第18話 ──蒼黒の記憶が喉を裂く夜
城下町の散策から戻り、日が沈んだ頃。
王城のバルコニーはひどく静かだった。
ナタリーはひとり、遠くの灯りをぼんやりと眺めていた。
「……さっきの影……なんだったんだろ」
胸の奥に、ざらついた痛みが居座っている。
理由は分からない。
けれど“あれ”を見た瞬間、心臓はまるで、凍りつくように跳ねた。
フィリアが部屋の中から出てきた。
手には温かいミルク。
「ナタリー。飲める?」
「ありがとう……」
カップを受け取りながら、ナタリーはフィリアの横顔を盗み見た。
「ねぇ……フィリア。私、今日変だった?」
「変じゃないよ。怖い思いをしただけ」
「でも……あの人の声、聞いた瞬間に……私……」
震えが止まらなかった。
フィリアはそっとナタリーの肩に手を置いた。
その掌は温かいのに、わずかに震えていた。
「……ナタリー。ひとつだけ言わせて」
「うん?」
「もし……何があっても、私はあなたの味方だから」
その声はいつもの無表情を脱ぎ捨て、
隠していた感情をにじませていた。
ナタリーが何か言い返そうとした、その瞬間。
──空が裂けた。
夜空の中央に、直線的な亀裂が走る。
雷ではない。
魔法でもない。
“世界そのものが、ナタリーを呼び戻そうとしている”ような音だった。
バルコニーの床が淡く光り、空間が歪む。
フィリアがナタリーを引き寄せる。
「下がって!! ナタリー、絶対に離れないで!」
だが亀裂の向こうから、
月光より静かに、
死神より甘く、
ヴァネッサが姿を現した。
「──やっと見つけた。私の総攬者。」
ナタリーの血の気が引いた。
足元が崩れるような感覚。
「……あなた……誰……?」
ヴァネッサは微笑んだ。
その笑顔は、慈愛にも狂気にも見えた。
「じゃあ、思い出させてあげるね。
あなたがどうしてこの世界の中心なのか。
どうして“世界から愛されているのか”。
そして──」
細い指先がナタリーの額に触れる。
その瞬間。
──世界が、反転した。
光。痛み。悲鳴。
ナタリーの意識は底なしの海へ引きずり込まれる。
見たくないものが溢れ出す。
引き裂かれる感覚。
焼ける匂い。
冷たい手。
暗闇。
孤独。
血の味。
103回。
103回。
103回。
殺されて、焼かれて、奪われて、裏切られて、
それでも世界はナタリーを呼び戻した。
総攬者だから。
世界の核だから。
彼女がいなければ、世界そのものが崩壊するから。
そしてその全てのループにおいて──
フィリアが必ずナタリーのそばで死んでいた。
「やめて……やめて……!」
「思い出して、ナタリー。あなたはもう“何度も”死んでる」
「いや……いやぁ……!」
フィリアが震える声で叫ぶ。
「ナタリー!! 戻ってきて!!」
だがナタリーは世界に沈んでいく。
記憶が、痛みが、103回分の悲惨が雪崩のように飲み込む。
自分が死ぬたび、世界が書き換えられた。
自分が痛むたび、誰かが狂った。
自分が選ばれるたび、愛された。
世界は優しい?
違う。
世界はナタリーを“必要としているだけ”。
喉から叫びが迸った。
「もういやぁぁぁぁああああああああああ!!」
空気が爆ぜた。
バルコニーの壁が砕ける。
フィリアがナタリーを抱きしめ、必死に押さえつける。
「ナタリーッ、戻ってきて! 私はここにいる! あなたの味方だって言ったでしょ!!」
涙が、フィリアの頬を流れた。
普段は絶対に見せない感情。
「お願い……ひとりにしないで……!」
ナタリーの視界が揺れ、濁り、そして──
フィリアの涙が胸に、刺さったように響いた。
世界がふたたび静まる。
103回分の地獄を正面から味わい、
ナタリーは完全に記憶を取り戻した。
震える唇から、かすれた言葉が漏れる。
「……フィリア……ごめん……私……全部……思い出した……」
フィリアはナタリーを抱きしめたまま、小さく呼吸を整える。
「大丈夫。全部思い出しても……私はあなたの味方」
だが、ヴァネッサは笑う。
「なら次は──思い出したあなたを、きちんと殺しに来るね」
そう言い残し、闇に溶けて消えた。




