第六話:駆け出し剣士と無謀な依頼
辺境の街ダリアでの最初の朝は、鍛冶場のリズミカルな槌音と、遠くから聞こえる人々の力強い怒号で幕を開けた。王都の静謐な朝とは似ても似つかない、荒々しくも活気に満ちた目覚めだった。
俺は簡素なベッドから身を起こすと、窓から差し込む朝日の中で大きく伸びをした。昨夜は、ここ数ヶ月で最も深く眠れたような気がする。追放の悪夢にうなされることも、カインたちの顔を思い出して苦い思いをすることもなく、ただ泥のように眠った。
水差しに残っていた水で顔を洗い、旅で着古した服の埃を払う。鏡はないが、今の自分の顔はきっと、王都にいた頃よりは幾分かマシな顔つきをしているだろう。
(さて、と……)
腹は、まだ空いていない。商人にもらった干し肉がまだ少し残っている。それよりも先に、やるべきことがあった。
俺は最低限の荷物をまとめると、部屋の鍵を女主人に預け、昨日目星をつけておいた冒険者ギルドへと向かった。
ダリアの冒険者ギルドは、街の中心広場に面した、一際大きな木造建築だった。その外観は、まるで砦のようだ。扉を開けると、朝だというのに、むっとするような熱気と酒の匂い、そして男たちの汗の匂いが混じり合った独特の空気が鼻をついた。
「おい、昨日の依頼の報酬だ! ちゃんと数えやがれ!」
「誰か、回復薬に詳しい奴はいないか? こいつは偽物だ!」
「だから言っただろうが! 西の森にゃ、もうオークの群れが住み着いてるって!」
酒場も兼ねているのだろう、広いホールでは、すでにエールを呷る者、仲間と依頼の計画を練る者、大声で自慢話をする者たちでごった返していた。壁には、おびただしい数の依頼書が掲げられている。
王都のギルドは、もっと静かで、事務的な場所だった。ここはまるで、戦場の野営地のような混沌としたエネルギーに満ちている。
俺はその雰囲気に少しだけ気圧されながらも、奥にある受付カウンターへと向かった。まずは、この街で冒険者としての登録情報を更新し、仕事を探さなければならない。
幸い、受付の女性は冷静で、手際よく俺の登録手続きを済ませてくれた。
「はい、アルスさんですね。登録は完了しました。依頼を探されるのでしたら、あちらのボードをご覧ください。ご自身のランクに合ったものを選んでくださいね」
俺の冒険者ランクは「C」。これは勇者パーティでの実績が反映されたもので、ソロの付与術師としては破格のランクだ。しかし、今の俺にCランクの依頼をこなす戦闘能力はない。
俺は薬草採取や荷物運びといった、戦闘を伴わないDランクやEランクの依頼を探すべく、依頼書が貼られたボードの前に立った。
そんな時だった。
「だから、私ならできるって言ってるでしょ! なんで受けさせてくれないのよ!」
受付カウンターの方から、かん高い、しかし芯の通った少女の声が響いた。
そちらに目を向けると、カウンターに食ってかかっている一人の少女の姿があった。年は、まだ十六か七くらいだろうか。燃えるような赤い髪を無造作に後ろで束ね、その瞳は強い意志の光を宿していた。
なにより目を引いたのは、彼女の装備だった。
着古された革鎧は擦り切れており、腰に差した長剣は、鞘から覗く部分だけでも、ひどい刃こぼれがあるのが見て取れた。お世辞にも、まともな装備とは言えない。
そんな彼女が指さしているのは、Cランクの依頼書だった。
『西の森のゴブリン討伐。推奨人数三名以上。ゴブリンシャーマンの目撃情報あり』
ただのゴブリン討伐ではない。シャーマンがいるとなれば、群れは統率され、魔法まで使ってくる可能性がある。Cランクの中でも、難易度の高い依頼だ。
受付の女性は、やれやれといった表情で首を横に振っていた。
「エリスさん、何度も言いますが、あなたはお一人ですし、ランクもまだEです。この依頼は許可できません。あなたの身のためですよ」
「でも、報酬がいいじゃない! これを達成できれば、新しい剣が買えるの! お願い、今回だけ!」
「ダメなものはダメです」
頑なな少女――エリス、というらしい――の懇願を、受付嬢はぴしゃりと撥ねつけた。
そのやり取りを見ていた周りの冒険者たちが、下卑た笑いを浮かべる。
「おいおい、またあの赤毛の嬢ちゃんかよ」
「Eランクのソロでシャーマン混じりのゴブリン討伐だぁ? 死にたいのかね」
「まあ、見込みはあるんだがな。いかんせん、金がねぇから装備が整わねぇ。悪循環ってやつだ」
彼らの言葉から察するに、彼女は才能はあるものの、貧しさからまともな装備が買えず、高ランクの依頼も受けられずに燻っている、といったところだろうか。
その姿が、なぜか他人事とは思えなかった。
必死に手を伸ばしているのに、正当な評価も機会も与えられない。それは、まるで追放される前の自分を見ているようだった。
(……面倒事はごめんだ)
そう頭では分かっているのに、俺の足は、自然と彼女の方へと向かっていた。
受付で粘るのを諦めたのか、エリスは悔しそうに唇を噛み締めると、近くのテーブルにどかりと腰を下ろし、自分の刃こぼれした剣を忌々しげに睨みつけていた。
俺は、そっとそのテーブルに近づいた。
「あの……少し、いいだろうか」
俺が声をかけると、エリスは警戒心も露わに顔を上げた。その翡翠のような瞳が、鋭く俺を射抜く。
「……何よ。見ての通り、今は虫の居所が悪いの。ナンパなら他を当たって」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
俺は苦笑しながら、彼女の視線の先にある剣に目をやった。
「その剣じゃ、ゴブリンどころか、スライムを斬るのにも苦労するだろうと思ってね」
「……っ! あなたに何が分かるっていうのよ! ほっといて!」
図星だったのだろう。エリスは顔を真っ赤にして、剣を隠すように抱え込んだ。
その仕草を見て、俺は確信した。彼女は、自分の武具を大切にしている。ただ、それを手入れする術も、買い替える金もないだけなのだ。
俺は、ほんの少しだけ、昔の自分を思い出しながら、穏やかな声で言った。
「怒らないで聞いてほしい。俺は付与術師なんだ」
「付与術師……?」
エリスが怪訝な顔で俺を見返す。
「ああ。もし君が信じてくれるなら、その剣、少しだけ見せてもらえないだろうか。今よりは、ほんの少しだけ、マシな状態にしてやれるかもしれない」
俺の申し出に、エリスは戸惑っていた。
見ず知らずの男に、冒険者の命ともいえる武器を易々と渡すわけにはいかないのだろう。その警戒心は正しい。
だが、彼女の瞳の奥には、藁にもすがりたいという切実な思いが揺らめいていた。
数秒の沈黙の後、彼女は意を決したように、ごくりと喉を鳴らした。
「……分かったわ。ただし、変なことをしたら、その場で叩き斬るから」
そう言って、彼女は恐る恐る、自分の愛剣をテーブルの上に差し出した。
俺は静かに頷くと、その刃こぼれのひどい長剣を、ゆっくりと手に取った。
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