1-1・黒幕と探偵
人間を殺す方法はいつも思わぬ場面で思いつく。
たとえば入浴中、洗い終わった髪をシャワーで洗い流すとき。
今だ。
降り注ぐ湯を雨のように受けながら、俺はしばらく茫と立ち尽くしていた。なるほど、そういう方法でも殺せるか。俺は髪を掻き上げると、風呂を早めに切り上げるべきか、それとも当初の予定通り湯船でゆっくりくつろぐべきか、少しだけ考えた。
「ま、忘れるようなら大したことないトリックだったんでしょ」
呟いて、きちんと髪を洗い流すことにする。
黒を基調とした高級感ある広い浴室。備え付けの大きな浴槽に、水垢ひとつ付いていない嵌め込み式の大きな鏡。
風呂なんてどうせ毎日入るのだから金をかけたほうがいいに決まっている。効率主義的観点ではない、気分の問題だ。
俺は入浴という生活動作を好ましく思っている。一日の終わりに湯を浴び、湯に浸かる。肉体の清潔は保たれ、疲労は回復し、気分までもがリフレッシュ。非常に優れた生活機構だ。発明品と言って差し支えない。
そして血液の巡りをよくすることは睡眠の質を向上させるだけでなく、脳の活動にも貢献する。ちょうど今のように。
ただし、趣味に関するアイデアを思いついたからといって、入浴より優先されるかと言えばそうではない。たかが趣味の分際で俺個人のリラックス・タイムを妨げようなどと甚だ心外、いや、侵害である。
とはいえアイデアにも鮮度がある。そこで登場するのが浴室常備用の小型ホワイトボードだ。このボードを設置して以来、入浴中に閃いた殺人トリックの取りこぼしが格段に少なくなった。持つべきものは便利な道具である。
水性ペンでに適当な文字列を書き込み、湯船に腰を落ち着ける。思いつきをそのまま書くと『包丁』『殴打』『血痕は拭き取っておく』などなど他人に目撃された際に言い逃れが難しいので暗号で書くようにしていた。解読の法則は気分で変わる。その日限りの法則が思い出せずポシャることも稀にあるが、しかし、人間を殺すためのトリックなんて腐るほど、売るほど思いつく。その中のたった一つが泡と消えても、俺は少しも困らない。
インターネットでまことしやかに囁かれる、殺人トリックが買える店。
意外に思われるかもしれないが、趣味で運営するこの店の優先順位(あるいは重要度)は俺の中では割と低めだった。
商品が買い尽くされようと、店に閑古鳥が鳴こうと、失敗するか捕まるかした客が警察相手にギャンギャン喚こうと、どうとも思わない。関心がない。どうでもいい。
では、そんな俺が最近一番優先しているものはというと。
「あっ!」
と声を上げ、思わず浴槽から立ち上がっていた。脱衣所に置いているスマートフォンが特有の軽快なメロディを奏でている。
彼女からの着信だ。
急ぎ浴室から出てバスタオルを被り、スマホを掴んで通話ボタンを押す。
「もしもし、黒繰さん? いま、大丈夫ですか?」
ああ、凛とした鈴のような可憐な声音。俺はまだ雫の滴っている髪を避けてスマホを耳に当てる。スピーカーにしないのは、彼女の声をより近くに感じたいからだ。
「もしもし。どうかしたのかな、明崎さん?」
努めて冷静を装い応える。頬が上気するのは、果たして湯上がりだけが理由だろうか。
「ちょっと、ご相談したいことがあって……今週末の日曜日、いつもの喫茶店で待ち合わせたいんです。午後三時頃になりそうなんですけど、大丈夫ですか?」
その日、その時間、誰とどんな予定があろうとも、俺は必ず彼女のもとへ駆けつけるだろう。が、この決意を言葉に表すのはちょっと露骨すぎるので「確認してみる。今回もご依頼の相談かな?」と極力普通に返答した。
「そうなんです。いつもご足労をおかけして申し訳ないとは思っているんですけど、友達からの紹介で。……とても困っているみたいなんです。放っておけなくて」
「友達想いだね。わかった、なるべく調整してみよう」
「いつもすみません」
「いいんだよ。俺は君の助手だから」
そう、助手。今の俺は彼女――明崎明さんの探偵助手だ。
きっかけは、ある殺人事件。俺の売ったトリックが発端らしい現場に偶然居合わせ、容疑者の一人として経過を眺めていると、同じく居合わせた明崎さんが一人で探偵のようなことを始め、なんと、驚いたことにそのまま事件を解決してみせたのだ。
解決して、魅せたのだ。
俺は彼女に魅せられた。明快な推理、地道で泥臭い証拠集め、なにより現場に居合わせた不幸な俺(あるいは現場に居合わせた不幸な全員)に対しての心からの思いやり、優しい声かけ、気遣う素振り、明るい笑顔。
ただ、当時の彼女は頭脳自体はそこそこ優秀でも探偵としては未熟だった。食すにはまだ若く、あまりに小さい青い果実。現にこのとき、明崎探偵は詰みかけた。
そこに、幸運にも居合わせた俺が小さく助言を添えたのだ。気付くか気付かないかギリギリの、トリックの発案者による反則行為。気付かなければそれまでだったが、彼女は、きちんと俺の意図に気が付いた。
「それ! それ、どういう意味ですか!?」
今なお鮮明に思い出せる。彼女の、興奮のため赤らんだ頬と、赤縁眼鏡の向こうで瞬く星を架ける輝いた瞳。この違和感の正体を掴めば人々を助けられるという正義感に、そうすべきという使命感。あまりに真っ直ぐな善性の塊。それを実行するには小さく脆く弱い体躯。
ああ、なんて愛らしい!
まさか答えを知っているなんて言えないわけだから、彼女のためだけに用意したそのヒントを、俺は「きっと気のせいだよ」と誤魔化した。
しかし明崎探偵は止まらなかった。彼女は提示された違和感に食らいつき、考え、探り、真実を掴んだ。
犯人を言い当てた!
感動した。きまぐれに両手で温めた卵から雛が孵るのを見るような気分だった。
誕生を願ったわけではない。しかし手を差し延べた結果、卵の殻は破られた。手のひらの上で懸命に真実を囀る姿に、俺はたしかに高揚したのだ。
そして思った。
成長した雛が大空に羽ばたけば、どんなに痛快だろう、と。
だから俺から提案したのだ。明崎さんが、犯人を見つけ出せたのは俺のおかげだと礼を言いに来たとき、俺のほうから言ったのだ。君の助手をさせてほしい。今回の事件で役に立てて嬉しかった。もし君が探偵を望むなら、俺はその助手でいたい。
明崎さんは少々戸惑っている様子だったが、最終的には、俺の提案を受け入れた。
「では黒繰さん、また日曜に」
電話口の声にハッとする。
「うん、またね」
明崎さんとの通話を終えると、俄然、日曜が楽しみになっていた。ネクタイは何色にしよう? シャツは? ジャケットは? 時計は? カフスは? ファッションとはバランスである。アイテムひとつを極端に着飾っても意味がない。全体的に傾向を統一し、見せたい自分を演出する。コンセプトとしては『格好良い大人の男性』『仕事が出来そう』あたりが鉄板だ。大学生の明崎さんから見たとき、二十六歳の俺はきっと格好良い大人でなければ――
「くしゅんっ!」
そういえば入浴途中だった。
『ファッションとはバランス』だ? ノー着衣で言うことではない。
俺はスマホを再度脱衣所に置くと、湯船へ引き返した。身体が冷えてしまった。常に空調が効いているからといって、油断して風邪なんか引いては元も子もない。
日曜の俺は明崎さんのための探偵助手なのだ。すべてが完璧でなければならない。
風呂上がり、服をきちんと着た俺は、まず書斎へ向かった。
壁という壁を本棚に囲まれた、窓のない部屋だ。部屋の奥に艶やかな木製のデスクと、機能性にこだわったオフィスチェアが一脚。
来客は想定していない。ここは俺の私室なのだ。椅子は一脚でいい。
ちなみに、来客は皆リビングに案内している。大きな窓から見下ろす東京の街並みが、老若男女を問わず万人に好評だ。
書斎机に乗ったデスクトップ・パソコンのスリープを解除し、スケジュールとメールフォルダを開く。
普段の俺は不動産系企業の一役員だ。
働く必要もないほどの個人資産を抱えながら、血縁一族が経営する企業グループに所属している。
会社役員という仕事に比べれば、探偵助手や、殺人トリックの販売はあくまで趣味と呼べるだろう。
が、優先順位はともかくとして、俺の中での好感度(あるいはやる気)がもっとも低いのがこの仕事だった。明崎さんのための探偵助手より、こんなどうでもいい、どうとでもなる仕事が優先されるなど嘆かわしい。最悪、俺じゃなくていい。誰が役員でも会社は、社会は回るのである。
しかし、探偵助手は違う。明崎さんの探偵助手は俺でなくてはいけない。俺がいなくてはいけない。俺が必要だ。……そう、明崎さんに思われたい。
日曜午後に予定されていたミーティングをリスケしながら、明崎さんの立ち姿を思い浮かべる。
濡鴉の黒髪を肩より長く伸ばした、赤縁眼鏡の女子大学生。白い肌、飾り気のない爪、薄く色づく唇。なにより、星を封じ込めたように輝くあの大きな瞳が好ましい。
明崎明さんとは出会ってそろそろ三ヶ月になる。私立桜花宴大学文学部教育学科二年生、七月七日生まれの十九歳、交際中の相手は現在はおらず、性格は控えめ、しかし正しいと思ったことはやる芯の強さがある、友人は女性のほうが多く、相談しやすい雰囲気からか話の聞き役に回っていることが多い、探偵としての活動はその延長で、謎解きや犯人当てよりも相談役とかセラピストといった役割でこそ真価を発揮する、一人っ子、両親健在、上京してからは一人暮らし、住所は……知っているが、訪ねたことはまだない。
よし。日曜に向け、打てる手はすべて打った。
俺はパソコンを再度スリープさせ、日曜のネクタイを吟味することにした。ファッションはバランスだ。ネクタイを起点に『仕事の出来る格好良い大人の男性』を構築していく。明崎さんとの予定は毎回が勝負服と言って過言ではない。そういえば依頼人も同席するんだっけ? まあ、どっちでもいい。依頼人など、いてもいなくても構わない。明崎さんさえ隣にいれば。
……今のうちに言い訳しておこう。
このとき、俺は明崎さんに会うのが本当に楽しみで、浮き足立ち、溢れるわくわくを抑えようともしなかった。
依頼内容を想像だにしなかった。
趣味で売ったトリックが失敗した挙句の果て、その後始末を依頼されることになろうとは――……。