むかーしむかし3
フェイオンは何年もかけて青年に人の営みを説き、実際に教えてきたが。彼が人に興味を持つそぶりは欠片も見られず。本当は人と直接触れ合って生活をさせたいと言われても、青年はそれを強く拒否した。
変わらず彼の興味は戦いにしかなく、早く強くなりたいと望むばかり。
オブ=ロブとは少なからず普通に話すようになり、いきなり食いつくようなこともしなくなったものの。彼が囲っている人間の側には絶対に近寄ろうとしないし、彼らについての話は半分も聞こうとしない。これは無理に人と引き合わせても事故を起こすだけであろうと諦めて、フェイオンは街から知らされた魔人の討伐や撃退の願いの時のみ、青年を行かせることに決めた。
それはとてもうまくいったようで、青年は国中から報告の集まる魔人や魔獣の異常発生などの処理を順調にこなしながら力を付け、まだ大人になりきれない青年の姿から徐々に大人らしい姿へと育ち。仕事の行先や終了の報告を案内をする人間とだけは、一言のみだが言葉のやり取りもするようになってきた頃。
魔の森に近い山向こうの国で、稀に見る規模の魔獣の異常発生があったという噂を聞いてふらっと青年は魔の森へ出かけていき。そのまま姿を消してしまう。
***
――魔の森の奥の方へ少し進んだところに、それはあった。人の背丈より大きく黒い、不透明な丸みのある塊が地面に静かに伏せている。それの周囲は静かなものだ。見渡す限り魔獣の一匹もいない。
音もなくその塊から、大きな人の手のようなものがしゅるりと生え。空を通り過ぎようとしたオオガラスをひっつかんで塊の中へ引きずり込む。長く見ていれば同じように、遠くに姿を現したシャドウストーカー達も、オオガラスと同じように次々飲み込まれていった。
それが、そこにあるようになってから、何日経っただろうか。それまで微動だにしなかった塊はほんの少し、ふるんと揺れたかと思うと、そのまま真上に向かって浮かび上がる。そうして、その塊は木々よりも上へ高く舞い上がった後、南へ向けて空を滑るように飛び始め……
山脈を飛び越えて、さらに南へ向かっていった。
***
まっすぐに向かったのは小さなレンガの家だったが……真上に来ても、今は何の気配もないことが分かって、空を飛ぶ塊はそのまま向きを変えて南西へと向かって飛んだ。時々会っていた岸壁から海の上空へと飛んで周囲を見て回っていると、海の中に黒い大きな影が広がっているのを見かける。
「――輝ける混沌、暴食を統べる破壊の化身よ。本当に空を飛んで来よるとは、驚いたぞ」
ごぼごぼと水音を立てて、巨大なタコの頭が出てくる上へ、人間体のオブ=ロブが乗っかっていた。
その言葉に呼応するように、黒い塊の中から黒い手に乗った青年が出てきて、タコの上へ飛び降りる。
「話は後だ、フェイオンは俺に新しい身体が増えたら手合わせを仕掛けても良いと言っていた! あいつは出かけていて居ないようだったから、お前から相手をしろ!」
「分かった分かった、軽い手合わせで――痛っだだだ! こらっ、いきなり噛みつく奴があるかっ」
「お前が軽くやるつもりなら、俺はやりたいようにやる! やっぱり本当に人間体よりこっちのタコの方が美味いな」
「だーかーら、食うな! っく、一旦動けなくなるまで相手をしてやるしかあるまい」
ゴボンッ! 大きな波を立ててタコの身体ごと上に乗った青年もオブ=ロブも海の中へ沈もうとするが、波に飲み込まれる直前、飛び上がった青年は黒い手に乗って空中へ上がり、逆に黒い塊の方が海の上へ飛んでいって槍のような形になったものを海中へドスドスと突き込んでいく。
「う、ん……どこだ? 消えた……」
黒い丸の方を海中へ突っ込もうとしたが、浮く力が強すぎて潜水は出来ないということが分かっただけだ。海面から離れようと飛翔に移りかけた途端、海中から伸びてきたタコの足が球を絡めとって海面へ磔にしようと抑え込むが。
黒い球の方も表面に手や顎を大量に出し、絡んだ足から遡ってタコの本体に向かって進みながら触る所を当たるを幸いと言わんばかりに食い荒らしていった。
水面付近に泳ぎ寄ったオブ=ロブの手から黄金の槍が連続で突き出され、黒い球を穴だらけにしていく。しかし黒い球から伸びた手や顎がタコの足を食い荒らすのは止まらない。よほど痛かったのか、玉から伸びた黒い手が本体まで届く前に、巻き付いた足が根元から断ち切られて解放され、本体はまたその位置を変えてしまう。
海の暗殺者の異名を取るタコらしさで気配を完全に覆い隠した動きは、おそらく水中に引き込まれた時点で青年が負けるだろう。切り落とされた足を飲み込み、その匂いを頼りに探そうとするも、水中の匂いは海に突っ込んだ手で探っても空中のようには分からない。
しかし相手の場所を見つけなければ攻撃は出来ない。なるべく海面から離れたいのは山々だが、水面に近付いて光の角度を変えながら足を誘い、海面に見えた所を捕えて齧りつき、槍の攻撃に穴を空けられながらタコの足を食い荒らす。
二度目に足が切り離されて解放される瞬間、切れた足に意識が向いた僅かな時を狙って、海中から一切波音も無く、青年の人間型の真下から飛び上がったオブ=ロブが空中で大きく槍を振るった。
一瞬遅れつつも青年の身体は横に少し逃げたが。その槍が狙っていたのは本体ではなく、黒い魔力体と人間体の間を繋いでいる部分……青年の片足を巻き込んで分断された黒い腕や、魔力の普通では見えないほど細い糸が断ち切られた途端、ガスの弱った風船のようにゆっくりと黒い球は水面へ落ちてぷかりと浮かび。切り落とされた足と青年の身体は海中へ落ちて、別々にタコの足が巻き付いて捕らえられた。
『――ったく、本当に好きなだけ暴れおって。これで勝負ありだな?』
海中に引き込んだ青年の首に槍を突き付けながら聞くと、青年は楽しそうに頷いた。オブ=ロブはため息とともに、海に落ちた黒い球と青年本体を陸へ放ると。今日はしまいじゃっ! と一声叫んで海へ消えていく。
流石に青年も消耗が大きく、片足で身体を引きずるように黒い球の中へ入ると、そのまま暫く眠りについた……
流石に、片足も失った後では回復して目が覚めるまでに時間がかかった。どのくらい眠っていたか分からないが、目が覚めた時には足が治っていたけど、起きた直後はやたらと空腹も酷かった。手っ取り早く魔力を集めるために、一旦魔の森へ帰って小腹を満たした後、もう一度レンガの家まで飛んで帰る。
――が。まだフェイオンは戻っていなかった。
手紙のようなものが残っているわけでもないし。青年は少々腹立たしい気分になりながら、時々フェイオンが呼ばれて行っていた、城壁に囲まれたあの大きな街へと飛んでいく。
城にも、神殿にも、それらしい強い魔力の気配を感じない。黒い球に入って飛んでいる時は、どうやら人々からは見えないようになれているようで、騒ぎにはならなかったが……青年は見つからないフェイオンにイライラした気分が募り、大通りのど真ん中で球体から姿を出して見せると、球から伸ばした大きな腕で周囲を薙ぎ払った。
「フェイオン、どこだ!」
悲鳴と雑音が響きまわる中で叫ぶが。あの大きな魔力が近付いてくる気配がまだない。腹立ちまぎれに周囲を破壊しながらうろついた後、高く飛んで上空から周囲をよく見てみた。
姿は見えない……が、北の方がフェイオンの匂いが濃いように思い、そちらへ向かう。
時々村や街を雑に叩き壊しながら、あちらこちらと探し回るうちに、山も越えて魔の森に近い方へ来ていたが。
山を越えて南へ急いで向かう、金色の稲妻のような光が視界の端に見えた気がした。
とんぼ返りで山を越えてゆくと、金の光は壊されて煙を上げる村を経由しながら、城壁のある街の方へ向かっていくのが見え。ようやく見つけた、と青年の口元に笑みが浮かぶ。
城壁の街に先回りするつもりだったが、到着はフェイオンの方が早かった。追いかけてきている青年に気付いてか、門の入り口で足を止め、肩を震わせながら頭の中に声を響かせる。
『そなた……そなた、なんということを……! わらわの可愛い人間たちを、こんな目に遭わせるなんて。何故わらわが戻るまでおとなしく待っておれんかった?!』
街の入り口から中を見ていたフェイオンがゆっくりと振り返る。全身にバチバチと火花が散り、金色の光が激しく明滅していた。
「何度かお前の家に行ったが居なかったし、いつ戻るかも分からなかった。また目立つ騒ぎを起こせば戻ってくると思っただけだ」
「人の大切なものを壊したり奪ってはいかんと、もう少しきちんと教えておくべきであったか……」
「そんなことより、約束だろう。俺と戦えフェイオン、全力で!」
そのまま、球から飛び降り、門前に居るフェイオンを街の中へ突き飛ばす方向で、全身に黒い手を纏ったまま突撃する。
フェイオンは避けるどころか受け止めて押し留めようとするが、速度はフェイオンが上でも押し合う力は強くないようでジリジリ押し込まれていく。
「――くっ!」
フェイオンは両腕に金色の光を纏わせ、青年へ電撃を放つ――が。彼はにやりと笑うと、黒い腕を導線に使ってそれを地面へ流してしまう。周囲の木々や倒れている人間達に光が飛ぶのを見て、フェイオンの電撃はぴたりと止まった。
「何故攻撃を止める! 来ないなら俺から行くぞ!」
黒い手を長い錐のような形に変えて、フェイオンの身体を貫くように突き刺すが、残像も捉え切れないほどの速度で払いのけられる。一点では駄目ならと大きく腕を振り上げ広範囲を薙ぎ払おうとしているのを見て、フェイオンは自らその腕に飛びつき、捻って組み敷こうとするが。元より軟体に近いその腕は捻じれた所で効果が薄い。
フェイオンが掴んだ腕はそのままその身体を掴み返し、背中から地面に叩きつける。
「ごはっ……!」
「真面目に戦え! どうしてだ、さっきから! 全力で戦えと言ってるだろう?!」
苛立ちに任せて何度も叩きつけると、フェイオンの背中の辺りでベキリと不自然な音がして、その身体から急激に力が抜けた。
「う、ぐ……」
流石に違和感を感じて手を止めると、フェイオンは困ったような、悔しいような表情をして、吐き出しそうになる金色の流れを何度も飲み込んでいた。声が出ないようで、口ではなく頭の中から声が響く。
『こんな、人の多い場所で我らが暴れれば、被害が増えるだろうが。馬鹿め……』
「――!」
その言葉に、フェイオンを掴んだまま街の外へと飛び、空き地に降りる。
『はは、最初から、こうすれば、もう少しは相手をしてやれたかも、しれんが』
「回復するまで待ってやるから、傷を治してから、もう一度戦えフェイオン」
フェイオンは片手を伸ばして、ゆっくりと青年の頭を撫で、軽く首を横に振った。
『わらわの心臓は二つとも、この身体の背中にあった。元々、魔力を長いこと食っておらんかったからね。あまり硬くはなかったのも原因だが……もう治らんよ』
青年が目を見開いて、しょげたように表情を歪める。
「俺は、俺は……お前を、殺す、つもりは」
『あぁ、いいのだ。わらわの力は“遠見”で、知っていたから。いずれそなたが現れてわらわを殺すのだと。そして、この地はそなたの領域となり。いつか……そなたがわらわの子供たちの中から生まれる銀花の民の娘の一人を愛し、守るものとなる、そういう未来が。わらわには見えていたのだよ』
「……お前はそれを信じるのか」
『己の力を信じることに何の不思議もなかろうよ。さぁ……そろそろ意識を保つのも限界だ。わらわを食え。すべてを受け継げとは言わないが……そなたが受け入れられるものだけでも、覚えておいてほしい』
青年はフェイオンごと自分たちを黒い球体で包み、全ての魔力を飲み込むことにした。流れ込む魔力は、溢れる記憶や言葉の奔流も伴っていた。
飲み込まれていくフェイオンの記憶はたくさんあったが、最も丁寧に語られたことは、とても古くに出会ったセレスティナという名の薄い茶色の髪と目を持つ、素朴だが凛とした顔立ちで、気が強く表情がくるくると変わる優しい少女の記憶だった。
彼女と出会い、恋をして、口説き落として結婚したこと。
当時は人間に化けてセレスティナと同じ茶色の目と髪にしていたが、そうでなくとも黒髪金目の父親と茶色の髪と目の母親から、銀髪赤目と金髪碧眼の女子の双子が生まれて仰天したことや。
セレスティナが少女の頃に出会った時から、子供が大きくなってきた頃まで、ずっとフェイオンの姿が変わらず、周囲に気味悪がられる噂が広まり始め、周囲にも魔人であることを教え、そこから守護神となったり。
ケンカをしたこと、仲直りをしたこと。
子供たちの結婚式、孫を見せられたこと、二人きりであの家に住むようになり、徐々に彼女が年老いていっても、中身は変わらないと愛しく思えたことも。
最後に彼女が目を閉じて静かに息をしなくなるまで。
全ての光景が、物語を読むように目の中を流れていった。
***
――それからほどなくして勇者と聖女が覚醒し、この一件で魔王と呼ばれるようになった青年は、他の魔人たちと共に千年もの間封印されることになるのだが。その先はまた、別のお話。