むかーしむかし2
フェイオンは、今よりさらに千年以上は前に。この地で人間の娘に一目ぼれをして、人間の姿で口説いて付き合い、子まで成して一緒に暮らしたことがあると語った。大人になってゆく彼女に対して、まったく変わらない自分の姿に流石に疑問を持たれたので魔人であることを明かし、その時に印を与えて眷属になる方法もあると本人にはしっかり説明をしたが。
彼女は人として生き、人として死ぬ道を望み。フェイオンはそれを受け入れたという。
「それほど気に入ったのに、どうして手放した?」
「手放したわけではない。出会ってからはそれこそずっと共にあり、最後もわらわが見送った。あの子は人間として一生を生き切り、最後の一瞬までわらわの内に鮮明に思い出せる。今も、これからも、何があろうと。あの子がわらわを愛してくれた事実は永久に変わることはないのだ」
「むぅ、食って記憶ごと取り込むのと、似たようなものか?」
「同じではないが、そなたに理解できそうな認識としてはそれが近いやもしれんな。わらわは……人間が好きだ。その短い寿命でさえも、燃えるように生きてはかなく散っていく美しき様は愛してやまぬ。そなたはまだ人間と触れ合ったことは殆どないであろうが、この地には様々な人間たちが生きておる。彼らの魅力を知るならば、長く生きるうちの楽しみの一つとして、そなたの役にも立つであろうよ?」
「俺は早くお前と手合わせがしたいだけだ。戦い以外の楽しみと言われても、分からん」
「まぁそう言うな、今のそなたはまだ、わらわに勝てるほどの力はないと分かっておろう? 焦らずわらわの暇潰しに付き合え。せめてそなたに分け身が出来るほど育った頃には、手合わせくらい付き合ってやってもよいぞ」
「俺がもっと成長したら戦ってくれるんだな? わかった、それまではお前の言うことを聞こう」
「あぁ。そなたとはいつか、戦うことになっておる。その時が来るまで、色々と教えてやる」
それから毎日、フェイオンは青年に畑仕事を教え、家畜の世話を教え、字の読み書きや読書、料理、家事、縫物だけでなく、風呂の入り方や髪の梳かし方などに至るまで、人間の生活についてのあれこれに触れさせていった。
興味がない、良く分からん、めんどうくさいと口では言いながらも、やらせればどんなことでも素直にやる彼を面白がりながら、一通り全てを覚えさせるまでにはそれなりの日々を過ごしていたが。青年はフェイオンと夕飯をつつきながら、ふと思い出したように口を開く。
「フェイオン。お前は何故、魔獣や魔人を狩りに行かない?」
「ふふ。そうさな……人に憧れておる、ということにしておこうか」
人の食べるものばかりを三食食べ、しかも趣味程度に作ったものを少々つつくだけの小食。青年はちょいちょい小腹が空くたびにあちらこちらへ魔獣を食べに出かけて行ったが、フェイオンが出かけるのは人間の街へ呼ばれた時ばかりで、狩りをしている様子が一切なかった。
「人間の食べ物は作って味を楽しむ娯楽なんだろう? 食って成長するものではないし、何の力にもならないぞ。お前の人間に憧れるという意味が分からないが、折角の強大な力を失いたいとでも言いたいのか?」
「そなたに理解を求めようとは思わぬさ……あぁそうだ。わらわの古い知り合いがおる。そやつも魔人だ、一度会ってみるか?」
「強いか?」
「少なくとも、今のそなたよりはずっとな」
「会う」
「ふふっ、そやつと今戦うのは止めておくがよいぞ? 前にも言うたが、分け身も持たぬ子供のうちに戦って事故でもあれば死んでしまうからの」
「別にそれでも構いはしないが……分かった。お前にもそいつにも、戦いを挑むのは俺がもう少し強くなってからにしよう」
「随分と、聞き分けがよくなったものだ」
珍しく、フェイオンは青年の隣まで来ると、手を伸ばして頭に直接触れ、撫でた。青年の方はその手の動きを油断ない目で見ながら、一向に乱暴なことも掴むような動きもないので、また不思議そうな顔になる。
「何をしているフェイオン? 痛くもかゆくもないが」
「これも人間の真似事よ。大人は子供を庇護し、このように可愛がる。撫でたり抱きしめたり口付けたり。無防備に触れ合ってみせることで、相手を信用し大切にしていることや、敵意が無いことを示すのだ。信用されていると実感することで、人は安心できる」
「お前は俺を信用し、大切にしている……のか? 敵意が無いというより、俺が弱い今は勝負にならないというだけではないのか」
「戦いは、わらわの趣味ではない。そなたが強くなった時に手合わせに付き合うくらいは構わぬが、元より殺し合いなどする気もないよ。ふむ……そなたがここへ来てからどれほど経つか覚えておらぬが。わらわなりに大切に扱っておったつもりぞ? 伝わっておらなんだは、悲しいことじゃな」
そう言ってフェイオンが青年を抱きしめると、少し困ったように首を傾げたが、頷いた。
「分からないが。お前が俺を大切に扱っていたと言われて、否定はしない」
「ふふ、よしよし。よいこじゃの」
子供のように再び撫でられて、抱きしめられたことに不機嫌になる様子はないが。彼は徐々に緊張感を増して、フェイオンの首すじをじぃっと見つめて暫し……
――ガブッ!
唐突に。無防備に晒された首筋へ青年が噛みついて魔力をジュルジュルと吸い始めた。思いっきり歯を立てられているが、フェイオンはちょっと苦笑する程度で背中をポンポンと叩くだけだ。
「こらこら、痛いではないか。やめよ」
「グゥゥ……」
獣のように喉の奥が小さく鳴る。濃い魔力の匂いを鼻先へ突きつけられて理性が飛んだのだろうと判断して、フェイオンは青年の首を片手で締め上げながら、足が床から離れるまで持ち上げて引き離す。
「この程度で正気を失うとは可愛いものだが。やめよと言うておる!」
「グッ、ウ!」
首の傷跡を反対の手で撫でて消しながら、持ち上げた状態のままギリギリ首を絞める。青年はその手を両手で外そうとしながらもがくうちに、徐々にその目に理性を取り戻していくように見えた。
「わらわはな、好きな相手を食って取り込むことで、この先ずっと共に在りたい……そういう欲求で求められるのは嫌いではないが。そなたはそのつもりではなかろう? 誤解させるでない」
「食われることすら、お前には娯楽なのか?」
「否定はせぬよ。試しにそなたのことも食ってやろうか、悪くないようにはしてやるぞ?」
にい、と笑んで唇の端を舐めるフェイオンの目に本気を見て、青年は少し顔を青くする。
「……お前にそういう扱いをされるのは、何か嫌だ」
「ふん、寂しいことを言うのう。まぁ反省したならば、勝手にわらわに噛みつかぬな?」
「わかった」
おとなしくなった青年を床に降ろして、フェイオンは再び席で茶を楽しみ始め、夜は更けていった。
***
南西の海沿いまで行くのは徒歩で、大量の野菜とスパイスに鍋などの調理器具を青年に担がせ、走り出す……が、フェイオンは足に金色の光を纏わせるとまさしく稲妻のように一瞬で遠くまで駆けた。青年も決して遅いわけではないのだが、そのようなスピードでは動けず、フェイオンからするともたもたとした動きで追っていく。
フェイオンは視界が届く範囲で止まって待ちはするものの、手を貸そうとはせず。青年の方も助けは求めることのないまま海沿いまで辿りつき。人里からは少し離れたところでバーベキューの準備を青年にさせながら、海へ向かって大きく息を吸った。
「おーい、わらわが来てやったぞーっ!」
暫く待つと。水音と共にごぼごぼと水面が波立ち、小高い丘のようなサイズのタコの頭が姿を現し……その頭の上には手に金のトライデントを握った筋骨隆々の黒髪の男が、黒いズボン一枚の恰好で乗っていた。タコの足が次々に焚火の近くへ大小の魚を積み上げていく中、彼は軽く跳んでフェイオンの近くへ着地する。
「おぉ、黄金の雷光を纏いて、陸を統べる大いなるフェイオンよ。良く来たな! ぬしの持ってくる野菜とスパイスを使った魚料理はいつも絶品だ、今日は何だ? あの石を取ってくるには時期が少々早すぎる気がするが……」
「水底の闇に満ち、魔を統べる海の支配者オブ=ロブよ、相変わらず迎えが早いなぁ。今日はあれを貰いに来たわけではない。先日若いやつを拾ってな、そなたとは顔合わせをさせておかねばならぬと思って連れて来たまでよ」
「後ろにいるそれか? ふむ……えらく荒れ狂った戦の気配よ。今は落ち着いてるようだが」
「強くなるまでおとなしくしておれば、分け身が出来る頃に、わらわが一度手合わせをしてやろうと約束をしておるからな。一つ、ぬしが名付けてやってくれ」
「名付け? ……そやつがもしや?」
「おそらくな」
「――輝ける混沌、暴食を統べる破壊の化身。我にはあれが、そう見える」
「ははっ、確かに食い意地は張っておる子だ……そなたも食われぬように気を付けよ?」
「ぞっとせんな。見てくれだけでもぬしくらいの美女であればよいのに」
「ふ、そなたの好みには合わずとも、なかなか素直な子だぞ? しっかりついていてやってくれ」
「ふーむ。あいつがなぁ……」
オブ=ロブはスタスタと青年の方へ歩いていき、積んだ魚を次々と適当なサイズに切って串に刺しては並べ始めながら、青年の方をジロジロと見る。横に来られた青年は、最初こそ若干不機嫌そうな顔をしたが、串をそこへ置いた後にくんくんと鼻を動かしつつオブ=ロブの方を向いて、興味深そうに目を輝かせながら近付いていった。
「おい貴様、危険な目をして寄ってくるな。我は食い物ではないぞ」
「フェイオンの魔力は確かに力が漲る感じがして旨かったが。お前のは……味もめちゃくちゃ美味そうな匂いがするな?」
「待て待て待て! 正しく暴食の化身じゃな。我に食いついてきたら斬るぞ!」
「む? 戦いの相手をしてくれるのか?! 良いぞ、やろう!」
ますます距離を詰めようとする青年と、ジリジリ距離を取って後ずさるオブ=ロブのやり取りを眺めながら、フェイオンは調理具の傍へ歩いて行って調理の続きを始める。
「そやつはわらわにすら平気で戦いを挑みに来たほどの戦好きぞ、荒事を持ち掛けるのは興奮させるだけじゃ。そのままでは収まらんだろうから、軽く遊んでやってくれ。わらわは相手しとうない」
「っこの! ぬしには見えておったろうが、先に言え! まぁ、他でもないぬしの育て子ならば、軽くじゃれるくらいは相手してやろうか。軽くな」
「やった!」
目を輝かせた青年を前に、槍をしまいこんで、オブ=ロブが立つ。彼が足を止めて立ったのを見た途端、青年は全身に黒い手を無数に纏い、地を蹴って飛び掛かっていく。
どぉんどぉんと重い響きが周囲にとどろき、打ち返す蹴りや拳を受ける度に飛ばされて転がりながら、青年は楽し気に何度も飛び掛かる。それをさばき吹き飛ばすように殴り返しながら、子供を扱うようにオブ=ロブも少し楽しそうな顔になってきた。
「おぬし、軽いな……いずれ空でも飛びそうじゃ。それにえらく硬い。槍なしでは強く打っても飛ぶだけか」
「お前は強いな! デカいし重いし、美味そうだし……」
「貴様、食い意地を少しは隠す努力をせんか!」
結局、魚や野菜が焼き上がってフェイオンが呼ぶまでずっと殴り合いは続いていた、呼ばれた二人を見ると、オブ=ロブの首と右腕の前腕には歯形が付き……青年の脇腹の辺りには金色のトライデントがぐっさり貫通して柄の部分が前後に飛び出した状態になっていた。
どうやら今も槍と青年の間で食い合いをしているようで、激しく傷口に金の粉が渦巻いているのは見え。フェイオスは呆れたようにオブ=ロブを見て、肩を竦めながら二人に魚と野菜の串を配る。
「おい海の。そなた、子供相手に何をやっておるのだ」
「あやつがあれを舐めるのを気に入って離さんだけじゃっ、我とて刃を子供のおしゃぶりにされるなんぞ不本意だわい!」
言われ、青年の方を見ると、非常に満足げに槍が刺さったまま座って配られた串をおとなしく食んでいる。
「まるで飴玉を口に入れた子供とかわらんな……槍、美味いのか?」
「美味いぞ? ちょっと硬くてまだ食えないが。この串よりよほど美味い」
「おい陸の。ぬしの子じゃろ、なんとかせい。無理に取ろうとすると我を噛むのだ!」
はぁと小さく息を吐いて、フェイオンは先にオブ=ロブの傷に手を当てて金色の光を流して癒すと、青年の方へ歩いて行って、槍を掴んでそのまま引き抜き、傷口に光を当てて塞ぐ。
「これはな、奴の牙じゃ。他人に舐められて気分の良いものではない。そろそろ返してやれ」
コツコツと自分の歯を見せて指で叩きながら、フェイオンは槍をオブ=ロブの方へ投げ渡し、彼はそれを受け取るとそのまましゅるりと腕の中に飲み込むように消した。
「フェイオン……今、俺がやったのは、お前が言っていた、大切な相手に口を付ける行為というやつなのか?」
「あー、まぁ、近いか。そなたがあやつを共に過ごしたい大切な存在と認識しているわけでもないのに舐め合うような口付けをしてはおかしいな」
「わかった。なら、それは止める」
青年が素直にこくりと頷くのを見て、オブ=ロブもホッとしたようだった。