VOICE.3 シスターの五日間 後編
5
弁護士はうまく排除できたが、事態が好転したとはいえない。
探偵事務所で、わたしたちは話し合うことになった。
「どうするんですか、これから?」
しかし世良さんの表情からは、まったく余裕は消えていなかった。
「予定どおりだよ」
助手さんが、クスっと吹き出した。
「さすがに公安が介入してくるとは、王海さんでもわからなかったですよね?」
「まあ、それを言われたらね」
では、あの電話がなくても、樺島弁護士を丸井省吾から引き離せたということだろうか?
「世良さん……どうやらあの弁護士が、これの犯人だったようですけど、ヘタをしたら名誉棄損で訴えられてましたよ」
わたしは割られた窓を見て言った。
「これ? ああ、窓のこと」
遅れて世良さんは理解したようだ。だが世良さんの視線は、ずっとわたしのことをとらえていたはずだ。
どうしてだ?
「あ、あの……やっぱり、そういうことなんですか?」
唐突に、吉田が声をあげていた。なんのことを話しはじめたのか、見当がつかない。
「なんなの、吉田?」
わたしは、あきれた声をあげてしまった。どうせ、たいした内容ではないだろう。
「世良さんは……」
「世良さんが?」
「あ、いえ……これまでも、ヘンだと思ってたんですよ」
「だから、なに?」
なかなか要点を口にしない吉田に、わたしのイライラは増していた。
タイミングが悪いことに、わたしの携帯が音をたてた。河本からだ。
「はい」
『おまえら、どこにいるんだ? 姫木まなの起訴が決まったぞ』
「え……」
『どうした?』
「供述調書は?」
『正式には明日だから、それまでになんとかしろって。最悪、サインはいらないってことだが』
慎重なはずの検察が、かなり前のめりになっているようだ。
「それ、待ったほうがいいかもです」
『あ?』
「ですから、やめたほうがいいです。丸井省吾は、本当にストーカーだった可能性があります」
『可能性ってだけじゃ、この流れは止められない』
もっとハッキリ言わなければ、ダメのようだ。
「完全にストーカーです!」
わたしは言い直した。
『おい……』
なにをいまさら──という思いが携帯越しにも伝わってくる。
「それと、このことを調べている探偵事務所の窓ガラスが割られる事件が発生しました」
『あ? なんだ、それ? どうでもいいだろ、そんなの』
本件と関係がなかったとしても、警察官としていまの発言は擁護できない。
「その犯人が、丸井流通の顧問弁護士みたいです」
『は? なんのことだよ。こっちの事件とは無関係だろ?』
「関係あるから話してるんですけど」
トゲを隠さずに、わたしは伝えた。
「とにかく、待ったほうがいいですよ!」
『なに言ってんだ、おまえ! いいから帰ってこい!』
とりつくしまもない。一方的に切られてしまった。
「どうしたんですか、シスターさん?」
「起訴するって」
「姫木まなさんを?」
それ以外に、だれがいるのだ。吉田は、つねにわたしをイライラさせる。
「世良さん、そういうことですから」
わたしは署にもどろうと動き出していた。
「警察だけでなく、検察のことも突っついているようだね」
世良さんの口調は、のんびりとしていた。思わず急ごうとしていた足が止まった。
丸井流通のような大企業なら、不思議なことではない。与党幹事長と懇意にしていると言ったのは、世良さん自身だ。もちろん本来なら、あってはならない忖度だけど。
「世良さんは、警察には顔がきくかもしれませんけど、検察が相手なら、おとなしくしていたほうがいいですよ」
そのことだけは、忠告しておいた。
世良さんは、笑みをたたえていた。余裕の笑みといったところだろうか。
探偵事務所を出たわたしたちは、まっすぐに署へもどった。
「おまえら、探偵事務所に出入りしてるのか?」
まず、河本に嫌味を言われた。
「窓を割られたとの訴えがあったので」
「……まさか、ブラザーが関係してるってことじゃないよな?」
次いで、疑惑の眼を向けられた。
兄と世良さんが同期なのは、よく知られていることらしい。
「課長から言われてないか? その探偵には関わるなって」
さらには、脅しをかけてきた。
「そんなことは言われていません」
わたしは、とぼけた。
「だったら、おれが言ってやる」
「……世良さんを恐れてるんですか?」
わたしは、バカにした気持ちを隠すことなく、そう返した。
「ああ、怖いね」
拍子抜けした。河本は、あっさりと認めてしまった。
「元公安なのは、知ってるんだよな?」
「え、ええ……」
直接教えてもらったわけではないが。
「例の誘拐事件を解決したのも、実際にはその探偵だ」
誘拐事件──兄が、有名政治家を逮捕した件にもかかわっているという話は聞いたことがある。六年間未解決だった少女を無事に保護したという奇跡のような事件……。
その裏に、世良さんがいた?
「ほかにも解決してるらしいぞ……。でな、これはあくまでも都市伝説みたいなもんなんだろうが、警視総監でも頭があがらないそうだ」
さすがにそれは、眉唾ものだ。
だが、その都市伝説が本当なら、河本や課長につくよりも、世良さんについたほうが利口じゃないか?
わたしは、打算を頭のなかでめぐらせた。
いやいや、さすがにそれを信じるわけにはいかない。
「とにかくおまえは、供述調書にサインをさせろ」
「強要なんてできませんよ」
「いいから、やれ。ダメでも、起訴の流れは変えられないんだ。そう言って説得しろ」
不条理な話し合いをしているときに、声をかけられた。知っている人物のものだ。
「失礼しますよ」
樺島弁護士だった。
意外だった。探偵事務所の窓を割った犯人だとあばかれた時点で、もうこの件にはかかわらないと考えていたのに。
丸井流通としても、なんとかして事件を終結させたいのだ。
「姫木まなさんの弁護活動をすることになった樺島です」
「え?」
わたしは、聞き間違えたのかと思った。
「姫木さんの?」
「はい」
「樺島さんは……丸井流通の顧問弁護士でしたよね?」
「そちらは解任されました」
そうだとしても、すぐに姫木まなの弁護士になることはないだろう。
「姫木さんから依頼されたんですか?」
わたしは質問しておいて、それはないということがわかっていた。勾留中の被疑者は、どこにも連絡はできない。相手が弁護士だったとしてもだ。
とはいえ、被疑者は弁護士を雇う権利を保障されている。その場合は、警察官がかわりに連絡をすることになる。河本や、ほかの署員が手配したという話は聞いていない。
もしくは、家族が依頼したか……。しかし、彼女の両親はすでに亡くなっている。たしか親の友人だった女性に、なにかと世話になっていると、最初の取り調べのときに話していた。その女性だろうか?
いや、もう一つの可能性がある。
樺島弁護士が、自主的に名乗り出た──。
「ルール的に、まずいんじゃないですか?」
それまでの依頼人から寝返る行為だ。倫理違反に問われるのではないだろうか?
「いえ、私は丸井流通の顧問弁護士ではありましたが、丸井省吾さんの弁護活動はしていません」
キッパリと弁護士は言った。
たしかに捜査を牽制していたのは、正式な弁護活動ではないのだろう。姫木まなさんに対して民事裁判をおこしていたのなら話はべつだろうけど。
「ですから、なにも問題にはならない」
「でも、どうしてですか? 解任された腹いせですか?」
「そんな動機なら、それこそ倫理違反ですよ」
樺島弁護士は、冷静に指摘した。
「依頼があったからですよ」
一拍置いたあと、弁護士は言った。
「本人からじゃないですよね?」
「これ以上は、守秘義務がありますので」
わたしは、そこでひらめいた。
「まさか……世良さん?」
「……」
樺島弁護士は、ごまかすように視線を泳がせた。
そうなのだ。世良さんが、この弁護士を動かした。事務所の器物破損について不問にふすかわりに、弁護を引き受けさせたのではないだろうか?
だからこそ、倫理違反を覚悟で……。
丸井省吾のストーカー行為についても、よく知っているだろう。ある意味、むこうサイドとしては最悪の相手ということになる。
わたしは、河本の顔色をうかがった。いまの会話で、だいたいの事情は理解できたはずだ。
「わかりました。取調室を用意します」
わたしは弁護士に言った。
しかし、実際の面倒くさいことは吉田にまかせることにして、わたしは河本をいたぶることにした。
「あの弁護士が、敵になっちゃいましたね」
「あ?」
あきらかに不快な表情が返ってきた。
「いいんですかねぇ」
「なにがだ?」
「このまま丸井流通のラインに乗っちゃって」
「……なにが言いたい?」
「姫木まなさんのほうに乗ったほうが……」
わたしは、あえて言葉を止めた。
「……」
河本は、難しい顔をして考えはじめた。典型的な上に弱くて下に強いタイプだから、こういう処世術は苦手なはずだ。
「バカなことを言うな!」
やはり、上からの命令以外はうけつけないようだ。こんな人間にだけはなりたくない。
「弁護士が来たって?」
課長も慌てていた。
「はい。丸井流通の顧問弁護士だった人です」
わたしは説明してあげた。もっと冷や汗をかけばいい。ついでに、署長にも教えておこうか。
姫木まなとの面会を終えた樺島弁護士が、吉田に案内されるように廊下を歩いていた。吉田の腹は、すでに決まっているようだ。
その日はそれ以上、なんの動きもなかったが、翌日になって、いろいろと騒がしくなっていた。
「過剰防衛の線で、聴取してくれ」
課長からの指示があった。一段階、犯罪性が低くなったということだろう。
「丸井省吾がストーカーだったという証言は、どうしますか?」
「それとこれとは、べつだ」
憤然とした返答だった。わたしは、心のなかだけでほくそ笑んでいた。
しかし午後になって、また方針が変わった。
「やっぱり、傷害罪での起訴をめざす」
警察としては弱気になったとはいえ、検察はそうではないらしい。丸井流通にどうしても従いたい人物が、上にいるのだろう。
この署は、いわば検察と正義の板挟みになっているのだ。言い方を変えれば、丸井流通の圧力と世良さんとの戦いともいえる。
この署で、世良さんについているのは吉田しかいない。
わたし?
わたしは、どちらも選ばらない。もしどちらかにつくのだとしても、結果が出てからでも遅くはない。
勝馬になんとやら、だ。
「サインは無理ですよ。過剰防衛でも拒否されたんですから」
「どんな理由であれ、傷害行為はおこなわれたんだから、なんとかサインさせろ」
検察は調書のサインがなくても起訴に踏み切る方針だったはずだが、そこは及び腰になっている。検察も不利なのを自覚しているのだ。
わたしは、命令のままに取り調べを継続することになった。これまでのようなやり取りを、姫木まな相手に繰り返していく。
が、すぐに吉田が駆け込んできた。
「シスターさん!」
「どうしたの?」
「丸井流通が──」
耳元で報告を聞いた。
二時からのワイドショーで、丸井流通の疑惑が報じられたそうだ。政治家への違法献金ということらしい。
わたしの脳裏に、公安の声が浮かんだ。樺島弁護士への電話では、兵器に転用できる輸出禁止品の疑惑をなすりつけるということだったが、もっとシンプルな方法をつかったようだ。
それとも、本当の話なのだろうか?
こうやって検察や警察にまで圧力をかけていることを考えれば、そういうことを本当にやっていても不思議ではない。
「どうしますか?」
吉田の問いかけは、わたしの頭脳をフル回転させるには充分だった。
「今日は、ここまでにしましょう」
呼んだばかりなのに、すぐに彼女を留置施設へもどした。
「ねえ、吉田……丸井省吾を逮捕するには、どうすればいい?」
「え? 罪状は、ストーカー規制法違反ですか?」
「もっと重いほうがいいけど、ムリでしょ?」
「そうですね、ほかに方法はないと思います。ストーカー規制法なら、被害者……この場合、姫木まなさんに告訴してもらうのが一番手っ取り早いです」
「うーん」
わたしは考え込んだ。
「なにか問題ですか?」
「一回警告しなきゃいけないのよね?」
「そうです。ストーカー行為が認められれば、まずは警告します」
「それだと遅すぎる」
「報復を恐れてるんですか?」
「それもあるけど、とっとと逮捕したいのよ。そのほうが得でしょ?」
「得って……姫木まなさんにとってですか? それともシスターさんにとってですか?」
「両方にとって」
嘘をついているわけではない。どちらが優先されるかといえば、わたし自身の利益についてだけど。
「いますぐ逮捕する方法はない?」
「ストーカー規制法ではムリです。でも……緊急性が高ければ、警告をせずに逮捕することも、できるにはできるんですけど……」
「それにかけてみようか」
「じゃあ、姫木さんに告訴してもらいましょう」
「そもそもなんだけど、ストーカー規制法って、親告罪だっけ?」
「ちがいます。2016年に改正されました」
「じゃあ、訴えがなくても立件できるんじゃない?」
「建前上は、そうなりますね」
「じゃあ、やっちゃっていいんじゃない?」
「ムリですって。逮捕状の請求がとおりません」
「でもさ、姫木まなさんのほうが勝馬なんだよね。裁判所も、そっちに乗るんじゃない?」
「そんなことで裁判所は左右されませんよ。それに手続きは、ぼくやシスターさんでもできますけど、警部以上の許可がなければ請求自体が無効です」
「……警部って、係長でもだめなの?」
「係長は警部補なので、ダメです。捜索令状どまりですね。警部は課長職になります。これ、警察官の基本ですよ」
「ちょっとまえまで、交通課で駐車違反の取り締まりしかしてなかったんだから、仕方ないじゃん」
係長は、わたしの言うことをちゃんときいてくれる常識人(都合の良い人物)だ。係長なら、うまくコントロールできるんだけど……。
ブタ課長は、筋金入りの保守派だ。権力に逆らうような真似は、まずしない。家族をもって安定を求めた時点で、人間として大切ななにかを失ってしまうのだ。
あくまでも、若い独身女の戯言だと思って聞いて。
「逮捕状は、絶対必要?」
「……必要です」
「なんかふくみがあるわね」
「いえ、なんでもないです」
「あるなら言って」
「……」
「そう、ならいい。ちゃんと教えてくれる人に聞く」
わたしは、携帯電話で世良さんの事務所にかけてみた。
「あ、桐野ですけど、世良さんはいますか?」
助手さんが出たけど、すぐに世良さんにかわってもらった。
『遊亜ちゃん?』
その呼び方は、やめてと忠告したんだけど……いまそのことは流すことにする。
「世良さん、いますぐに丸井省吾を逮捕したいんですけど、なにか良い案はありませんか? ストーカー規制法は、まず警告しなきゃいけないみたいなんですよ。それに、課長を動かさないと逮捕状の請求ができないんです。でもほら、管理職って権力に弱いでしょう?」
わたしは、伝えたいことを一気にまくしたてた。
「というわけなんで、簡単に逮捕できる方法ないですか? 多少、非合法な手をつかってもいいと思うんですよね」
相手も、いろいろと卑怯なことをしているのだ。
『警察官なら、正々堂々と犯罪に向かい合わないといけないよ』
そんな正論を聞きたいわけではない。待っているのは、魔法の言葉だ。
『だから、真正面からぶつかるんだ』
「それで逮捕できるんですか?」
『できる』
世良さんの声には、確信があった。
「本当に?」
『本当に』
わたしはそれを信じて、病院へ向かうことにした。
「シスターさん?」
「これから、ストーカー野郎と決着をつける」
6
「丸井省吾さん……あれ?」
しかし、病室に本人はいなかった。
「あの、この部屋の患者は?」
眼についた看護師にたずねてみた。
「退院されましたよ。ついさっきです」
「足は、大丈夫なんですか?」
「そういうことは、お答えできません」
個人情報保護とかそういうのは、いまはいい。
わたしは、警察手帳をかかげた。何度も来ているから、わたしが警察官なのは知っているだろうけど。
「捜査に必要なことです」
厳しい口調で伝えた。
「……大丈夫なんだと思います」
「どういう意味ですか?」
その答えを聞くまでもなく、理解した。
はじめから、骨折などしていなかったのだ。
わたしは、急いで病院を出た。
「シスターさん、どこに向かいますか?」
退院した丸井省吾が、はたして大人しく自宅にもどるのか、それとも……。
「世良さんの事務所に急ぎましょう」
筋金入りのストーカーなら、世良さんを襲うかもしれない。姫木まなさん自身は、一番安全場所にいる。
いえ……。
わたしは、恐ろしい想像をしてしまった。
「ねえ、念のため、署に連絡してくれない?」
「なにをですか?」
「姫木まなさんが、どうしてるか」
「え?」
留置場にいるでしょ、という戸惑いをみせていたが、反論せずに携帯を取り出していた。
わたしは、世良さんの事務所に忠告しておくことにした。
だが、電話に出ない。病院へ来るまえに連絡を入れたばかりだ。どこかへ外出したのだろうか。世良さんや助手さんの携帯番号は知らない。
「あの……」
署への確認を終えた吉田が、どこか呆然としていた。
「どうしたの?」
「釈放するって……」
「姫木さんを?」
「はい……」
「理由は?」
「犯罪性が低いと判断したそうです」
あれほど供述調書にサインをさせようとしていたのに、不可解な方向転換だ。
「被害者との示談も成立したらしいです」
この場合の被害者とは、丸井省吾のことだ。
「本当かな?」
「でも弁護士がついたんですから、交渉したんじゃないですか?」
たしかに、もとは丸井流通の顧問弁護士だったわけだから、そういう話になってもおかしくはない。
が、丸井省吾が退院したタイミングで釈放というは、やはり解せない。
「ねえ、もう釈放したあと?」
「いえ、これからだと言ってました」
「署にもどろう」
わたしは、目的地を変更した。
急いでもどると、いままさに姫木まなさんが釈放されるところだった。樺島弁護士もいる。
「あの、示談が成立したのは本当ですか?」
弁護士のほうに確かめた。
「はい」
短く返事があった。
「示談の交渉は、先生がおこなったんですよね?」
「それが仕事ですから」
「姫木さんが、それを望んだんですか?」
「守秘義務がありますので」
おかしい。いま彼女は、所持品の返却手続きをしているから、離れたところにいる。しかし、すぐに合流するわけだから、本人に聞いてください、とでも言えばすむはずだ。
ということは、本人の希望ではない。
「まさか、世良さんがそうするように進言したんですか?」
「ですから、それには答えることができない」
そうなのだ。
世良さんは、示談にもちこむために樺島弁護士を味方につけた。だが、やはり解せない。
示談ということは、加害者である姫木さんのほうが賠償金を支払うかたちになるはずだ。だからこそ丸井省吾が被害届けを取り下げた。その結果を姫木さんが納得するとは思えない。
傷害での起訴をまぬがれるためだと説得しても、丸井省吾のストーカー行為を糾弾できなくなってしまう。
姫木さんが係長と河本に付き添われて、玄関ホールに降りてきた。
「姫木さん……」
わたしがそう語りかけたところで、署内に入ってきた人物がいた。世良さんだ。少し距離をあけて、助手さんの姿もある。
「さあ、まなちゃん!」
世良さんの声が、署内に響き渡った。予想外に大きな声だった。
どうしていいのか、姫木さんは困った感じになっていた。その背中を樺島弁護士が、ポンと叩いた。
吸い寄せられるように、世良さんに近寄っていく。すると警察署のホールで、二人が抱き合ったではないか。
この二人は、本当に恋人同士だったの?
わたしは唖然としながら、そんなことを考えた。
ほかの職員たちからも注目されている。なにかの相談におとずれたのか、一般人と思われる男女も数人いた。
そのとき、カン、カンという雑音がした。
「え?」
わたしは、虚をつかれたような驚きに支配された。
世良さんたちの抱擁に意識をもっていかれて、いつのまにか署のなかに入り込んでいた存在に気づかなかった。
丸井省吾だ。
丸井は、あろうことか刃渡りの長い戦闘用のナイフを握っていた。こんなものを持っているのに、立ち番はなにをしてるのか……。
いや、隠し持って入ったのなら、丸井は善良な市民に見える。ストーカー疑惑を知らなければ、普通は疑わない。
丸井省吾は、フロアの壁に刃の部分を叩きつけている。それが不快なリズムの正体だ。
「丸井さん、なんのつもりですか? それ、ナイフですよね? 銃刀法違反になりますよ」
わたしは、つとめて冷静に話しかけた。
カン、カン!
頭が痛くなりそうな音だ。
「丸井さん!」
「うるせえな。なんでかなぁ?」
彼の語気は、むしろ穏やかなものだった。
「なんで、そんなジジイなんだ?」
世良さんは、姫木さんを守るようにして立っていた。ジジイというのは、この世良さんのことなのだろう。
わたしの眼から見たら、どう考えても世良さんのほうが魅力的だ。丸井の利点は若さと親の資産だけであり、すくなくともわたしにとっては恋愛対象にはならない。
と……そんな恋愛観を語っているときではないわね。署内なのだから、ここは警察官だらけだ。すでに丸井省吾は包囲されている。
だが彼は、わたしの獲物だ。手錠をはめる資格があるのは、わたしだけ。崇高な志をもって、包囲の輪に入ろうとした。
「みなさん、ご覧になっていますね? これが、丸井省吾が姫木さんをストーキングしていた証拠です」
世良さんの声が、場違いに響いた。
大騒ぎになっているから、刑事課のメンバーも全員が玄関フロアや、二階の吹き抜けから見物している。
課長の姿もある。
署長の顔もあった。なにごとですか、と他人事のような顔しているのがムカついた。
世良さんの言葉にドキリとしていない幹部連中どもを、はっ倒してやりたかった。
いや、機会があったら必ずやってやる。
「てめえら二人をヤったら、捕まってやるよ」
丸井省吾は、この期におよんでも犯行を遂げるつもりだ。現実的にはありえない。多くの警察官に囲まれているのだ。
「おれに逆らうのか、おめえら! おれは上級国民だぞ!」
「省吾さん、やめてください。この状況は、たとえ社長でも、どうすることもできませんよ」
樺島弁護士の説得は、ききそうになかった。
「だまれ、裏切り者が!」
「まあ、あなたも被害者よねぇ」
わたしは、発言した。
「あ?」
「だって、あなたに悪いをことをやってはいけないと教えるはずの大人たちが、あなたを甘やかして、こんなクズにしちゃったんだから」
「なんだと!?」
「みんなが、あなたのことを守ってくれるって、思い込んじゃってるんだ。でもね、世の中はそんなにうまくはできてないのよ」
「うるせぇ! どうにかすんだよ!」
「弁護士さんの話を聞いたでしょ? パパでもどうすることもできないの。これまで、ここの警察官が、あなたに便宜をはかってたとしても、検察やここの署長が忖度してくれたとしても、そんな腐った人間ばかりじゃないから」
わたしは、みんなに聞かせるように言ってやった。
「あなたは、世良さんに踊らされたの」
「なんだと!?」
「どうして、ここにやって来たの? 姫木さんが釈放されるって、どうしてわかったの?」
「それは……連絡がきたんだよ!」
「だれから?」
「そこの弁護士が……」
「もうあなたたちの弁護士じゃない。姫木さんの弁護士になった樺島先生が、どうしてそのことをあなたに話したのかなぁ?」
「……なに言ってる!」
「たぶん、世良さんが全部仕組んだんだよ」
世良さんの表情は、どこも変化していなかった。それこそが、この考えを後押ししてくれる。
「わたしは、あなたをすぐに逮捕したいと思った。でも、あなたは権力に守られてるし、ストーカー規制法で逮捕するには、いろいろと手続きが面倒なのよ。でも、あなたをすぐに逮捕できる方法を、世良さんは用意してくれたの」
真正面からぶつかる。
つまり、このような状況だ。
「あなたを、姫木まなさんへのストーカー行為で、現行犯逮捕します!」
現行犯に、逮捕状は不要だ。
このケースで、ストーカー規制法違反での現行犯に該当するのかは知らない。が、そんな些細なことはどうでもいい。
「銃刀法違反、傷害未遂、公務執行妨害、ほかになんかある?」
わたしは、吉田に確かめた。答えてくれるのは、だれでもよかったけど。
「この場合、成立しているのは銃刀法だけですよ」
やはり、接近禁止命令が出ているわけでもないから、ストーカー規制法での現行犯はムリなのだ。
「傷害未遂と公妨は、これからわたしが成立させる」
わたしは断言した。
「男どもは、そこで見てな」
丸井省吾に近づいた。
「ナメんな! 独学だが、MCMAPをマスターしてんだ!」
丸井は、うそぶいた。
「海兵隊マーシャルアーツプログラムってやつ?」
わたしは、バカにした。
おおかた、動画を真似た程度のものだろう。
「みせてやるよ!」
丸井の重心が低くなった。ナイフをもてあそぶように、細かく振りはじめた。
「ナイフだけなら、ブラックベルト並みだぜ!」
MCMAPには技術的な等級があって、下からタン、グレー、グリーン、ブラウン、ブラック1,ブラック2とある。いわゆる、空手や柔道の帯のようなものだ。
たしかに、丸井のナイフの動きは素人とは思えなかった。黒帯とまではいえないが、多少はつかえそうだ。
でも、わたしの敵じゃない。
あ、そうだった。まだわたしの特技を教えていなかったね。
わたしの父は、古武術の師範をやっている。わたしも小さいころから鍛えられた。兄は頭もいいし、性格もいいし、勇気もあるし、とにかく立派な人だけど、唯一、わたしが勝っているのがそれだ。
断言しよう。
女性警察官で、わたしよりも強い人はいない。男にまじっても、負けない自信がある。すくなくても、わたしよりも強い人間に会ったことがない。
あ、師匠である父だけは例外だ。
最強。
わたしは、この男を一瞬で仕留めることができる。
リズムを合わせる。
この男の呼吸、血流、それから……とにかく、この男のリズムと同調する。
トン、トン、トトトン。
そう、そのリズムだ。
「え?」
わたしは、驚いた。
いまの音は、わたしの心で計ったリズムではない。だれかが音を発しているのだ。
だれ?
この状況で丸井省吾から顔をそむけるわけにはいかない。だけど気になる。
一秒にも満たない時間で、わたしを音の発生源をさがした。
世良さん?
わたしは、信じられないものを見た。
世良さんが、靴でリズムをとっていた。
そして……。
すでに視線はもどしているから、それを見たのは一瞬だ。しかし、見間違いではない。
世良さんは、眼をつぶっていた。
見ていないのに、丸井省吾のリズムがわかるわけがない。
では、どういうことなのか?
眼をつかわなくても、わたしと同じことができる。それが可能だとして、考えられるのは気配。
だが、それはわたしの父よりも武道の達人でなければムリだ。いくらなんでも、それはない。世良さんがそれだけの腕前ならば、わたしの家に遊びにきたとき、その話をしていたはずだ。
ほかに可能性は、音?
世良さんは、丸井省吾の呼吸音を聞きわけているのだ。もしかしたら、鼓動の音も?
わたしは、背筋に寒気をおぼえた。
そしてそう考えたとき、すべてのことが合致した。
世良さんは、眼が……。
これまでの一つ一つの言動や行動が、それを指し示している。だからこそ、驚異的な聴力をもっているのではないか。
わたしの呼吸が乱れそうになっていた。
いまは頭のなかを真っ白にして、眼の前の敵を排除する。
一秒もいらない。
わたしは一歩で接近し、丸井省吾がナイフを突くよりもはやく、肘で彼の腕を跳ね上げた。
がら空きになった胴体に密着すると、兎蹴──柔道でいうところの大外刈りを仕掛けた。
うちの技は、投げば終わりという武道ではない。
床へ倒れる力を利用して、肘打ちを相手の首に叩きこむ。
危なかった。もう少し力が強ければ、首の骨を折っていたところだ。
だけど、それでわたしの攻撃が終わるわけではない。くどいようだが、うちの技は競い合うための武道ではない。殺すための技術だ。
仰向けに倒れる丸井の上で身体を反転させると、腕をからめとって首といっしょに絞めあげる。
鹿殺し──一般的にいうと、変形の片羽絞めにあたる。
丸山省吾の意識は、瞬間で落ちていた。このまま力をゆるめなければ、あと二十秒で絶命する。
「シスターさん! そこまで!」
あわてたような吉田の声が響いた。
わたしは、技を解いた。
世良さんのことを見た。笑っていた。瞼は上がっている。その瞳は、よくよく観察してみれば、少し視点がずれている。やはり、世良さんの眼は……。
それまで見物していただけの男どもが、われ先にと、丸井を取り押さえる。
そうはさせない。
「吉田、時刻!」
手錠をかけるのは、わたしだ。
「はい! 十六時二三分」
「丸井省吾、現行犯逮捕!」
* * *
「またお世話になっちゃって!」
事務所に現れた赤松の声は、いつにもまして興奮していた。
「まなちゃんを助けてもらって、本当にありがとう!」
世良は、微笑んだ。
あのあと、丸井省吾のストーカー行為が認定され、接見禁止命令が出されている。銃刀法違反ですでに起訴されているが、傷害未遂での起訴は見送られていた。
むこうの新しい弁護士が保釈申請を出しているが、いまのところ認められていない。認められたとしても、姫木なまに近づいた時点で逮捕されることになるはずだ。その場合、保釈金も没収される。
樺島の見解では、保釈になるかは半々だという。それにいま、丸山流通は危機に瀕している。これまでにおこなっていた不正が明るみに出たのだ。息子の不祥事と重なって、社会的に叩かれている真っ最中だ。
そのことにも、公安がからんでいるのだろうか。もしそうだとしても、世良への援護ではない──厳しくそう見立てている。
これから、その代償を要求してくるかもしれない……。
「まなちゃんも、無事に仕事復帰できたみたいだし、あなたたちには感謝しかないわ」
姫木まなは不起訴となり、検察は警察の捜査の不手際を糾弾することになった。いわば、責任を警察におしつけようとしているのだ。警察も黙ってはいないようで、検察からの指示で強引な捜査をせざるをえなかった、という警察関係者の発言がマスコミにリークされていた。ある種の下剋上だ。
すでに、あの警察署の署長が辞職に追い込まれ、桐野遊亜の上司である課長が左遷されたそうだ。
河本という班長が減俸だけですんだことに、とても悔しがっていた。
「それでね……」
「いえ、料金なら──」
このやりとりはいつものことだ。
「そう言うと思って、これをもってきたのよ。これぐらいならいいでしょ?」
「なんのチケットですか?」
質問しているようで、峰岸がそれとなく教えてくれたのだ。
「夜景の見える展望レストラン。二人で行ってきてよ」
レストラン……。
依頼の話でないのなら、また難しい事態に直面することもないだろう。だが、彼女はいろいろなものをこの事務所に呼び込んでくれる。一抹の不安がやどるのだが……。
「では、ありがたくいただきます」