1-3・鼓舞
やがて河渡は自分の伝票を手に帰っていった。
当時の状況を話せるだけ話したことで多少はすっきりしたらしい。ぎこちなく笑顔を浮かべる依頼人へ、明崎さんは「またご連絡します」と約束を交わすのだった。
さて、ここからは探偵と助手、二人きりでの作戦会議だ。
鞄とコーヒーを手に、明崎さんの真向いへと移動する。ほら、彼女の顔がよく見える。隣も悪くないが、星の輝く瞳が目当てなら、やはり正面で眺めたい。
「今回のこと、どう思います? さっき『犯人は人間だ』なんて言いましたけど、証拠はまだありません」
明崎さんはテーブル中央にスマートフォンを差し出した。画面には河渡から受け取った屋上写真が映し出されている。
スマホはキャメル色の合皮でできた手帳型ケースに収まっており、シンプルかつ可愛い。が、少々痛みが目立つ。買い替えを検討していい頃合いだ。
「どうかな。でも、オカルトは俺も信じてない」
意見の一致を確認して、明崎さんが微笑む。
「では、基本的にオカルトはナシの方向で。なんらかの方法があるはずです。無人の屋上からブロックを落とす、トリックが」
「そうだね。手に取って見てもいい?」
「もちろん! なにか気付くことがあればなんでも言ってくださいね」
俺は明崎さんのスマホを手に取った。折りたたまれた手帳部分を広げ、本を読むように両手で支える。
手帳型ケースの宿命として、折れ目に沿ってくっきりと跡が付いていた。角部分なんか、ひび割れてキャメルが薄い。それに全体的に色がくすんでいる。なにより重い。あるいは手帳型の重量なんてこんなものなのだろうか。
おっと、一応、写真を見るフリもしなければ。
「コンクリートブロックを落としてから魔法陣を描く、なんてことはやっぱり不可能だよね」
俺からの一種トンチンカンなコメントに、明崎さんは「うーん」と唸って眉間にしわを寄せながら目を閉じた。その隙に設定画面を開いて型番を確認する。
「でき、ない……と思いますが、これはあくまで直感的な回答です。たとえば……そうですね」
明崎さんが目を開けたので、設定画面をスワイプで消し、再度、屋上写真を呼び出した。
「細い切れ込みを入れた紙を屋上に敷き、上からチョークの粉を塗ることで魔法陣を描く方法。これなら、犯人はブロックを落としてから、敷きっぱなしの紙の上を走って逃げることで、足跡を残すことなく犯行に及べます」
「……なるほど」
想像以上にそれっぽい推理が返ってきた。先程のいい加減なコメントを、俺は少しだけ反省した。
「問題は、敷きっぱなしの紙を回収する時間がおそらくないこと、そして、誰にも見つからずに屋上から立ち去るのが非常に困難ということです」
俺は「面白い推理だと思ったんだけど」と気休めを口にした。嘘は言っていない。ただ、間違っている。
「ああ……それから」
明崎さんはため息混じりに椅子にもたれた。
「この方法だと、蝋の溶けたあとや串刺しの虫なんかを再現できません。チョークをあらかじめ描いておくだけ……それだけです」
「でも『見えざる手』よりは全然マシだ。近付いてきたと思う」
一息入れるためだろう、明崎さんはミルクティーを手に取った。
「なんらかのトリックがあるはず……と、思うんですけど……写真の写真だけだと、なんとも」
俺はスマホをケースの中に畳んで返却しながら尋ねた。
「現場に行ってみる?」
「そうですね……それができれば、助かります」
「じゃあ、今から行こう」
手元のカップから顔を上げた明崎さんは目をぱちくりさせた。
「ん……ええと、黒繰さん」
カップをソーサーの上に戻し、居住まいを正す。
「現場には行きたいです。河渡さんのために、できる限りの調査がしたい。でも」
言葉を切り、俯く。
「その……実は、自信がありません。黒繰さんは、現場に行けば私がなにか思いつく、そう期待しているかもしれませんが、現場に行っても、なにもわからない、かも……。つまり、黒繰さんを失望させてしまうかも、と……」
明崎さんはこれまで、相談役としての探偵を主な活動としてきた。それは人間関係の相談であり、人の心を解きほぐすための相談。
おそらく彼女は、いわゆる『事件』を解決した経験に乏しいのだ。俺たちが出会うきっかけとなった殺人事件は、唯一例外だったに違いない。
――それがなんだ!?
俺は悔しさに歯噛みした。経験不足なんか全然問題じゃない。明崎さんには探偵としての才能がある――それは俺が保証する――のに、彼女は自分の力が信じられないのだ!
思わず、がたん! と音を立てて立ち上がった。明崎さんの肩が跳ねる。ああ、驚かせてしまった。しかし俺は自分を止めることができず、立ち上がった勢いそのまま、明崎さんの座席横の通路へ移動した。明崎さんは怯えたように身体の重心を窓側へと傾ける。
「く、黒繰さん……?」
緊張と不安の入り混じった表情が俺を見上げている。
自分を落ち着けるため、深呼吸を一回分。なんとか平静をかき集めると、俺はその場に跪いた。
「!?」
明崎さんが硬直する。驚いたまま中空で固まっている右手を取って引き寄せると「ひゃあっ!?」と小さく悲鳴を上げて頬を染めた。
「え!? あの、黒繰さん!?」
地面に膝をついたことで彼女と目を合わせやすくなった。白黒している大きな瞳を真っ直ぐ見つめて進言する。
「現場に行こう、明崎さん」
「んえ!?」
「行ってもなにもわからないかもしれない。でも、それは君が探偵を始めて間もないからだ。大丈夫、少しずつ成長していけばいい。俺はいつでも君を支えるよ」
「え、えと、え?」
「切れ込みを入れた紙を敷いて、上からチョークを塗るという推理、素晴らしかった。俺にはなかった発想だ。たしかに今回は適さない。敷いた紙の回収に時間がかかりすぎる。けれど、別に失敗だなんて思ってない。焦らないで。君の力を信じてる」
「あ、あの!」
明崎さんは顔を真っ赤に上気させ、目に涙を浮かべていた。声は震え、上擦っている。
「わかりましたから、手を、放してください、現場を見に行きます、その前に、お手洗いに行きたいです、そこを、どいてください」
名残惜しさはあったが、言われたとおりに手を放し、立ち上がって横にズレた。
「ちょっと、待っててくださいね、あの、すぐには戻れない、ので」
そう言い残して、明崎さんは小走りにお手洗いの方向へ消えた。
俺は自分の右手に視線を落とした。さっきまで、この手の中に明崎さんがいたのだ。どんどん体温の上がる、汗ばんだ小さな手が。
……もしかして、逃げられたのか?
頭に上っていた血がゆっくり引いていく。
俺の意図としては『現場に行こう』『期待している』『けれど、探偵としての成長はゆっくりでもいい』だ。探偵初心者で自信の持てない明崎さんに、心からの応援と鼓舞を伝えたつもりだったのだが……。
もしかして、真に迫りすぎて怖かった? それとも、感動しすぎて耐えられなかった? 前者だったらどうしよう。怖がらせてしまったとしたら。もう助手は必要ないと言われたとしたら。明崎さんに嫌われたとしたら……。
最悪の想像に一歩フラついた俺の肩を誰かが支えた。
「おっと、お兄さん、だいじょぶスか」
喫茶店員だった。短く整えられた金髪に派手なピアスの、二十代中盤と思しき若い男。身長は目算して一七〇、俺のほうが五センチ高い。寄りかかりすぎると支えきれないかもと思い、両足で地面を踏みしめ直す。
「いや~、彼女さん、逃げちゃいましたね。でもあれ、照れ隠しじゃないスかね? そんな落ち込まなくてもすぐ戻ってくるですよ。全然脈あるほうだとオレは思うんで」
「本当?」
縋るように尋ねると、店員の男はへらりと笑って親指を立てた。
「もちです! 告白、ナイスファイトでした! ちなみに彼女さんが戻ってくるまでに会計したいなら、今だとオレは思うんで」