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それから数日。
村にはこの季節には珍しい晴天が続いていた。
あれからアリアローサは一日も欠かすことなくロアの家を訪れている。ロアの母から編み物を習い、ロアからは料理を教わり、穏やかな日々を過ごしていた。
ふたりの関係を知った母は、手放しで喜んでくれた。「なにもない村だけど、本当にいいの?」と息子と同じように、少しだけ、謙遜して。そんな母にアリアローサは「ここがいいんです」と微笑んで言った。その柔らかな笑顔に癒されながら、ロアは幸せを噛み締める。
いつまでもいつまでも、こんな日々が続けばいいと、そう、願っていた。
けれどその幸福の息はロアの予測を遥かに超えて、短命であった。
その日も、雲間からはいく筋もの光がさしていた。
庭先に出ていたロアは、今日も洗濯物がよく乾きそうだと、空を仰ぐ。と、その視界に黒い影がチラついておやと思った。
数日ぶりの雪だった。
せっかくの晴れ間だったのに。と分厚くなり始めた雲を見て、ロアは息を吐く。突如その耳に、聞き慣れない声がかかった。
「あの」
いささか緊張したようなその声に、ロアは背後を振り向く。
この村に不釣り合いなほどの礼装に身を包んだ若者が立っていた。
頭に乗せていた帽子を取ったその男に会釈され、ロアも反射的に頭を下げる。汚れひとつない黒のロングコートに触り心地の良さそうな首巻き、光沢のある革の手袋。それだけで彼の出自が分かりそうなものだった。男は困ったように眉を寄せたまま、一歩、ロアに歩み寄る。
何処かでかいだ、匂いがした。
男が言った。
「いきなりすみません。実は、人を探していまして」
「人を?」
ええ、と頷いた若者は神妙な顔でアリアローサの名を告げた。
ひと月ほど前、アリアローサが突然いなくなったこと。
必死に探していたこと。
彼女の部屋で、彼女の祖母との手紙のやりとりを見つけて、この村にいるのではないかと推測したこと。
ここ数日、雪が止んで、やっと村に辿り着けたこと。
ロアは胸騒ぎを覚えて、口籠る。今、その探している女性が自分の家にいると伝えたら、この若者は、どうするのだろう。
ロアはゆっくりと口を開いた。
「失礼ですが、彼女との関係は」
男はわずかの隙もなく、答える。
「婚約者です。お恥ずかしいお話ですが、僕たち、交友関係のことで喧嘩をしてしまって。それで彼女は僕といたくなくて、家出をしたんだと思います。お願いです、あなた、何かご存知なんでしょう。教えてください」
婚約者……
ロアは混乱する頭で、男を見つめ直した。
よくよく見れば、男は憔悴しきっていた。
頬はこけ、目の下はどんよりと黒い。
このひと月、食事もまともに出来なかったのだと、男は言った。
「アリアローサは美しい人です。ずっと僕なんか相手にされないと思っていたけど、どうしても諦めきれなくて、彼女の店に何度も通って、やっと恋人になって、先月やっと婚約できたんです。なのに、僕がつまらない嫉妬をしたものだから、彼女は……」
意味がわからなくなって、ロアは目元を押さえた。
落ち着いて。アリアローサと話さなければ。
「……すみません、少し待ってください」
ロアは言って、自宅に戻る。
居間の暖炉の前には、アリアローサと母が座って編み物をしていた。昨日と変わらない、日常化していた光景。可愛い恋人。けれど、この子は。
「誰か来てるの? 話し声がしたけど」
立ち上がったアリアローサからは、あの男と同じ香りがした。
スミレだ。
ロアは母に聞こえないように彼女に囁く。
「君に、客が来てる」
アリアローサの顔色が変わるのを、ロアは見過ごさなかった。
「お客? 誰かしら」
アリアローサが、不自然に口元を歪める。笑おうとして、失敗しているのだ。ロアは怪訝な顔つきになって、アリアローサの手を取った。
「あれは、誰」
アリアローサの、大きな瞳がロアを見つめる。と、アリアローサは母の方を振り向いて「少し外に出ます」と告げた。ロアもその背を追いかけると、戸口の前で捕まえ、こちらを振り向かせる。狭い空間で、ふたりは見つめあった。
「アリアローサ、答えてくれ」
「お願いロアさん、わたしを信じて」
「じゃあ話してくれ」
「話すわ、全部。でも、その前に彼に会わなくちゃいけない」
「彼は、君の婚約者だと名乗った」
言葉をつまらせたアリアローサが大きく目を見開いた。
「事実なのか」
いつもよく喋るアリアローサの、沈黙が痛かった。
ロアはどくどくと波打つ心臓の音を聞きながら、アリアローサを見つめる。
「アリアローサ」
「……ずっと、ロアさんに言わなくちゃって思ってたの。でも、知られて嫌われたらって思うと、怖くて」
「君は彼を裏切っていたのか?」
自分たちの関係は不貞だったのか。
尋ねたロアにアリアローサは顔を上げた。
「違う。彼には婚約を無効にして欲しいってお願いしたわ。それでも彼、納得してくれなくて、お母さんも彼の味方で。どうしようもなくて、だから私」
「逃げ出してきたのか」
アグリルの元に。
けれど、頼ろうとしていた祖母はその日、亡くなってしまった。
途方に暮れたアリアローサは寄る辺をなくし、だから村に留まったのだ。
だとしたら、自分たちの関係は?
「ごめんなさい。まさか彼がここに来るなんて思わなかったの。でも私、ちゃんと彼と縁を切ってくる。そしたらまだここにいてもいいでしょう?」
ロアは、もちろんと言いたかった。
彼女をまだ愛していたし、力になりたいとも思っていたからだ。けれど…
「ロアさん」
泣き出しそうな顔の恋人から、ロアはそっと手を離す。
「彼、とても後悔しているみたいだった。詳しいことは俺にはわからないけど、ちゃんと話した方がいい」
「……ロアさん?」
立派な衣服に身を包んでいたあの男は、ロアよりずっと裕福に違いなかった。
ふたりがどんな喧嘩をしたのかはわからないが、ロアにできることは一つだけあった。
彼女に選ばせることだ。
遠くから潮騒が聞こえる。びょうびょうと風が吹き荒れ始めていた。