1.愛する隣人よ
「まあ、セレシア。セレシアがいるわ」
「ふふ、本当ね。今日もとても愛らしい」
木漏れ日の中でひとり、花冠を作ってなんと無しに時間を潰していると、いつものように鈴を転がすような声が聞こえてきた。顔を上げれば森の奥から二羽の妖精がこちらに向かって飛んでくる。手のひらを差し出せば嬉しそうに笑った二羽は妖精の鱗粉を振り撒きながら数度旋回して手のひらに降り立った。
「今日はお城へは行かないの?」
「あの気に食わない王子様のところへ行かないの?」
二羽は目尻を指先で持ち上げて、“気に食わない王子様”の物真似をしている。
王位継承権第一位のギルバート様。その方の婚約者として生きているのが私、セレシアだった。私たちの間に愛などは少しもない。けれどそれは嘆くことでも喜ぶことでもなかった。公爵家という地位に生まれつき、今まで一度だって苦労をしたこともひもじい思いをしたこともなかったのだから、それに報いるために国に身を捧げることは当然のことだ。
愛はなくとも、私には国と民のための責任がある。“真実の愛”にうつつを抜かす殿下にはそんなものはなさそうだけれど。
「殿下はね、男爵令嬢様と一緒におられるのよ」
「まあ、浮気?」
「酷いわ。罰を与えなくては」
水を被せてやりましょう。太くて硬い木の枝を出してあげるから、あなた彼の頭を殴ったら?炎の子に頼んでお城ごと燃やしてしまうのはどう?
二羽の妖精はカラカラと笑いながら、その可愛らしい容貌からは想像できないほど酷な仕打ちを話し合っていた。苦笑を浮かべなんとか宥める。
妖精のこういう純真で無垢なところは時に恐ろしささえ覚える。それもそうだろう。世界の全ては妖精のもたらす神秘によって在るのだ。雨が降るのも、作物の実りも、すべては妖精のご機嫌次第でどうとでもなる。彼らは隣人にはいつも友好的だけれど、本来は畏怖の対象だ。
「私ね、セレシアはオベロンと結婚すればいいと思うのよ」
「ええ、ええ!私も、いいえ、みんなそう思っているわ」
「だってね、オベロンはセレシアが産まれた時からずっと想い煩ってばかり」
「あんなオベロンは見たことがないわ。王子なんかよりずっとセレシアを幸せにするに違いないわ」
「おいでなさい、おいでなさいセレシア」
「常春の国においでなさい」
妖精はふわりと舞い上がり、その小さな腕で私の指を一本ずつ握ると森の奥へと導く。私の手のひらほどの大きさしかないのに、彼らの操る魔法によって意志とは関係なく足が進んでゆく。
ああ、いけない。今日は仕立て屋が屋敷に来るというのに。彼らの国に足を踏み入れて、僅かな時間で帰れるということはできない。今日はダメなの、離してちょうだい、そんな言葉は楽しげに舞う彼らの耳には届かない。ため息を漏らし、心の中で侍女に詫びたその時だった。
「お前たち、イタズラも大概にしないと粉にして西の魔女に売ってしまうよ」
ふわり、と。花の香りが広がった。風に乗って視界の端に金糸が揺れる。
優しく肩を抱かれると、私の手を引いていた妖精はその可愛らしい衣服を翻して、私の後ろに立つその人物のそばを舞った。
「酷いわオベロン、わたしたちイタズラなんてしていなくてよ」
「そうよ。セレシアをあなたの花嫁にする用意をするのよ」
顔を上げて彼を盗み見た。腰まで伸びる黄金の髪と、太陽のような琥珀色の瞳。彼こそが妖精の王たるオベロン王その人だった。
彼は私の視線に気がつくと「悪かったね」と
それはそれは美しい微笑を浮かべて詫びを述べた。
オベロン。物心ついた時からずっとそばにいた方。森の草花も、魔法の使い方も、この世のことわりを教えてくれたのも、全てすべて彼だった。いずれ王妃となる私には日々つらく苦しい出来事がいくつもあったけれど、それでも彼はいつも変わらず私に微笑み、包み込んでいてくれた。
誰も知らない、私の“真実の愛”。
「セレシア、きみの家に商人が入ったいくのを見たよ。戻った方がいいんじゃないか」
声をかけられて我に返る。そうだった、急いで戻らねば。彼に礼をして私は草の上を駆ける。
妖精たちの言葉を肯定してくれたらよいのに、と走りながら考える。
この国で王に逆らうことのできるものなんていないに等しいけれど、貴方であれば私を攫うことだって容易でしょう、と。そんな馬鹿なことを考えながら、私は自らでそれを否定した。
私の人生は私ひとりのものではなかった。野を駆ける自由も、更けた夜の中で星を数える喜びも、近いうちに消えてゆくものだ。
それでもただひとつ、心だけが自由だった。
彼を想うこの心だけは、誰にも侵させはしない。奥歯を噛み締め、私は屋敷に向けて強く地面を蹴った。




