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ラブホテル

作者: ぷりん

 例えば、気になっている人におはようと、声をかけてみる。自然に、コンビニの店員さんにおおきに。と言うように。じゃあ、次に友人をご飯に誘ってみる。ちょっとお高い焼き肉や、大衆居酒屋でもいい。胸に手を当ててみてほしい。そして、自分の鼓動を感じてほしい。たった一言で鼓動が跳ね、そのワンシーンを何度も飽きずに頭の中でリピートする。今日の自分は、どう映っていただろう。今どんなことを考えているだろう。自分が心弾ませる一瞬は、振り返る必要のない瞬間だったのだろうか。恋をすることでまるで壊れたロボットのように、動きが悪くなり、頭からの指令が途中で切れ、気持ちばかりがはやる。そんな時のもどかしさを、楽しめたらどんなにいいだろうか。

「ホテル行かない?」冬のネオンに照らされた彼女の横顔にそう一言。

もしあの時そう言えていたら今の僕はもっと違った僕になっていたかもしれない。



18歳の冬だった。未成年であったがアルバイトの先輩とバイト終わりに飲みに行くことになった。お酒の力も借り、かなり盛り上がったはずだ。クリスマス間近の週末ということもあり終電時間が過ぎたこの時間でも飲み屋街のこの辺りはまだまだ賑やかだ。


肩を組んで歩く若い集団。その集団に声をかける居酒屋のキャッチ。店の前で看板片手に呼び込みをするギャル。騒がしい喧噪の中、二人は白い息を吐きながら身を寄せ合い人ごみの中を進んでいく。

行くあてもなく進み、互いが互いの次の一言を待ち、微妙な空気が二人の間に流れる。すれ違うキャッチに「ごカップルでどうですか!」と元気よく勧誘されるが、なんとなく居酒屋の気分ではないからすみませんと、断る。


「寒いですね先輩」

「寒いね。どこか温まれる場所は無いかな」

何気ない会話に鼓動が早まる。どういった意味で言ったのだろう。指先が震え、そうですね。の返事もどこかぎこちない。雑踏を打ち消すほど大きくドクンドクンと波打つ心臓が今にも口から飛び出そうだ。

言いたい言葉は準備してある。練習は何回も頭の中でしてきた。あとは喉の奥から声帯を振動させ音声にするだけだ。何度も声を出そうとし、その度に口蓋垂のところでバリアーがあるかのように止められてしまう。傍から見れば喉仏を上下に動かしているだけに見えるだろうか。


その時先輩がすれ違った人の肩にぶつかり、きゃっと不意に僕の方に腕を回し横から抱き着いてきた。先輩の髪が頬を掠める。女性特有の匂いが鼻腔をを刺激し緊張と相まって頭がクラクラする。

背の低い彼女は僕の目を下から覗き、寒いからか照れているからかわからないが頬が赤くして少し照れた表情をした。

その顔を見た瞬間ようやく言葉が出た。

「カラオケ行かない?」



あの時のことは今でも鮮明に覚えている。いや、正しくはふとした時にフラッシュバックしているのだが。あの後のカラオケは無難に終わった。始発で帰路につき次のシフトの時もいつもと変わらない先輩のままで何も変化がなかった。


たしかに先輩と飲みに行き、終電が無くなったから始発までの時間をカラオケで時間をつぶしていたというのは、何ら間違った行動ではない。ましてやただの先輩後輩の間柄で、LINEでたまにやり取りし、インスタの投稿にいいねを押し合う、ただぞれだけの関係だ。


もちろん特別な感情があるのは自覚している。先輩を目で追い、LINEの返信に一喜一憂し、かならずいいねを押す。僕の中で日に日に先輩の存在が大きくなってきているのは火を見るより明らかだった。でも好意を積極的に表したことはない。商品棚に商品をを陳列しながら先輩にこの店舗で誰が一番かわいいかと聞かれ、先輩が一番かわいいですよ、と会話の中でさりげなく言うので精いっぱいだった。だからあの時の、あの一言はなんらおかしくないのだと、自分に言い聞かせてきた。


だがあの時、一瞬彼女の瞳の奥に落胆を感じたのは確かだ。

吐息交じりにそうだね。と相槌を打つ先輩の口調はどこか口惜しさが感じられた。


そして何より僕の中で何か大切なものが折れたような音がした。ぽきっ、と。僕の中にある物理的なものではなく、心の内側にある背骨のような、芯のような、大事な精神の樹が折れてしまったのだ。


あれから17年。35歳になり今も同じ職場で働いている。変わったのはアルバイトから正社員になったことくらいだ。もちろん彼女はいない。いや、中学の時にできた唯一の彼女が僕の中の最後の彼女だ。恋愛経験もほぼなく、口数も少なく、おまけに童貞だ。

毎年12月に近づくとクリスマス仕様に店舗を装飾する。そしてぶら下がっている金色の鈴やおもちゃのトナカイを見るとどうしてもあの時のことを思い出してしまう。


大学受験に失敗し、浪人するか就職するかの二択を迫られ、勉強が嫌いだったから就職を選んだが、どこの企業も定員いっぱいになっており、仕方なく学生時代から続けているアルバイトを社会人になっても続けた。今までいい感じになった人がいなかったわけではない。ランチに行き、遊園地に出かけ、お酒の力を借りて何度も告白をしようとした。だがいつも寸前のところまで出かかった一言が喉の奥へと引き戻されてしまう。


いつから僕の人生はこんな谷底のような日が当たらない薄暗いところを歩むようになったのだろう。過去を振り返るといつも先輩と過ごしたあの夜のことを思い出してしまう。


たしかにすべて自分の怠惰な行動が返ってきているだけなのだが、それでもどこかで歯車を掛け違えたとしか思えない時がある。

もしあの時小さな勇気を振り絞り男らしく先輩を誘えていたら。もしあの時失敗を恐れず挑戦できていたら。ちっぽけなプライドが未開の地に進む次の一歩への重い足枷となって足を引っ張ってきた。結局先輩はしばらくして別の先輩と結ばれたわけだが、今ほど悄然とはしていなかっただろう。


やらない後悔よりやった後悔と言うが、あの時の僕はやる勇気の大きさに比例するようにやらない力が大きくなっていたのだ。喉元まで出かかった言葉を臆病なもう一人の僕が奥へと引き戻し、二酸化炭素だけの白い吐息となり吐き出される。

人生の分岐点は振り返らないとわからないが、僕の場合は間違いなくあの瞬間だっただろう。上り坂ではなく、楽な下り坂を選んだのだ。後悔しても仕方がないことはわかっているが、そのことを上書きできるほどの恋愛をしてこなかったから、いつまでも暫定一位として居座ってしまう。


春先になり新しく入ってきた大学生に紛れて一人のフリーターの女の子が入ってきた。今年32歳になる彼女は女の子と呼ぶにはもう厳しい年齢ではあるが、実年齢より5歳は若く見える童顔はやはり女性というより、女の子としてとらえてしまう。


彼女はフリーターなので僕とシフトが被ることが多くそれに比例して話す機会も増えた。バツイチで子供はおらず、離婚と同時に実家に出戻ってきたようだ。愛嬌があり、年下の面倒見がよく、自分の失敗を惜しげもなく話せる彼女に少しずつ惹かれていった。

半年が過ぎた頃には、かなり打ち解けて何度か休みの日にランチにも出かけた。その時話した僕の人生最大の過ちを彼女はまじめに耳を傾け、最後は消えない傷もありますよねと、笑ってくれた。


彼女は僕より多くのことを経験し、そして多くの涙を流してきていたことを話してくれた時は一歩彼女に近づけたような気がした。もう過去のことです。とカップを両手で持ちコーヒーを啜る彼女の清々しい表情を見るともう先へと、未来へと、進み始めているように感じた。


日が沈むまで話し込みそろそろおひらきかなと思ったころ、久しぶりにお酒飲みたいですね。と彼女

の方から投げかけてきた。


もちろん断る理由なんてないし、むしろ心の中では有頂天になっていた。

居酒屋へ行き、レモンチューハイを飲み頬を赤らめる彼女はいつもより色っぽく見えた。

居酒屋でも話し込みもう少しで終電の時刻になり店を出た。


もう11月間近になり、外もかなり冷え込んでいる。さむいね。と自然と肩を寄せ合い雑踏とした道を進んでいく。店を出るまであんな饒舌だった彼女も黙り込み前だけを見て歩いている。


鼓動が早まる。指先が震え、彼女に感じ取られていないか心配になる。この瞬間18歳の頃の記憶が蘇る。そしてその後の人生も。焦燥感に苛まれ、無気力でただ時間が過ぎるだけの日々。そんな日々にまた陽を当ててくれた彼女。


失敗したっていい。笑われたっていい。僕はあの時失った小さな勇気を取り戻したいんだ。ネオンに照らされる彼女の横顔を見て、再び胸を内側から叩かれる。

今まで僕の足を引っ張てきた重い足枷を振りほどき、閉ざされていた喉元を通り抜け、彼女の瞳を見つめて、そっと一言。

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