったのは、紙と記録と、私の名前だった。


「私が怖がると思うのなら、あなたは私を何だと思っていたの」


 ジュリエットは、涙を残したまま口元を引きつらせた。


「……昔のあなたに戻った」


「昔の私は、もっとひどかったわよ」


 扉の外で足音が止まる。

 侍女が囁く声で告げた。


「王太子殿下が、大広間にお入りになりました」


 ジュリエットの背筋が強ばる。

 私は立ち上がり、スカートのひだを整えた。鏡に映る私の顔は、いつも通りだ。

 けれど、胸の奥で、別の音がしている。

 十年分の我慢が、紙の束になって落ちる音だ。


「ジュリエット、行くわよ」


「ええ。……今夜で終わらせる」


 私は封筒を抱えた。

 私の人生を縛っていた契約書。私を守るための証拠。

 嘘を吐く男の喉元に当てるための刃は、血の匂いがしない紙で十分だ。


 控室の扉を開けると、音楽と笑い声が大きく押し寄せた。

 私とジュリエットは並んで歩き、夜会の光の中へ出ていく。

 中央で王太子が誰かの手を取って笑っている姿が見えた。

 その笑顔が、今夜の終わりを知らないまま輝いているのが、滑稽で、腹立たしい。


 私は、扇を開かない。

 隠すものは何もない。

 この場で、嘘を終わらせる。



 大広間の扉が開くと、光と音が一度に押し寄せた。

 水晶灯の列が天井に連なり、弦楽の旋律が床を滑る。王宮夜会はすでに最も賑わう時間に入っていた。


 私は歩みを止めない。

 隣にはジュリエット・ド・モンフェラン伯爵令嬢がいる。


 学院時代からの友人。

 そして昨夜、王太子の言葉が嘘だったと知った女。


「……本当にやるのね」


 私が小さく言う。


 ジュリエットは視線を前に向けたまま答えた。


「ええ。逃げたら、私はあの人の言葉を認めたことになる」


 その声はかすかに震えている。

 だが歩みは止まらない。


 人垣の向こう、夜会中央。

 王太子アレクサンドル・ド・ヴァルテンブルクが立っていた。


 貴族たちに囲まれ、いつものように笑っている。


 何事もない顔だ。


 私は扇を閉じた。


「行きましょう」


 私たちは並んで人の輪へ向かう。


 王太子の婚約者である私に気づき、人の輪が自然に開いた。


「マドレーヌ」


 アレクサンドルが微笑む。


「来ていたのか。探していた」


「夜会ですもの。来ない理由がありません」


 私は礼をした。


 彼の視線がジュリエットへ移る。


「モンフェラン伯爵令嬢も一緒とは珍しい」


「少し殿下にお伺いしたいことがありまして」


 ジュリエットは一歩前に出た。


 周囲の会話が止まる。


 王太子へ直接声を向ける貴族令嬢は多くない。


 アレクサンドルは眉をわずかに上げる。


「何だ」


「確認したいことがございます」


「夜会の最中だが?」


「夜会の最中だからこそです」


 ジュリエットは手に持っていた紙を持ち上げた。


 白い封筒から取り出された、一通の手紙。


 王太子の私印が押されたものだ。


 ざわめきが起こる。


「殿下は私に仰いました」


 ジュリエットの声が広間に響く。


「マドレーヌ様との婚約は、すでに終わっていると」


 空気が一瞬で冷えた。


 アレクサンドルの笑みがわずかに動く。


「……何の話だ」


「殿下から頂いた手紙の話です」


 ジュリエットは紙を広げる。


「“婚約は形だけだ。すぐ終わる。だから気にする必要はない”」


 貴族たちの間にざわめきが広がった。


 王太子は静かな声で言う。


「モンフェラン令嬢。誤解だ」


「誤解ではありません」


 ジュリエットの指が紙を握り締める。


「殿下ご自身の言葉です」


 私はそこで口を開いた。


「殿下」


 アレクサンドルが私を見る。


「どうした、マドレーヌ」


「私にも手紙があります」


 私は封筒から紙を取り出した。


「先月、殿下から頂いたものです」


 視線が集まる。


 私は紙を広げて読み上げた。


「“君は私の唯一の婚約者だ。余計な噂は気にする必要はない”」


 広間のざわめきが一段大きくなる。


 ジュリエットへの手紙。

 私への手紙。


 同じ時期。


 内容は正反対。


 私は王太子を見た。


「殿下」


 アレクサンドルは答えない。


 貴族たちが低く囁き始める。


「婚約は続いているはずでは……」


「では伯爵令嬢への話は……」


「まさか……」


 ジュリエットが言った。


「殿下は私に言いました」


 涙をこらえながら続ける。


「婚約は終わると」


 私は静かに言う。


「ですが終わっていません」


 沈黙が落ちた。


 楽団の音も止まり、広間の全員が中央を見ている。


 王太子アレクサンドル・ド・ヴァルテンブルクは、言葉を失っていた。


 どちらを認めても、もう一方が嘘になる。


 その事実を、ここにいる貴族たち全員が理解していた。



 翌朝の王宮は、いつもより静かだった。

 廊下を歩く足音が少ないわけではない。侍従も書記官も、普段と同じように行き交っている。

 それでも空気が張り詰めている。誰もが声を落とし、誰もが視線を合わせようとしない。

 昨夜の夜会で起きたことが、王宮の壁にまで染み込んでいるからだ。


 私は王宮東棟の応接室に通されていた。

 高い窓から差し込む朝の光が、床の石に白く伸びる。

 向かいの椅子にはジュリエット・ド・モンフェラン伯爵令嬢が座っている。彼女は紅茶のカップを両手で持ったまま、まだ一口も飲んでいない。


「……王宮って、こんなに静かでしたっけ」


「いつもはもう少し賑やかよ。今日は皆、耳を澄ましているの」


「何をですの?」


「王の怒鳴り声がどこまで聞こえるかを」


 ジュリエットが思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。

 だが笑いは長く続かない。彼女の視線はすぐにテーブルの上へ落ちる。


「マドレーヌ……私、本当に良かったのかしら」


「何が?」


「昨夜のこと。あんなふうに……王太子殿下の前で」


「今さら震えるのは遅いわ」


 私は紅茶を口に運ぶ。

 香りは上質だが、味はほとんど感じない。夜会の後から、王宮の空気はずっと鉄のような味がしている。


「あなたが手紙を読んだ瞬間、貴族たちの顔を見た?」


「見てません。怖くて」


「面白かったわよ。皆、同じ顔をしていた」


「同じ顔?」


「“これは王太子が終わる”って顔」


 ジュリエットが息を止めた。

 私の言葉が冗談ではないと、ようやく実感したらしい。


 その時、扉が静かに叩かれる。

 入ってきたのは侍従だった。


「ロシュフォール侯爵令嬢、モンフェラン伯爵令嬢。王宮評議会が、両名の出席を求めております」


 ついに来たか、と思う。


 私は椅子から立ち上がった。

 ジュリエットも慌てて続く。彼女の背筋は昨夜より真っ直ぐだ。


 王宮評議会の間は、王城中央棟の最奥にある。

 大きな扉が開かれると、重い沈黙が流れ出てきた。


 室内には、すでに王と王妃が座っていた。

 その左右には大臣たち、貴族議員、そして王宮記録官。

 そして中央に立っている男。


 アレクサンドル・ド・ヴァルテンブルク王太子。


 まだ、その肩書は残っている。


 彼は昨夜と同じ礼装を着ていたが、顔色はまるで違った。

 顎は固く結ばれ、視線は床へ落ちている。


 王が口を開く。


「侯爵令嬢マドレーヌ・ド・ロシュフォール」


 私は進み出て礼を取る。


「伯爵令嬢ジュリエット・ド・モンフェラン」


 ジュリエットも続いた。


 王はゆっくりと二人を見渡した。

 その目の奥には、怒りがはっきりと見える。


「昨夜の夜会で提出された書簡と証言は、すべて確認した」


 室内がさらに静まる。


「王太子アレクサンドル」


 王の声が重く落ちる。


「貴様は王家の婚約契約を継続したまま、別の令嬢に虚偽の説明を行い関係を結んだ。さらに婚約者である侯爵令嬢に対して不名誉を与え、王家の信義を損なった」


 アレクサンドルの拳が震える。


「……父上、それは」


「黙れ」


 一言だった。

 だが、その声だけで空気が凍る。


「貴様の言葉は昨夜、十分聞いた。嘘の続きをここで聞く気はない」


 王は立ち上がった。

 その動きに、評議員たちが一斉に姿勢を正す。


「評議会の決定を告げる」


 私は静かに息を整える。

 ジュリエットの指が、わずかに震えているのが視界の端に見えた。


 王の声が響く。


「アレクサンドル・ド・ヴァルテンブルク」


 一拍。


「王太子位を剥奪する」


 誰かが息を呑む音がした。


「さらに王家の名誉を損ねた罪により、王都から追放。北方辺境領への移住を命じる」


 その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が完全に変わった。


 アレクサンドルが顔を上げる。


「……追放?」


「異議は認めん」


 王の声は揺れない。


「王太子は国家契約を守る者だ。契約を玩具にする者ではない」


 アレクサンドルは何か言おうとして口を開く。

 だが言葉は出ない。


 王妃が静かに言った。


「マドレーヌ」


 私は顔を上げる。


「十年にわたり王太子妃教育を受けながら、このような形になったことを、王家として深く詫びる」


 王妃が頭を下げた。


 評議員たちがざわめく。

 王族が侯爵令嬢に頭を下げるのは、極めて異例のことだ。


 私は一礼した。


「陛下、王妃陛下のお言葉、確かに受け取りました」


 それ以上の言葉は言わない。

 ここで感情を見せれば、この場の秩序が崩れる。


 評議会が終わり、扉が開く。


 廊下へ出ると、外の光が眩しかった。


 ジュリエットが長く息を吐く。


「……終わった」


「まだよ」


「え?」


 私は視線を廊下の先へ向けた。


 そこに一人の男が立っている。


 長身。

 深い色の礼装。

 鋭い灰色の瞳。


 隣国ハルデンベルク公国の若き公爵。


 セバスティアン・フォン・ハルデンベルク。


 彼はゆっくり歩み寄ってきた。


「ロシュフォール侯爵令嬢」


 低い声が響く。


「十年ぶりに、ようやく自由な立場でお話しできます」


 私は眉を上げる。


「ずいぶん長く待っていたような口ぶりね」


 彼は迷わず答えた。


「ええ。十年ほど」


 ジュリエットが横で肩をすくめた。


「……あの王太子、本当に一番の負けね」



 王宮の庭園は、昼の光の中で静かに広がっていた。

 噴水の水音が規則正しく落ち、整えられた並木が長い影を作っている。

 評議会が終わってから、まだそれほど時間は経っていない。だが王城の空気は、朝とは別の静けさに変わっていた。


 私とジュリエットは石畳の小道を歩く。

 さっきまで隣にいた侍従たちは、いつの間にか距離を取っている。


「……本当に終わったのね」


 ジュリエットがぽつりと言った。


「そうね。王太子はもういない」


「昨日まで王太子だった人が、今日には追放って……王宮って怖いわ」


「怖いのは王宮じゃないわ。嘘をついた本人よ」


 ジュリエットが小さく笑う。

 その笑いは、昨夜の涙の跡を少しだけ消していた。


「でも、不思議ね。胸がすっきりしてる」


「それは良かった」


「あなたは?」


 私は歩みを止めた。

 噴水の縁に映る水面が、風で揺れている。


「……静かよ」


「静か?」


「十年間、王太子妃になる準備をしてきたでしょ。だから、終わった瞬間に泣くと思っていた」


「泣きたい?」


「いいえ。拍子抜けしている」


 ジュリエットが肩をすくめる。


「じゃあ、これからどうするの? 侯爵家に戻る?」


「しばらくは王都にいるわ。父が王宮と話をするでしょうから」


「そうよね。あんな大騒ぎになったんだもの」


 彼女は噴水の水面を覗き込みながら言う。


「でも、あなたならすぐ新しい婚約者が決まりそう」


「そんなに簡単に決まるものかしら」


「決まるわよ。王都の貴族、今ごろ大慌てで家系図を探してると思う」


 私は思わず笑った。

 そのときだった。


 足音が聞こえた。


 石畳を踏む、落ち着いた歩幅。


 振り向くと、一人の男がこちらへ歩いてくる。


 高い背。

 深い紺の礼装。

 整えられた黒髪。


 灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。


 隣国ハルデンベルク公国の公爵。

 セバスティアン・フォン・ハルデンベルク。


 軍功と領地経営で知られる若き公爵であり、王都の貴族たちが噂する人物でもある。


 彼は私の前で足を止め、礼をした。


「ロシュフォール侯爵令嬢」


「ハルデンベルク公爵」


 私は軽く礼を返す。


「昨夜の夜会では、騒がしい場面をお見せしましたね」


「いいえ。むしろ貴重な場面でした」


 彼は静かに言う。


「王太子の嘘が、あれほど見事に崩れる場面は、そう見られるものではありません」


 ジュリエットが横で小さく咳払いした。


「……見物人がいたなんて聞いてませんけど」


 セバスティアンは彼女を見て微笑む。


「モンフェラン伯爵令嬢。昨夜の勇気には敬意を表します」


 ジュリエットが少し赤くなる。


「別に勇気なんて……ただ、腹が立っただけです」


「それでも、腕を振り払った瞬間、大広間の空気は変わりました」


 彼はそう言ってから、私へ視線を戻した。


「そして侯爵令嬢」


「何でしょう」


「ようやく、話す機会が来ました」


 私は眉を上げる。


「昨日も話しましたわ」


「正式に、です」


 彼の声は落ち着いている。


「あなたが王太子の婚約者である間、私はこの話を口にしませんでした」


 ジュリエットが私の横で腕を組む。


「何の話?」


 セバスティアンは迷わない。


「求婚の話です」


 庭園の空気が、一瞬止まった。


 ジュリエットが私を見て、そして公爵を見て、目を丸くする。


「ちょっと待ってください。昨日まで婚約者が王太子だった人に、翌日に求婚って早すぎません?」


 セバスティアンは首を横に振った。


「昨日までではありません」


「え?」


「十年前からです」


 ジュリエットが口を開けたまま固まる。


 私は腕を組んだ。


「十年前?」


「王立学院の卒業式です。あなたが王太子の隣に立っていた日」


 彼の灰色の瞳は、少しも揺れない。


「そのとき思いました。もしあなたが王太子の婚約者でなければ、必ず求婚する、と」


 ジュリエットが吹き出す。


「つまり、あの王太子が転んだ瞬間に、あなたは拾いに来たわけ?」


 セバスティアンは静かに答える。


「転ぶのを待っていたわけではありません」


「じゃあ?」


「立場が空くのを待っていました」


 私はため息をついた。


「ずいぶん長い順番待ちね」


「ええ」


 彼は即答する。


「十年ほど」


 ジュリエットが肩をすくめる。


「……結論出たわね」


「何が?」


「一番の負けは、あの元王太子」


 庭園に風が吹き、噴水の水面が揺れた。


 私はセバスティアンを見上げる。


「公爵」


「はい」


「あなたの求婚、簡単に答えるつもりはありません」


「構いません」


「十年待ったなら、もう少し待てるでしょう」


 彼はわずかに笑った。


「それも計算に入れてあります」


 ジュリエットが呆れた声を出す。


「この人、本気だわ」


 私は噴水の水面を見つめながら言う。


「そうね。どうやら、私の未来は思っていたより忙しくなりそう」


 遠くで王宮の鐘が鳴る。


 新しい時間が、静かに始まっていた。



 王都の噂は、風より速い。

 評議会が終わったその日の夕方には、もう半分の貴族が知っていた。

 翌朝には、ほとんど全員が知ることになる。


 元王太子アレクサンドル・ド・ヴァルテンブルクが、廃太子となり王都から追放されたことを。


 私はロシュフォール侯爵家の王都邸に戻っていた。

 父の執務室の窓から見える庭は、いつも通り整えられている。けれど屋敷の中は、いつもより人の足音が多い。


「つまりだ、マドレーヌ」


 ロシュフォール侯爵である父、ギヨーム・ド・ロシュフォールが腕を組んで言う。


「王太子が自分で足を滑らせ、王が怒り、王宮が謝罪した。ここまでは分かる」


「ええ」


「だが、なぜ隣国の公爵が庭園で求婚してくる」


 私は紅茶を一口飲む。


「十年前から待っていたそうです」


 父の眉が動く。


「……十年?」


「王立学院の卒業式で決めたそうです」


「決めるな」


 父は額を押さえた。


 部屋の端に立つ母、侯爵夫人エレーヌ・ド・ロシュフォールが小さく笑う。


「でも、悪くないお話ではありませんこと?」


 父が振り向く。


「エレーヌ、相手は隣国公爵だぞ」


「ええ。軍功もあり、領地経営も優秀。王都でも評判の方だとか」


「評判が良すぎるのが問題だ」


 父はため息をつく。


「こんな騒動の直後に、隣国の有力公爵が求婚。外交の匂いがする」


 私は肩をすくめた。


「恋愛の匂いもしますよ」


「両方するのが一番厄介だ」


 父は椅子に座り直す。


「で、お前はどうする」


「すぐに答えるつもりはありません」


「それが賢明だ」


 父は頷いた。


 そのとき、執事が扉を叩く。


「旦那様、ハルデンベルク公爵がご訪問です」


 父の顔が固まる。


「……早すぎる」


 母が楽しそうに言う。


「十年待った方ですもの。行動は早いのでしょう」


 私は紅茶を置いた。


「応接室に通してください」


 ◇


 ロシュフォール侯爵邸の応接室は、窓が大きく庭を見渡せる。

 そこに座っていたのは、昨日と同じ落ち着いた男だった。


 隣国ハルデンベルク公国の公爵、セバスティアン・フォン・ハルデンベルク。


 彼は立ち上がり、礼をした。


「ロシュフォール侯爵」


「ハルデンベルク公爵」


 父が礼を返す。


 私は母の隣に座る。


 短い沈黙のあと、父が言った。


「昨日、娘に求婚したと聞いた」


「ええ」


 セバスティアンは迷いなく答える。


「そして今日は、侯爵に正式に許可を求めに来ました」


 父が目を細める。


「許可?」


「婚約の申し入れです」


 母が扇を開く。


「ずいぶん率直な方ですこと」


「遠回りは好みません」


 セバスティアンは静かに言う。


「十年、遠回りしましたので」


 父が腕を組む。


「あなたは隣国の公爵だ。王太子の婚約者だった娘に求婚すれば、政治の話になる」


「理解しています」


「それでも?」


「それでも」


 即答だった。


 父は私を見る。


「マドレーヌ」


「はい」


「お前、この男をどう思う」


 私はセバスティアンを見る。


 灰色の瞳。

 視線はまっすぐで、逃げない。


「……正直な人だと思います」


「それだけか」


「十年待ったという話が本当なら、気の長い人でもあります」


 セバスティアンが少し笑う。


「疑っていますか」


「当然です」


 私は腕を組む。


「十年待った証拠は?」


 父と母がこちらを見る。


 セバスティアンは少し考え、懐から一通の封筒を出した。


「証拠と言えるか分かりませんが」


 封筒の中から出てきたのは、古い紙だった。


 王立学院の卒業式の席次表。


 そこに小さく書き込みがある。


 “ロシュフォール侯爵令嬢 要注意”


 私は目を細める。


「要注意?」


「ええ」


 彼は真顔で言う。


「王太子の隣で、誰よりも冷静に周囲を観察していた」


 母が笑いをこらえる。


 父は紙を覗き込む。


「それで求婚を決めたのか」


「ええ」


 セバスティアンは頷いた。


「この人なら、隣に立っても退屈しないと思いました」


 私は思わず息を吐く。


「ずいぶん変わった理由ね」


「退屈しない結婚は、長続きします」


 父が椅子にもたれた。


「……なるほど。理屈は分かった」


 少し考えてから言う。


「ただし条件がある」


「聞きましょう」


「娘の意思が最優先だ」


 父は私を見る。


「マドレーヌが望まないなら、この話はここで終わりだ」


 セバスティアンの視線が私へ向く。


 私は少しだけ考えた。


 十年の婚約。

 昨夜の騒動。

 そして、今ここにいる公爵。


「公爵」


「はい」


「あなたの求婚、受けるとは言いません」


「ええ」


「ただし、断るとも言いません」


 母が楽しそうに笑う。


 父は苦笑した。


 セバスティアンは静かに頷く。


「では、私の立場は?」


「仮の求婚者です」


 ジュリエットならきっと言うだろう。

 それ、かなり有利な立場よ、と。


 私は椅子から立ち上がる。


「しばらく王都にいるのでしょう?」


「ええ」


「では、その間に考えます」


 彼は微笑んだ。


「それで十分です」


 窓の外で、王都の鐘が鳴る。


 昨日まで王太子妃になる予定だった私の未来は、

 思っていたよりずっと賑やかになりそうだった。



完。

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