10.赦し祈れば
男爵が私の家を訪れたのは満月の夜の前日だった。彼は自身の商いで手に入れたという異国のベールを私に差し出す。細かい真珠が縫い付けられ、螺鈿細工のように煌めく美しい面紗。これほどのものをこの国で見たことはなかった。あまりの美しさに思わず感嘆のため息が漏れる。
「私が用意できる最高の品です。妖精の織る布には劣りますが、それでもどのような婚礼衣装にも合うはずです。セレシア様とオベロン王の永久の安寧を祈らせてください」
居住まいを正して男爵は深く頭を下げた。そうして懐から手紙を一通取り出す。厚みのある封筒の中身はおおよそ予想がついた。ベールを控えていた侍女に渡し、差し出された手紙を受け取る。
「娘からです。読んで欲しいとは言いません、本来この場に来て謝らねばならないのに、それさえ出来ぬのですから」
男爵はもう一度頭を下げると屋敷をあとにした。最低限の見送りを済ませ、自室に戻りナイフで手紙の封を切る。
別に何を言われようと、彼女と殿下の妖精と公爵家への仕打ちを許すことはできない。古くから国や王家を支えた我らが、ただの愛のもと蔑ろにされていい訳がないのだ。
数枚に及ぶオフィーリアの手紙を、私は静かに読み始めた。
殿下の愛に溺れた結果が今回の惨劇であること。どれほど殿下の寵愛を受けても私が眉ひとつ動かさないのが気に食わなかったこと。そんな自分の醜さが邪なものを呼び寄せてしまったのだ、という後悔。
『殿下と共に生きることが約束された貴方が憎かったのです。愚かだと分かっていました。それでも憎まずにはいられない。愛だけで自らの立場が約束されないことくらい、愚かなりにも分かっていたのです』
そんな中、短い悪夢を見るようになったそうだ。内容すら思い出せない、目覚めると胸が僅かに軋むだけの小さな悪夢。屋敷の者が妖精の仕業であると言ったときには、天が味方したのだと思った、と。
『貴方様が妖精と仲が良いのは周知の事実でしたから、ちょうどいい口実ができたと思いました。多くの貴族の前でそれを暴けば、立場が危うくなるだろうと、そうして私にも機会が訪れるのではないかと』
『そうしてあの日が訪れました。数日前から異常なほど憎しみが募っていました。貴方様に重すぎる罪を背負わせ、オベロン王が現れたその時のことです。私の中の何かが蠢きました。彼の王には初めて会うのに、胸が躍り、憎しみに震えました。自分でも自分のことがよく分からず、とても恐ろしかった』
それからは男爵から聞いた通りのことが顛末まで書かれていた。これを陛下に見せれば、男爵家程度であればすぐに圧がかかり消えるだろう。何事もなかったかのように私は瞬く間に殿下の婚約者へ戻るだけ。彼女はそれだけの覚悟があってこの手紙を送ったのだ。城で見た彼女やネックレスを届けにきた彼女とは違う。正しく男爵令嬢であろうとする彼女の誠意。
ひとつ呼吸をしてから父の執務室へ行き、手紙に火をつけた。小さく音を立て、手紙はすぐに灰になる。
「よろしいのですか」
侍女は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ええ。これを陛下に見せたことで私が殿下の婚約者に戻っても、誰も幸せにはなれないわ」
殿下とオフィーリアが愛を貫くと言うのなら、私もオベロンとの愛を信じよう。見えないものが、妖精を害したものたちが、果たしてどんな国を作るのか、私は彼の隣で見届けたい。
空は夜の帳を纏い始めている。夕暮れの空には限りなく満月に近い月が薄く輝いていた。




