第13話 囁きの残響と、届かない指先
朝の光が薄く城を照らしていた。
それは暖かいはずなのに、ナタリーの部屋の中だけはどこか冷えたままだった。
昨夜聞いた“声”がまだ耳に残っている。
あれは夢ではなかった。
胸の奥まで染み込むような、懐かしい響きだった。
——ナタリー。
名前を呼ばれた瞬間の震えは、今も消えない。
ルチアはすでに起きていて、机の上で書類を確認していた。
その顔は眠そうなのに、目だけは鋭い。
「起きた? ナタリー。」
「……うん。もう、大丈夫。」
本当は大丈夫じゃない。
けれど、それを言ってしまえばルチアは今日一日中つきっきりになるだろう。
ナタリーはそれを望まなかった。
ルチアはナタリーのもとへ歩いてきた。
「昨日の“声”……あれ、まだ続いてる?」
図星。
ナタリーは少しだけ目をそらす。
「……ちょっとだけ。
でも、気のせいかもしれないし。」
ルチアは眉をひそめた。
「気のせいじゃないよ。
あんたの勘、けっこう当たるんだから。」
ナタリーは苦笑した。
「そんなに信用できるものじゃないよ。
だって、わたし……自分のこと、全然思い出せないんだよ?」
言ってしまってから、胸が痛んだ。
ルチアが心配する顔を見たくなかった。
なのに、ルチアはゆっくりと、静かにナタリーの手に触れた。
「思い出せなくてもいい。
あんたがあんたでいるだけで、あたしたちは十分なんだから。」
その言葉は、心の奥にすっと染み込んだ。
ナタリーはそっと微笑み返す。
——その瞬間だった。
部屋の空気が、揺れた。
風もないのにカーテンがふるえ、光がかすかに揺らめく。
まるで、誰かがすぐ近くを歩いたように。
ナタリーの呼吸が止まる。
まただ。
昨日と同じ——いや、もっとはっきりと。
“誰か”が呼んでいる。
声は聞こえない。
音ではなく、意識が触れるような感覚。
指先で触れられたような、優しいのに切ない気配。
ナタリーは窓の方へ歩いた。
「……そこに、いるの……?」
ルチアが警戒して身構える。
しかしナタリーは手を伸ばした。
届きそうで、届かない。
距離はほんの少しなのに、触れられない壁があるような感覚。
心臓が早くなる。
なぜそんなに懐かしいのか。
なぜそんなに苦しいのか。
名前を思い出せない誰か。
忘れてはいけない気がする誰か。
手を伸ばしても——指先は空をすべった。
すべて夢のように、感覚だけが残る。
ルチアがそっと背中に手を当てた。
「ナタリー……無理するな。」
「……うん。」
ナタリーはゆっくり腕を下ろし、目を伏せた。
——あの声の主は誰?
——どうしてわたしを呼ぶの?
——わたしは、なにを忘れているの?
胸の奥で軋む扉は、今日はまた一段と大きな音を立てていた。
だが開く気配はない。
開きそうで、開かない。
届きそうで、届かない。
それでも確かに——
その向こうに“誰か”がいた。
“想ってくれている誰か”が。
ナタリーは拳を握った。
「……わたし、知りたい。
忘れたままには、したくない。」
その小さな決意に、ルチアは短く頷いた。
「じゃあ、探そう。
その扉の向こうにいる“誰か”を。」
朝の光が二人を照らす。
しかしナタリーの影だけが、わずかに揺れて見えた。
まるで誰かが後ろから寄り添っているように。




