VOICE.3 シスターの五日間 前編
1
無機質な空間が、人の心まで貧しくしていくようだった。
「それで、手を出してしまったんですね?」
「……そのことには、悪いと思ってます。でも……むこうのほうが、もっと悪いです!」
「相手の男性は、怪我をしてるんですよ?」
「だって……」
眼の前にいる女性は、姫木まな、という。年齢は二十歳。大学生。歩道橋から男性を突き落とした容疑で逮捕されている。
本人は正当防衛を主張しているが、男性は全治二ヵ月の重症を負って入院している。姫木まなの証言が本当だとしても、過剰防衛はまぬがれないかもしれない。
「あの男は、ストーカーなんです! もう何ヵ月もつきまとわれてます! 同じ女性なら、どんなに怖いかわかるでしょう!?」
「でもね……手を出したら、ダメなのよ」
そう諭すしかない。
相手の男性の訴えをうけている以上、警察としてもその方向で動くしかない。検察も起訴までもちこもうと力を入れている。
「わたしにやったことは、どうなんですか?」
「被害届は出していませんね? 警察に相談をしたことはありますか?」
「ありません……」
「どうしてですか?」
「警察にストーカー被害を訴えても、なにもしてくれないでしょう!?」
「そんなことはありません」
「なにもしてくれなかった、っていうニュースをよくみますよ!」
そこを突かれると、言い返しづらくなる。
たしかに、そのような事件はめずらしくもない。警察がストーカー事案に消極的なあまり、被害女性に危害がくわえられた事件は多い。
だが……警察が動いたために防いだ案件も、けっして少なくはないはずだ。
失敗は悪目立ちするが、成功は話題にもならないのだ。
「それは、むかしの話です。いまは、ちゃんとストーカー対策を警察も考えています」
それが建前なのは承知している。まだまだ被害女性にとって、いきとどいていないのが現状だ。
「……反省はしています」
事実関係は認めているので、その後の聴取は順調に進んだ。あとは供述調書にサインをさせるだけだ。明日には、解決するだろう。
女性の被疑者ということで、わたしにまかせられたことはわかる。
「シスター、おつかれさん」
「その呼び方やめてください」
昭和の刑事ドラマでは、同僚同士をあだ名で呼びあっていたという知識はもっている。が、この令和の世の中で、それを実践している警察官に会えるとは思わなかった。
取調室から刑事課のオフィスにもどったところで、先輩から声をかけられたのだ。
「いいじゃん、シスターなんだから」
河本は、悪びれもせずに繰り返していた。
年齢は三十なのか、もっといっているのか。興味もないので聞いてもいない。階級だけは把握しておかないと人間関係が面倒くさいので、巡査部長だというのは知っている。
「で、どうだ? メインで取り調べをするのは、はじめてだろ?」
「イヤな気分です」
正直に言った。
「どうしてだ?」
「姫木まなさんは、被害者がストーカーだと主張しています。それが本当なら、自業自得です」
「おい、警察官なら証拠がない話はするな」
「だったら、捜査すればいいじゃないですか」
「……ダメだ。これは既定路線だ。検察も、その方向で動いてるんだ」
どうにもおかしい。
この事件は、どうも腑に落ちなかった。
「いいか、現場は考えなくていいんだ。決められた道を進んでいけばいいんだよ」
道を決めるのは、どこにかいる上の人間というわけだ。
河本が部屋を出るのと入れ違いで、吉田という同僚が近づいてきた。この男も先輩になるけど、頼りないので同期のように接している。
「シスターさん、知ってます?」
「その呼び方、やめろっていってんだろ、吉田」
むこうは「さん」づけだが、こちらは呼び捨てにしている。
「いいじゃないですか、シスターなんですから」
「河本と同じこと言わないで」
いないところでは、河本のことも呼び捨てだ。
「で? なんの話?」
「今回の被害者、丸井流通の御曹司ですって」
「え? あの大企業の?」
「はい。なんか、やな感じでしょ?」
少し納得がいった。上は、この事件を早急に終わらせたいのだ。
「偉そうな弁護士先生が、昨日来てましたからね。たぶん、丸井流通の顧問弁護士ですよ」
「圧力かけてきたんだ」
「でも、荒れるかもしれないけど」
「どういうこと?」
「さっき、被疑者に会わせろと二人組がやって来たんですよ」
「弁護士?」
容疑者側の、という意味だ。
「ちがうみたいです。けど、署長が相手をしてましたから、そっちも厄介な相手かもしれませんよ」
「署長が? まさか、被疑者側も圧力を?」
しかし姫木まなは、ただの一般人だ。VIPではない人間が、警察に圧力をかけられるだろうか?
「それで……署長とその二人の会話を聞いてたんですけど……探偵、ってワードが出たんですよ」
「探偵?」
途端に、うさん臭くなった。
警察が探偵と関係をもつのは、フィクションのなかだけだ。なにか違法行為を犯して、摘発される探偵業者は少なくない。その探偵も、そういうブラックな人間ではないだろうか?
「それから?」
「署長室に移っちゃったんで、それしかわかりません。あ、そういえば課長が署長室に呼ばれてましたから、だれなのかわかるんじゃないですか?」
「うちの?」
吉田はうなずいた。
課長の姿をさがした。刑事課長だ。昨今、小規模の警察署では刑事課と組織犯罪対策課がいっしょになっているところが多いのだが、この署は刑事課が単独で存在している。
廊下のさきから、課長の影が近づいてきた。小太りだからシルエットでよくわかる。
「マル被に会いに来た二人って、だれなんですか?」
「シスター……」
最近では、課長にまでそう呼ばれている。
「だれなんですか?」
繰り返した。
「いや、おまえが気にする必要はない」
「なんですか、それ」
不快な表情をあからさまにつくってやった。
「だから……捜査とは関係のないことだ」
「関係なくはないでしょ? その人たちって、探偵なんですか?」
「な、なんでもない……忙しいからいくぞ!」
なぜだか怒りだした課長は、早歩きで去っていった。
「ブタ課長の分際で!」
だれもいなくなった廊下で、思わず吐き出していた。
「シスターさん!」
吉田が、したり顔をしてやって来た。
「二人組のことがわかりました」
「だれなの?」
「やっぱり探偵みたいです」
「本当に?」
署長と課長が、探偵と会っていた?
なにか恐喝のネタでもつかまれたのだろうか?
「あれかな、今回の被害者の男性……丸井流通と警察の黒い関係みたいな」
「そんなんじゃないみたいです。だいたい、堂々と警察をゆするわけないですよ」
「じゃあ、どんな探偵なの?」
「よく警察にも協力しているみたいですよ」
「協力? 警察に?」
そんな探偵事務所があるとは信じられない。
「有名な人みたいです」
「なんの用だったの?」
「そこまでは……。マル被と知り合いなのかもしれないです」
「その探偵の素性を調べて」
「なんだったかな……秋葉原に事務所があるみたいです。世良探偵事務所って。世良王海って名前みたいです」
「世良王海?」
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
特徴的な名前だ。どこかで聞いたことがあるような気がするんだけど……。
「くわしい住所はわかる?」
「調べてみましょうか?」
「やって」
ぼくのほうが先輩だよ──的な表情をしていたが、きれいに無視をした。
五分ぐらいで調べられたようだから、感謝の言葉も言わなかった。すぐに、そこへ向かうことにした。地下鉄・秋葉原駅のすぐ近くの雑居ビルだそうだ。
「ここね」
「声をさがします──」
吉田が、看板に書かれている文字を読んだ。
「声の探偵?」
ビルの二階が事務所のようだ。
階段を上がり、ドアを開けた。
「あのー」
営業はしているようだが、活気のようなものは感じない。しかし探偵事務所なんて、そんなものだろう。
「どうぞ」
男性の声が応えた。二十代半ばのエンジニア系だ。それとも、地味なバンドの作曲担当みたいな。
「ご依頼ですか?」
「いえ……」
警察手帳をひらいて、身分証と記章をみせた。
「警察の方ですか?」
男性は、いたって冷静だった。普通、突如として警察官が訪ねてきたら、なにも後ろめたいことがなくても、もっと慌てるものではないだろうか。
「そうです。お話を聞かせてください」
「わかりました。あの事件についてですね?」
来客用のソファに案内された。吉田とともに、そこへ腰をおろした。
「いま所長をお呼びします」
応対していた男性が、仕切りの奥へ消えた。
「王海さん、二十代の男性もいっしょです」
いまの男性の話し声が聞こえた。どういうわけか、吉田の説明だけをしているようだ。
すぐに奥から、もう一人の男性がやって来た。年齢は三十代のどこかだ。
この人が、ここの所長……。
どこかで会ったことがある?
そうだ。たしかに、この所長を知っている。
「もう一度、声を聞かせてもらえませんか?」
所長のほうから、そう語りかけてきた。
「え?」
「やはり、会ったことがある。でも、だいぶむかしだ」
所長のほうにも覚えがあるようだ。
「シスターさん、会ったことあるんですか?」
吉田からも聞かれたが、ハッキリとは答えられない。
「シスター?」
「あ、いえ……」
こんなところでも、あだ名をつかった吉田のことを、きつく睨んだ。
「もしかして……遊亜ちゃん?」
所長が言い当てた。
本当に会ったことがあるのだ。
頭にひらめくものがあった。
「世良……さん? お兄ちゃんと同期の?」
あれは、何年前になるだろうか。十年ぐらい?
実際に会ったのは、一度だけだ。
え? そもそも、わたしがだれかわからないって?
そういえば、自己紹介をしていなかったわね。
わたしの名前は、桐野遊亜。ゆあ、という名前は、いまだとそれほどでもないけど、中学生ぐらいまではキラキラネームに分類されていた。だから、からかわれたことも多かった。高校のあたりから、むしろうらやましがられたっけ……いや、そんな話はどうでもいいか。
わたしには、歳の離れた兄がいる。警視庁刑事部捜査一課に勤務してる警察官だ。かなり優秀な刑事で、わたしがシスターと呼ばれるのも、それが原因だ。
この世良という探偵は、兄と同期の警察官だった。わたしがまだ小学生か中一のとき、うちに遊びに来たことがあった。会ったのは、その一度きりだ。
たしかそのときに、遊亜という名前を、可愛いね、って言ってくれた。
「そうか……警察官になったんだ」
「世良さんは……退職されたってことですよね?」
「残念ながら」
離職率は低くない職種だから、それ自体はめずらしいことではない。が、女性の場合とちがって、男性警察官はどうしても不祥事を連想してしまう。
兄からは、なにも聞いていない。歳が離れていると、なかなかそういう話にはならないものだ。わたしのほうも、親友のことを兄に話すことは稀だ。
「あの、どうしてやめちゃったんですか?」
立ち入ったことではあるが、いまの世良さんを、信用できるのかどうか……。
「まあ、いろいろと……」
予想どおり、曖昧な返答だった。
「用件というのは、あの事件のことだよね?」
彼のほうから、本題をうながした。
わたしの正体を知ったからか、フレンドリーな言葉づかいになっている。いまでも兄と交流があるのかわからないが、同期の妹なのだから、そうなるのが自然だろう。
だが現役の警察官としては、個人的な知り合いだからといって、対応に変化があってはいけない。
「うちの署にいらしたそうですね?」
「姫木まなさんが逮捕されたというので」
「どういうご関係ですか?」
「姫木さんからの依頼をうけるはずでした」
「どのような?」
「それは守秘義務になる」
その返答は想定の範囲内だ。しかし探偵の業務を考慮すれば、おのずと正解は推理できる。女性からの依頼となれば、浮気調査かストーカー対策かの二つにしぼられる。
「ストーカーの相談ですか?」
「警察は、そのことを捜査するつもりはないようだ」
痛烈な皮肉に聞こえた。
「署長がそう言ったんですか?」
「遠回しにね」
「被害者の男性については、どこまで知ってるんですか?」
「まだ彼女とは会ったことがないんだ」
ということは、事情を聞くようなこともしていないのだ。
「姫木まなさんから依頼の電話があったんですか?」
「いや、べつの人物からの紹介でね」
その紹介者のことを質問しても、守秘義務と言われるだろう。
「たぶん被害者とされている男性が、姫木まなさんのストーカーなんだろうね」
「どうなんでしょう」
立場を守った。
「なるほど。上からの命令だね? ストーカーの容疑者、それとも被害者と呼ぼうか? とにかく怪我をした男性は、どこからか庇護をうけているらしい」
「……」
吉田が、世良さんとわたしのことを交互にみやった。丸井流通の話をしようとしているのだ。
わたしは、それを手でとどめた。
「世良さんは、どうするおつもりなんですか?」
「依頼人の力になるつもりだよ」
「まだ依頼はうけてないんですよね? それに……それは弁護士の仕事になるんじゃないですか?」
「探偵なんて、どうせ形のないものなんだ」
彼は、そういう答えた方をした。どのような活動だろうと、自由にできるのが探偵なんだ、と。
警察官はしがらみが多いから、うらやましさを感じてしまった。
「遊亜ちゃんは、どうしたいの?」
それは、ふいの問いかけだった。
「ちゃん──は、やめてください」
ハッキリ言って、そう口にしたのは、ごまかしだった。
「ごめん、ごめん。じゃあ、桐野さん。きみも、おかしいと思ってるから、ここに来たんじゃないですか?」
「……」
「上が怖いですか?」
「そんなことはありません!」
強がりだった。
「おれもね、むかしは命令をきくだけの警察官だった」
「それが良い警察官の姿です」
「そうやって、潰れていった人間は多い」
「……世良さんは、どうなんですか?」
やめているということは、なにかがあったからだ。不祥事でないとしても、命令違反を繰り返したからかもしれない。結局、理想だけを求める警察官のほうが潰れているではないか。
「きみの理想は、おれではないはずだ。おれは警察官としては落第した。兄貴のあとに続けばいい」
「兄は兄です」
熱くなっていた。兄とくらべられるのが、なによりも気分を悪くさせる。
「シスターさん……」
場をわきまえてください──というような吉田の声が、さらに逆なでした。
「その呼び方、やめて!」
しゅんと、吉田が縮こまった。情けない先輩だ。
世良さんが、ため息のようなものを漏らした。わたしも、少し頭を冷やさなければならないようだ。
「被害者の男性は、どこのだれ?」
「教えられま──」
「丸井流通社長の息子らしいです」
あっさりと、吉田が白状してしまった。
「吉田!」
「いいじゃないですか、元警察官で、お兄さんの同期の方なんですから」
悪びれた様子もなかった。
「どれぐらいの圧力になるんですか、王海さ──いえ、所長」
「与党の幹事長と懇意にしているはずだから、所轄の署長クラスでは、どうすることもできないだろうね」
助手の男性に、世良さんはよどみなく答えていた。
警察官の前でするような会話ではない。内心、苦い思いで埋めつくされた。
「コホン」
わたしは、わざとらしい咳ばらいをした。
「警察としては、このままなにもしたくないってことだね」
「……」
「でもそなれなら、どうしてここに来たの? あやしげな探偵の顔を見にきたのかな? それとも、上の捜査方針に疑問を感じたから、なにか突破口をさがしていたのかな?」
「……」
見透かされている。
「王海さん、人が悪いですよ」
助手の男性が言った。今度は、所長、と訂正しなかった。
「被害男性が、姫木さんのストーカーだとしたら、正当防衛が認められるかもしれない」
「世良さんは、それを証明するつもりですか?]
「ストーカー問題を解決するのが依頼ですから」
「まだうけてませんけどね」
すかさず助手さんが補足していた。
「どうやって証明するんですか? 取り調べをした感触だと、彼女もなにか決定的な証拠はもっていないでしょう」
だからこそ、探偵を雇おうとしていたのだろう。
「姫木さんは、なんと主張してるんですか?」
「……」
一瞬迷ったが、いまさら捜査状況はしゃべれない、と拒絶するのも白々しい。
「被害者男性のことをストーカーだと主張しています。でも、具体的な被害を証言してないところをみると、ストーカーの正体は、それまで知らなかったんだと思います」
「可能性として、本当に被害者男性は、ただの被害者だということもあるんだね?」
わたしは、うなずいた。
「犯行の状況は?」
「歩道橋の上からマル被が、被害男性を突き飛ばしたんです」
むしろ吉田のほうが、そこまでしゃべっていいんですか、という顔をしていた。ムカついたから無視することにした。
「マル被……姫木まなさんは、ストーカーに追いかけられたと主張しています。被害男性……丸井省吾は、姫木さんのことは知らない、はじめて会った女性だと訴えています」
「被害者のほうの証言を優先した根拠は、なにかあるのかな?」
「それは……」
わたしは、適切な言葉をさがした。なにもみつからなかった。
「上がそう判断したから……かな?」
「……」
「だったら、おれのほうで調べてみよう。警察が動かないのなら、捜査の妨害にはならないはずだ」
なんと反論すればいいだろう……。
「それとも、捜査方針に反するから許さない?」
「シスターさん……探偵が動いてくれるなら、そのほうがいいんじゃないですか? ぼくも、納得してるわけじゃありません」
吉田が、よけいなことを言い出した。
「あんたね!」
「まあ、おれは好きにやるけどね」
世良さんが、堂々と宣言した。
「……警察を敵にまわしますよ?」
なぜだが、助手の男性が笑っていた。
「王海さんは、そういうの怖がりませんよ。もっと、すごい人たちとやってますから」
どういう意味だ?
警察より怖い存在があるのだろうか?
マル暴とか?
そんなわけない。警察こそが、最強の組織なのだ。
……なんだか、権威至上主義のあぶない思想家のようなことを考えてしまった。そういう人間にだけはなりたくなかったのに、刑事課に来てからヘンな色に染まってしまった。
交通課のころがなつかしい……。
「なにをやったんですか?」
同時に、どことやったんですか、という意味をこめていた。
答えは聞けなかった。携帯の着信音が邪魔をしたのだ。世良さんのものだった。いまだにガラケーをつかっているのに、少し引いた。
「はい」
どこかヘンだ。世良さんは、その返事以降、無言でむこうの話を聞いている。が、どうも耳に入っていない……いや、耳に入れるつもりがないようなのだ。
携帯を耳から離して、スピーカにした。音質も古い。
『盟友の妹さんのようですね。世良王海さん、この件に首をつっこんだ時点で、それは公安案件に変わるということだ』
「なに、これ?」
『やるなら、それなりの覚悟が必要だよ』
「だれ?」
答えるのは、世良さんでも、電話の相手でもよかった。それともガラケーは、もっと近づかなければ、こちらの声は届かなかったんだっけ? 中学生のときに使ったのが最後だから、そういう性能は思い出せない。
「王海さん、この声……」
口を開いたのは、助手の男性だった。
「ああ、千葉でお世話になった人だ」
お世話、という響きにふくむものがある。
『われわれに、管轄はあってないようなものですよ。あなたと知り合ったばかりに、中央へ栄転できるかもしれない』
無感情に語っているから、どういう心情によるものか予想すらできない。
「《おおやけ》としては、触れてほしくないということですか?」
「王海さん、その言い方」
世良さんが電話の相手にたずねたのだが、助手の彼が発言をたしなめるように割って入っていた。二人にしか……もしくは、相手と合わせて三人にしかわからないやり取りだ。
『どこぞの企業についてなら、われわれの興味はありません』
「邪魔はしないということですか?」
『人聞きの悪い。このあいだも、手を貸してあげたじゃないですか』
「そうですね。あのときのお礼がまだでしたね。その節は、どうも」
とってつけたような言葉を、世良さんは続けていた。
『今回も、味方になれることを祈っていますよ』
「結局は、そちらしだいってことじゃないですか?」
『いえいえ、あなたしだいでしょ』
なんともタヌキやキツネの化かしあいのような会話だと思った。
通話が終わると、居心地の悪い空気に室内は包まれていた。
「あの、公安案件……っていってましたけど」
吉田が、恐る恐る発言していた。
それに、《おおやけ》という言葉。なにかの隠語であるようだが、そういえば兄が最近、そう口にしていたことを思い出していた。あれは、なんの話をしていたときだろう。
そうだ、兄はちょっとまえに、大物政治家を逮捕したことがあった。そのことで兄の株がさらにあがてしまって、わたしはより肩身の狭い思いをすることになった。
実家で会ったとき、そのことを話したのだが、どういう話の流れかは忘れたが、《おおやけ》と、口にしていた。
おおやけ──公。
公安の隠語のようだが、文字数を考慮しても、略語にはなっていない。なによりも、公安をそのように呼んでいる人を、ほかに知らない。
「いまのは、公安ということですか? 千葉っていうのは?」
わたしは、質問を連発してしまった。
「遊亜ちゃん、言いにくいんだけど……きみも眼をつけられたかもしれない」
「公安に……ですか?」
世良さんは、うなずいた。
「どうして公安が……」
「姫木まなさんの事件は関係ないようだ」
それは、いまの電話の声でなんとなくわかる。ということは、世良さんが相手にしているのは、公安?
しかし、公安も警察のいち部署だ。以前から公安と因縁があるのだとしても、それが警察権力を軽んじる理由にはならない。
では、もっと大きな敵と世良さんは戦っている?
「で、王海さん、どうするんですか?」
「急いだほうがいいな。彼らがどっちにつくか不透明だ」
「やっぱり、権力をもってるほうの味方になるんじゃないですか? 丸井流通と幹事長VS世良王海。マッチメイクとしては、盛り上がりそうですよ」
なんともお気楽な発言だった。
世良さんが、わたしのことを見た。
ちがった。視線が微妙に合っていない。
「きみは、この件には関わらないほうがいいかもしれない」
しかし、やはりわたしに向けた言葉だった。
担当している事件なのだから、そんなわけにはいかない。
「世良さんのほうこそ、やめたほうがいいんじゃないですか?」
少し意地になっている。
公安と耳にして尻込みなんてしない。
「だったら、腹をくくるしかないね」
「……」
「上の方針に従うのもいいだろう。だけど、警察官が守るべきなのは、組織ではないし、ましてやどこかの権力者じゃない」
そんなことは、わかっている……。
「どうしますか? 桐野さんに連絡しておきましょうか?」
「いや、おれのほうからしておく」
勝手に二人で話を進めていた。
「やめてください……兄は関係ないんですから」
「でも、話は通しておいたほうがいいんじゃないですか?」
吉田も世良さんたちに賛同していた。
「いいからやめてください!」
わたしは、強く主張した。
「……わかった。桐野には言わない」
「そのかわり、わたしがやります。わたしが、ちゃんと捜査します。ですから世良さんは、よけいなことをしないでください」
「……」
世良さんは即答しなかった。深く考え込んでいる。
「世良さん?」
「……じゃあ、こうしよう。いっしょに調べるんだ」
「バカ言わないでください。警察が探偵の力を頼るなんてありえません。小説のなかだけですよ、そんなのは」
わたしは、至極真っ当なことを口にしたつもりだ。
「そのほうがいいですよ、シスターさん」
またよけいなことを──という眼光で吉田のことを睨んだ。
「冷静に考えてください。一般人に勝手に動き回られるより、ぼくたちがコントロールしたほうがいいんじゃないですか?」
少し理にかなっているところが、逆に腹立たしかった。
わたしは、瞬時に頭のなかで計算した。
「……わかりました。いいでしょう」
世良さんの申し出を、了承した。
探偵事務所内に、しばし沈黙がおとずれた。
「えー、まずはどうしたいですか?」
場の空気をなごませようとしたのか、吉田が発言した。わたしも、世良さんがなにを一番に求めているのかを知りたかった。
「被害者の男性と会いたい」