VOICE.4 五歳と六歳の大冒険 前編
1
夜景の見えるレストランは、ほどよい静けさのなかに包まれていた。
世良には見えない。だが不思議と窓の外に、きらびやかな光景が広がっているのがわかる。見えていたときの記憶が、そう錯覚させるのだろうか。
「きれいですよ」
さゆりの声は、むしろ無邪気なものだった。視覚的なものに配慮するほうが、世良にとっては罪であることを彼女はよくわかっているのだ。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「見間違い……ではないみたい」
「?」
レストラン内に、知り合いでもいるのだろうか?
それとも……不穏なこと?
おせっかいな依頼人・赤松からプレゼントされたものだから、どこかに不安があった。これまで彼女のもたらすものは、たびたび面倒な事態をひき起こしている。
本来なら峰岸と来るはずだったのだが、彼が気をきかせて、さゆりを誘っていたのだ。事務所を出る直前までは、そのことを知らなかった。出掛けに、さゆりが来ることを伝えられた。
もしかしたら、と思う。
峰岸は遠慮しただけではなく、赤松からもらった食事券だから逃げたのかもしれない。そういう勘は、非常に鋭い。
「子供がね……子供だけで食事してるのよ」
「え?」
たしかに、ガチャガチャと食器の音がうるさいテーブルがある。
「二人かな?」
「そう……女の子と男の子」
その順番ということは、女の子のほうが年上で、男の子のほうが年下ということになるだろう。姉と弟だろうか。
「親がトイレに行ってるだけじゃないの?」
「ううん、さっきから二人。わたしたちが入ったときからだから」
入店してから三十分ぐらい経過している。
足音がした。従業員が近くを通っていく。
「あの」
世良は声をかけた。
「あっちのテーブル……」
「あの子たちですか……」
男性従業員は、少し困ったような口調になっていた。
「ここで食事をしたいと入って来たんですけど……お金はちゃんともっていたんですけどね、小さな子供二人だけっていうのが」
門前払いしようとしたそうだが、店のオーナーがおもしろがって入店を許可したそうだ。
「お客様の迷惑になるようでしたら、退店してもらいますけど」
「いえ、そんなことはないです。ちょっと心配だったもので」
従業員はそれを聞くと、ほかのテーブルに行ってしまった。
「気になる?」
「そうだね……」
「わたしが話を聞いてきましょうか?」
「何歳ぐらい?」
「女の子が小学校低学年で、男の子が幼稚園ぐらいかしら」
普通なら、ありえないシチュエーションだ。
「行ってくる」
さゆりが立ち上がった。
「ねえ、きみたちだけなの? パパやママは?」
「わたしたちはショクジをたのしんでます。そっとしておいてください」
まちがいなく子供の声ではあるが、しっかりとした口調で拒絶していた。
「そう……ごめんなさいね」
さゆりがもどってきた。
「聞こえてたでしょ?」
「ああ。悪かった……よけいなお世話だったみたいだ」
その後は、二人で食事を楽しんだ。
幼い姉弟と思われる子供たちは、さゆりが声をかけてから十分ほどで店を出ていった。
出ていくまえに、すごくきれい、という女の子の声が聞こえた。
「どうしたの? やっぱり気になる?」
「……」
答えに困った。
身近に小さな子供がいないから、どう判断していいのかわからなかった。
「問題があるようなら、だれかが助けてくれるわよ」
夜に子供たち二人で繁華街を歩いていたら、手をさしのべてくれる大人はいるはずだ。交番の警察官を呼ぶこともあるだろう。もしあの子たちに深刻な家庭の事情があるのだとしても、警察が介入すれば事態は好転するはずだ。
「……」
「じゃあ、出ましょうか」
さゆりが提案した。まだゆっくりするつもりだったはずなのに。
「気になることを解決しましょう」
世良が考えたことは、すべて希望的観測だ。あの子たちを見た大人が、本当に声をかけようとするだろうか?
みなが、ほかのだれかがするだろう、と同じように考えるかもしれない。警察だって、それは同じかもしれない。民事不介入の原則を堅守するかもしれないからだ。
「行こう」
世良も決意した。
しかし、いまから追いかけてみつかるかどうか……。
店を出ると、世良は耳を澄ました。
そんなに都合よく、あの子たちの声は聞こえてこなかった。
知らない場所だから、さすがに一人で歩き回ることはできない。さゆりの先導がなければ、まっすぐ進むことも困難だ。
「見当たらないわ」
そのとき、驚いたような声が聞こえた。
おい、と男性がつぶやいたものだ。
声の方向に足を向けた。
「なにがある?」
「男性二人が、ビルを見上げてる」
屋上に、なにかがあるようだ。
「あ……」
「どうした?」
「あそこにいるみたい……」
ビルの屋上に、あの子たちが?
「どうする?」
「おれたちも上がろう」
世良は、迷わなかった。
「あの人たちは?」
さゆりは、見上げている男性たちを心配していた。いまのところ、子供たちの存在に気がついているのは、その二人だけのようだ。
「うちの子だとでも言って、落ち着かせて」
強引でもいいので、騒ぎを大きくしないようにした。さゆりが彼らに説明している。もちろんデマカセということになるが、いまは上へ急ぐほうが先決だ。
世良は、一人でビルのなかに入ろうとした。方向はあっているはずだ。手を前方にのばしながら前進していく。
横手から、スッと介助された。さゆりがもどってきたのだ。
「納得してくれたか?」
「まだ見上げてる。すぐ大騒ぎになると思う」
「急ごう」
さゆりの先導があれば、あとはエレベーターに乗るだけだ。
「どれぐらいの高さ?」
「十階まである」
最上階まで、一分もかからなかった。
「こっち」
屋上まで続く階段を上がっていく。扉を開ける音がして、外気が吹きつけてきた。
「このさきにいます」
さゆりの声を頼りに、近づいていく。
「こないで!」
少女の叫びが、空気を切り裂いた。
屋上とはいえ照明が設置されているのか、それともとなりのビルやネオンの光があたっているのか、視認性は問題ないようだ。
「そこでなにをしてるの?」
やさしく聞こえるように注意しながら、声をかけた。
「こないで」
少女は繰り返した。語気は弱くなっていた。
「そんなところにいたら危ないよ」
「あぶないからいいんじゃない。オトナなのに、そんなこともわからないのね」
「死のうとしてるの?」
「そうじゃなきゃ、こんなところにこない」
「どうして?」
「あなたは、どっち?」
「どっち?」
「コロしにきたヒト?」
「どういうことかな?」
「わたし……しのうとしたの、おとうとと」
やはり二人は、姉弟だったようだ。
「ここで、とびおりようとしたの」
時系列がよくわからないので、話のなりゆきをいまは見守る──聞守るしかない。
「おかしなヒトにあった……」
「おかしな人? だれのことかな?」
「おじいちゃん……」
名前などは知らないようだ。
「その人が?」
「おカネをくれたの……それで、あのレストランでショクジをしろって」
ここまでを整理すると、いつなのかわからないが、ここで同じように自殺をしようとしていたら、おかしな老人と出会って、その老人からお金を受け取って、あのレストランで食事をした──そういうことになるだろうか。
「そのおじいさんに会ったのは、今日のこと?」
「ううん、何日かまえ」
「そこがよくわからないんだけど……」
「オトナなのに、そんなこともリカイできないの?」
そう言われてしまったら、返す言葉がない。
「数日前に会ったおじいさんにお金をもらって、今日になって、あのレストランで食事をしたってことだよね?」
「そう」
「どうして、おじいさんはきみにお金をくれたのかな? 食事は、あのレストランじゃなきゃだめだったの?」
言葉を選びながら、世良は質問を続けた。
「世良さん、女の子が困ってる……」
いくつも訊かれたら、子供のキャパシティを超えてしまう。
「ねえ、お金のことは?」
さゆりが、かわってくれた。正直、助かった思いだった。
「レストランにいけって、わたされた……」
「あそこで食事をしろって言われたの?」
「うん」
どうやら、あのレストランで食事をさせるのが目的で、老人はお金を用意した、ということになるようだ。
「そのおじいさんは、どうして親切にしてくれたの?」
「わかんない……でも、なやみがあるなら、あそこでたべれば、カイケツするって」
「そのおじいさんっていうのは、どんな人?」
「んー」
「何歳ぐらい?」
「50?」
おじいさんと呼ぶには若い。
「たぶん、もっと上だと思う。このぐらいの子だと、二十歳を過ぎていれば全部おじさん・おばさんだし、五十歳以上なら全部おじいちゃん・おばあちゃんだから」
さゆりの考察は、もっともだった。
「ここで会ったのよね?」
「うん」
その老人が屋上にいたのは、いまの世良と同じだったのかもしれない。心配して、この子たちに声をかけた。
「どんな人だったか、わかるかな?」
「ここに、トランプのかたち」
トランプ?
「ほっぺたを指さしてる」
頬にトランプ?
ダイヤのマークだ。瞬間的に思った。
「世良さん?」
「……だれだかわかった」
そして、どうしてあのレストランへ食事に行かせたのか。
なぜ今夜、世良が食事すると知っていたのかは謎だが。
ならば、この子たちの悩みを聞くのは、自分の役目なのだ。
「どんなことで悩んでるの?」
「……」
少女の口は重いようだ。
「ねえ、なにがあったの?」
さゆりが言い直した。
「わたしたちは、ころされちゃうの」
「どういうこと?」
「あのひとたちに……」
「あの人たちって?」
世良の耳には、駆け上がってくる足音が聞こえていた。
激しく扉がひらく音。
「きみたち、なにをしてるんだ!?」
二人だ。
「おまわりさん」
さゆりが言った。世良に何者が来たのかを教えてくれたのだ。
「あなたたちは!?」
いぶかしむような声が、世良にふりかかった。
「この子たちの保護者です」
答えたのは、さゆりだ。
「本当に親御さんなんですか?」
警察官の声は厳しい。
「はい」
「嘘を言ってはいけませんよ」
「どうして、嘘だと思うのですか?」
すぐにその問いの答えは返ってこなかった。
「……親なら、保護者とは言わないんじゃないですか?」
それまでとはちがうほうの警察官が指摘した。たしかに、そのとおりかもしれない。
しかし、世良にはべつの情景が浮かんでいた。
「親がわりのようなものなんです。この子たちは、姪っ子と甥っ子ですから」
さゆりが、この場をつなぐように嘘を並べ立てる。
「さゆり……ここにいる警察官は、制服なんだよな?」
おまわりさんと呼んだのだから。
「え、ええ」
「軽いな……」
この分析には、絶対の自信があるわけではない。
制服警官は、手錠、警棒、拳銃、無線をホルスターにおさめて帯革に吊っている。一つ一つは軽い。手錠や警棒は重いと思われがちだが、はじめて持ったときにその軽さにみなが驚く。むかしはかなりの重さがあったそうだが、いまでは装備が軽量化されているのだ。
とはいうものの、すべてを合わせると、それなりの重さはあるものだ。しかしこの警察官の足音からは、そのような重量感はない。
「あなたたちは、本当に警察官ですか?」
「なにを言ってるんですか?」
「身分証をみせてください」
「なに言ってんだ、おまえ!」
口調が変わった。
まずまちがいなく、この男たちはニセ警官だ。
なぜ、そんなのが出てくる?
いや、考えるのはあとだ。いまは、この場を乗り切ることに全力をつくす。
「これは、おれたち家族の問題だ。警察の出る幕じゃない」
世良は、むしろ高圧的に接した。
ニセ警官たちは、無言になった。どう行動するのか決めかねているのだ。
この子たちに危害をくわえるつもりではないようだ。だが、保護をするつもりにも思えない。
「さあ、行こう。おまわりさんも迷惑してるみたいだから、家にもどろう」
世良は、女の子に語りかけた。
小さな身体が動いた。
「わかった……」
「ほら、きみも」
さゆりが男の子を確保したようだ。世良が手を差し出すと、小さな手が握ってきた。
「これでいいですね?」
ニセ警察官は、無言のまま。
突然、襲いかかってくることも想定したが、彼らの横を通過して、階段への扉を開けても、危険はなかった。
エレベーターで下に降りたとき、最初に見ていた二人の男性はすでにいなくなっていたようだ。子供たちから話を聞くために、どこかの店に入ろうとしたのだが、よくよく考えれば、おたがいが食事をしたばかりのなのだ。
「きみたちの家はどこ?」
「……」
女の子は答えてくれなかった。家に帰りたくないのだろう。両親とのあいだに、なにか問題を抱えているのはまちがいなさそうだ。
「公園で話そうか」
近くに公園があるのかわからなかったが、世良は言った。
「あっちにあったと思う」
さゆりの誘導で、四人で公園に入った。小さい面積しかないようだが、ベンチに二人を座らせた。
男の子のほうは、眠くなってしまったようだ。
「わたしが抱っこしようか?」
「いいです。ほら、ねえちゃんのカタによっかかって」
本当におとなびている。
すぐに寝息が聞こえた。少女の肩で夢を見ているようだ。
「名前を教えてくれるかな?」
これから会話をしていくにも、そのほうがいいだろう。
「ルリ」
「弟さんは?」
さゆりが引き継いだ。
「ハルト」
苗字を答えてくれないことに、物事の本質があるようだ。
「年齢は、いくつかな?」
「6さい。もうすぐで7さいになるけど。おとうとは、5さい」
「どうしてあんなことを?」
「……」
「きみは、おれをさがしていたんだ」
世良は言った。少女──ルリには意味が理解できないだろう。
「きみにお金を渡して、あのレストランに導いた老人は、きみとおれを会わせようとしたんだ」
「……あのおじいちゃん? しってるひとなの?」
「ああ、知ってる」
《かかし》が、この子たちと世良をめぐり会わせたのだ。
「おじさんが、たすけてくれるひとなの?」
「事情を話してくれないと、なにもできない」
「……ころされちゃうの、わたしたち」
「だれに?」
「あたらしいパパとママ」
「新しい?」
「ジコでしんじゃったの」
本当の両親は──ということらしい。
「新しいパパとママが、きみたちを殺そうとしているの?」
大切なことなので、世良は強調して問いかけた。
「しんじてくれないんでしょ……」
「そんなことはない。ルリちゃんの言うことを信じるよ」
「ちゃんはやめて」
「ごめんごめん、ルリさん」
少女は、どんな表情をしているだろうか。眼の見ないことが残念でならない。
「具体的に、なにか危ないめにあったの?」
さゆりが質問した。
「まだ」
「まだなにもされてないのに、どうして殺されると思ったの?」
「さっきのひとたち……」
「あのおまわりさん?」
「わたしたちをしなせないためにいるの」
「え?」
殺されると主張しているのに、しかしあのニセ警察官は、死なせないためにいるという。いろいろと矛盾がある。
「どういうことなのかな? ええーと、あのおまわりさんは、きみたちを守っているの?」
そうだとすれば、殺害しようとしている両親と、それから守ろうとするニセ警察官たちが対立していることになる。
「ちがうの!」
怒っているような声だった。
子供の語彙力には限界があるから、真意を聞き出すのは難しい。
「こういうことじゃないですか?」
さゆりが言葉をはさんだ。
「殺そうとはしているけど、自殺されたら困るということじゃないですか?」
「そうそう」
ルリの声が、可愛く聞こえた。本人は一生懸命だろうから、不謹慎だと反省した。
そういうことがあるとしたら、保険金になるだろうか。契約によってそうでない場合もあるだろうが、一般的には自殺ではおりない。
「保険金かな?」
「むずかしいことわかんない」
しかし、こんな幼い子供たちに多額の保険金をかけるだろうか?
かりにこの子たちが死亡すれば、確実に疑われる。うまく事故にみせかけたとしても、簡単なことではない。
本当の両親が事故死しているのなら、遺産ということはないだろうか? 保険会社を通さないから、くわだてる人間からすれば、リスクは一段階下がる。
が、遺産相続に自殺は関係ないはずだ。むしろ自殺してくれたほうが手間がはぶける。
それとも……。
「ねえ、殺そうとしているって……いまの話?」
「ちがうの……」
「そうか」
どうやら、遺産がらみというのが正解のようだ。
「世良さん?」
「たぶん、この子たちが成人したときに、遺産が渡されるんだと思う。それまでに死亡したときは、遺産がべつのところにいってしまうんじゃないかな」
さゆりに説明しながら、ルリにも確認している。
「そんなこといってた……」
ルリが返事をした。新しい両親が、そう口にしていたということだろうか。幼い子供には難しい内容だから、断片的に理解しているだけなのだ。
「だからきみは、死のうとしてるの? 遺産をその人たちに渡さないために」
「そうだって」
うなずいたのを、さゆりが教えてくれた。
「? おじさん……みえないの?」
「ああ、見えない」
それを耳にして、少女はどんな表情になったのだろう……。
「おじさんが、どうにかしてあげる」
世良は言った。
「おじさんは、探偵なんだ。きみの悩みを解決してあげる」
「……ほんとうに?」
「ああ」
「でも……おかねないよ。セイジンしたら、あるけど」
「子供は、無料なんだ」
この子の言うことが真実なのかどうか……それを確かめるまで、この子たちを新しい両親の待つ家に帰すわけにはいかない。
「わたしの家に来る?」
さゆりが提案してくれた。ルリから反論は出なかった。
こうして、さゆりの部屋へ行くことになった。タクシーを呼んで、四人で向かった。
「すまない」
「ううん……最初に声をかけたのは、わたしだし」
部屋について、二人をさゆりのベッドで寝かせた。もう遅い時間になっている。すぐに小さな天使たちは、深い眠りについていた。
世良は帰ろうとしたのだが、
「あなたも泊まっていって」
たしかに、またタクシーを呼んで、そこから自宅へ帰るのは一苦労だ。言葉に甘えることにした。
リビングでブランケットをかけて横になった。さゆりも、すぐとなりで同じ姿勢になっているはずだ。
「どうやって解決するんですか?」
「まずは会ってみるよ、新しい両親に」
世良は答えながら、ことのなりゆきを想像した。
まったく見えてこなかった。
「世良さんなら、どうにかできますよ」
「そうだといいけどね」
「ただの気休めじゃないですよ。ちゃんと根拠があります……」
さゆりの答えを待った。
「さゆり?」
眠ってしまったようだ。
彼女が確信しているなら大丈夫だろう──世良も、そんなことを考えながら眠りについていた。