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◇ ◇ ◇
花の香りがした。ロアは腕の中におさまっているアリアローサを見つめて、首を傾げる。
「春の匂いがする」
少し身じろいだアリアローサが、「スミレよ」と柔らかく微笑んで、懐に持っていた匂い袋を見せてきた。深い海色をした彼女の瞳は、暖炉の炎をうけて、星のように煌めいている。綺麗だった。
「どうりで」
匂いの正体に頷きながら、ロアは、もう何度目とも知れぬ抱擁を繰り返した。アリアローサの細い指先が、たどたどしく背を伝ってくる。くすぐったくて、ロアは笑う。
それは、息も詰まるような幸福だった。
──ロアさんと一緒にいたい
雪が降りしきる中。アリアローサがそう告白してくれたのがつい先ほどのこと。それからふたりは、ロアの家には戻らず、アグリルの家の広い居間の、暖炉の前に座っていた。一枚の毛布に包まり、ロアはアリアローサを守るように抱きしめている。そうしていると、彼女は嘘みたいに小さかった。
ロアはそっと口を開いた。
「お腹はすいてない? なにか作ろうか」
想っていた人が、自分を想ってくれていた。
その奇跡みたいな幸せが信じられなくて、ロアはどこか夢見心地のまま、腕の中の美しい娘を見つめた。
ああ、もしかしたら自分は本当に、夢を見ているのかもしれないと思った。
感触を確かめるように、アリアローサの手を握ってみる。細い指先はまだ、冷たかった。温めようと手を手で隠すように覆うと、赤い顔のアリアローサが、こちらを見上げた。
「だ、大丈夫。お店で食べてきたから」
「そう……そういえば、キリールの店にはよく行ってたの?」
「たまによ、イレイザさんたちに誘われた時とか」
「……そうなんだ」
イレイザが頻繁に彼女を誘っていたのは知っていた。
ロアはアリアローサを抱きしめ直しながら、喉まで出かかった言葉を押し殺す──
あいつの店には、行って欲しくない。
そうは思ったものの、同時に、彼女の行動を制限するような真似もしたくはないと思った。アリアローサには、これからも自由でいて欲しい。自分といることで窮屈な思いをして欲しくはない。
ロアは自制心を働かせて、アリアローサに微笑む。
「今度からは気をつけて。俺もなるべく付き合うから」
「……ええ」
アリアローサは頷きながら、しかし納得しかねると言ったように、眉を寄せていた。
「? なに?」
「ロアさんは、妬いてはくれないのね」
「え?」
一瞬なんと言われたのか分からなかった。
聞き返そうとしたところで、ふいと視線を逸らされる。アリアローサはそのまま、睨むように暖炉を見つめていた。ぽつりとその唇が動く。
「……さっき、リタさんと手を繋いでた?」
「え?」
「お店で」
「……ああ、あれは、リタが離してくれなくて」
どうしてここで突然リタの話が出てくるのだろう。ロアは不思議に思いながら、夕食を食べ終えた頃、自宅を訪れたリタが「飲みに行こう」と誘ってきたのだとアリアローサに説明した。先月の買い出しの礼に、奢ると言われたのだと。
ロアは暖炉を向いたままのアリアローサに話し続けた。
「そんなことしなくていいって最初は断ったんだけど、どうしてもって言われて」
「……そうなの」
「あいつ最近、夜遊びもひどいみたいだし注意するのもいい機会かと思って、それで」
「幼馴染なのよね」
「うん、前に言わなかったっけ。家が近所で」
「仲がいいのね。とっても」
「普通だと思うけど」
「リタさんのミートパイ美味しかった? 全部食べた?」
「……うん」
むくれたような顔のアリアローサが、ちらとロアを見上げた。これは。ロアは緩みそうになる口元を隠すように、片手で覆った。
「ねえ、アリアローサ……君もしかして、妬いてくれてるの?」
尋ねると、アリアローサは暖炉と飲酒だけではないだろう理由で、耳まで赤く肌を染めた。その素直な反応に、ロアは思わず声をあげて笑う。嬉しい、と思った。
本当に、可愛い人だ。
あるいは、魔性の類なのかも知れない。
イレイザも、おそらくはキリールも、彼女に恋をしている。ロアはわずかな不安に駆られながらアリアローサを抱き寄せた。
「だって、嫌だったんだもの」
と、真っ赤な顔のまま、アリアローサが言う。
ロアは笑ってしまったことを謝罪すると、アリアローサの両手を両手で握りしめた。
「安心して。リタとは本当にただの幼馴染。リタだって、俺みたいなつまらない男は嫌いだろうし」
「……ロアさんって、本当に自分のことがわかってないのね」
アリアローサはもどかしそうに唇を噛み締めていた。
そうして、小さくため息をこぼす。
「罪なひとだわ」
「え?」
「ねえ。都にいた時、恋人はいた?」
「……いたには、いたけど」
今度は、ロアが視線を逸らす番だった。
あまりいい思い出ではない。
「勉強ばっかりしてたから、誰とも長続きしなかったよ」
「! ……わ、私は! ロアさんがお勉強しててもいくらでも待ってらいられるから、安心してね」
その、必死な様相が可愛かった。ロアはくすりと微笑む。
「ありがとう」
そうして「君の方こそ──」と言いかけて口をつぐんだ。こんなにも可愛くて明るい娘なのだ。いなかった、わけがない。
ロアはアリアローサが自分以外の男に微笑みかける姿を想像して、嫉妬に身を焦がした。
今が夜で、部屋が暗くてよかったと、心から思う。きっと、自分は今、恐ろしく醜い顔をしていたに違いなかったから。
それからアリアローサは明け方まで、ロアの腕の中で落ち着かなげに話しを続けた。
なんだか恥ずかしい気持ちがするということ。
でも、とてもとても嬉しいということ。
(それは自分も同じだとロアは笑った)
仕事は、この村でも続けたいということ。
そのために、この家を半分、洋品店に改築しようと考えているということ。
ロアは、アリアローサを抱きしめたまま頷いた。
「すごくいいと思うよ」
「本当? 無謀だって思わない?」
「思わないよ」
言って、まだ薄暗い室内を見回す。
「いい家だけど、借り手も買い手も見つけるのは難しいと思うから。君の仕事のこと、俺にも手伝わせて」
「ええ、ありがとう……ロアさん大好き」
「俺も……好きだよ」
ロアはもう堪えきれなくなって、アリアローサを力の限り抱きしめた。
服のことも勉強しようと、ロアは密かに決意していた。
◇
「ねえちょっとそれ、本気なの?」
翌日。睡眠不足のロアを訪ねてきたリタが、怒鳴るように言った。
早朝から、パンをもってきてくれたのだ。玄関の軒下でそれを受け取りながら、ロアは淡々と告げる。
「本気だよ。春からは彼女もここに住む」
「なんですって」
リタは猫のような大きな瞳を見開かせた。
昨夜の酒場での騒動を気にしていたらしいリタは、あの後大丈夫だったのかと尋ねてきた。どうせ隠しておいてもわかってしまうことだと、ロアはアリアローサとのことを打ち明けた。とたん、これだった。
リタは胸の下で腕を組み、低い声をあげる。
「本当に大丈夫? 騙されてるんじゃないの」
ロアは呆れてため息を吐いた。
「あのな、俺なんかを騙して、あの子になんの得があるんだよ」
金持ちどころか借金があり、家だって彼女の祖母のものの方がずっと立派なのに。
自分で言いながら、ロアはわずかに落ち込んだ。そうだ、自分と付き合うメリットなど、どこにもない。
だからだろうか。今もあまり実感が湧かない。
昨夜のことは夢だったのではないかと思ってしまう。
けれど別れ際、アリアローサがくれたスミレの匂い袋は、確かにポケットの中にあった。
だからなんとか、現実だと思えている。
この関係がいつまで続くのか。
大学時代の恋人たちのように、いつかアリアローサにも飽きられてしまうのではないかという不安は拭えない。けれど。ロアは自分を好きだと言ってくれたアリアローサを信じることにしたのだ。
「ねえロア。私心配だわ」
「大丈夫だよ、アリアローサはいい子だから」
ロアが安心させるように言って見せても、リタは止まらなかった。
「前にも言ったでしょ。あの子、誰にでもいい顔をしてるの。特に男の人に」
内緒話をするみたいに声をひそめて、リタが身を寄せてきた。
ロアは身体を引きながら、片手でリタを押しとどめる。
「待って、リタ」
「聞いて」
リタが囁く。
「昨日はあんなことになってあなたにきちんと教えられなかったけど、あの子、酒場に来たらいっつも男の人とばかり飲んでるのよ。キリールとも親しそうだったでしょ?」
「……嫌がってただろ」
「わかってないのね。駆け引きよ。ああしてあの子、相手の気を引いてるの。イレイザだって骨抜きにされてるし、ロアもそうなんじゃないかって、私」
「リタ」
ロアはリタの身体を強く押し返した。
「忠告ありがとう。でも俺は、アリアローサはそんな子じゃないって知ってる」
「ロア!」
「なあリタ。もっとちゃんとあの子を見てみろよ。あの子は──普通の子だぞ」
容姿のせいで、お人形のようだなどと勘違いされてしまうのだろうけど。
違う。
アリアローサは血の通った人間で、その繊細な見た目からは想像できないほど料理が下手で、よく喋って、よく笑って、泣いて、妬きもちだって妬く、普通の女の子なのだ。
初めはロアも、その顔に見惚れてしまったけれど。そんなものは、彼女を形どる一部に過ぎなかった。
「パンありがとう。おばさんにも礼を言っといて」
「ロア……」
ロアはそれでも何かを言おうとするリタに背を向けて、家に戻った。
ポケットから、スミレの匂い袋を取り出す。
冬にあるはずのない、花の香りがした。