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◇
それからアリアローサは、三日に一度くらいの頻度で、ロアの料理教室に通うようになった。
学校が長期の休みに入ったロアは、もっと来てくれていいのに、と言ってくれたのだが、あまり親しくしすぎてリタに勘違いさせてしまうのも悪いと思ったし、なによりアリアローサ自身がこれ以上彼との思い出を作るのが怖かった。
ロアのそばは、暖炉の前で静かな雪景色を眺めている時のように、ほっとする。
故郷の街も賑やかな友人たちも嫌いではないが、ロアの隣で、アリアローサは、ゆっくりと呼吸をする、それだけの幸せを知った。
──だからおばあちゃんも、この村を離れなかったのかもしれない。
アグリルの生前、アリアローサは何度も手紙で「街で一緒に暮らそう」と誘っていた。
険悪な母との仲は、自分が持つからと。
けれどアグリルは、一度もその提案を受け入れてはくれなかった。
──自分は歳を取りすぎた。
──それにここには親しい友人もたくさんいるから、と。
その友人に、きっとロアも含まれているのだろう。
教会で見た泣き腫らしていたロアの顔は、今でも忘れることが出来ない。
大人の男の人が泣いているのを見たのは、あれが初めてだった。
──おばあちゃんと最後まで一緒にいてくれた、やさしい人。
そう。だからきっと彼のそばは、安心するのだ。
そうやって、穏やかな時を過ごす日々が続いた、そんな折。
エニエルに編み物を教わっている最中。
思いがけずアリアローサは、ロアの過去を聞いてしまった。
彼の母親はひどく寂しげに笑っていた。
「あの子は、本当はね──」
◇
「先生と随分仲がいいんだってな。付き合ってんの?」
その夜。
酒場のカウンターでお酒を飲んでいると、村の若者の一人──キリールに声をかけられた。
もう酔いが回っているのか、呂律がとても怪しい。
アリアローサは、わずかに首を傾げて聞き返した。
「先生って、ロアさんのこと?」
キリールは、アリアローサが村に来て間もない頃、店などを案内すると声をかけてくれた明るい青年だった。以来アリアローサは、キリールの友人──イレイザなどとも話したり、食事をしたりするようになっていた。
冬の間だけ開いているというこの酒場に誘ってくれたのも、キリールだった。
なんでも経営主も彼だとかで、美味しい料理をおまけしてくれたりもする。
他の仲の良い子たちにもよく酒や料理を振る舞っているらしい──気前のいい青年だった。
「そ、ロア先生のこと。リタに聞いたぜ。よく家に行ってるんだって?」
照明の暗い店内には、二十歳前後の男女が集まり、思い思いに酒とおしゃべりを楽しんでいる。
アリアローサは客の中にリタがいないのを見て、ほっと息をついた。
「おばさまに編み物を習ったり、ロアさんには料理を教えてもらってるだけよ。付き合ってなんかないわ」
「へえ。編み物に料理。あのしわくちゃの婆さんたちにね」
「……ねえ、そんな言い方失礼だわ」
エニエルとロアを馬鹿にされたような気がして、アリアローサは不快に眉を寄せた。
今夜のキリールは良くない飲み方をしているらしい。見れば、彼の手元にあるのは強い度数のそれだった。
「キリール、飲み過ぎよ」
「はは、心配してくれるの? 俺のこと好き?」
「友達としてね。さ、お水を飲みましょう」
「やさしいな」
言ったアリアローサのカウンターに置いていた手首を、ふいにキリールが掴んでくる。
その力強さに、アリアローサは顔を歪めた。
「離して、痛い」
「やだ」
くすくすと笑って、キリールが顔を近づけてくる。
やはり、相当酔っているようだ。
キリールの釣り気味の瞳が獰猛な獣のようにアリアローサを覗いてくる。
「なあアリアローサ、俺と付き合おう。あんたが好きだ」
アリアローサは呆れてため息をついた。
「最低。口説くなら酔ってない時にして」
「……素面で好きな女口説けるかよ」
キリールが困ったように笑う。そうして言った。
「──なあ、真面目な話。ロアだけはやめとけよ。あいつ、都では落ちこぼれだったって話だぜ。なのに村じゃ澄まし顔して歩いて……」
と、その時だった。
背後から、聞き覚えのあるやさしい声がした。
「おい。引っ張るなよ、リタ」
騒がしい店内に似合わない、落ち着いたその声の持ち主をアリアローサはすぐに見つけ出した。
「ロアさん……!」
「──アリアローサ……?」
リタに手を引かれていたロアが、アリアローサに気付いて両目を見開く。すぐにその視線は、カウンターの上、キリールに掴まれているアリアローサの手へと移った。
ロアの眉間に縦筋が寄る。
「キリール、彼女に何を」
「ああ先生こんばんは。こんな店に、珍しいですね」
歩み寄るロアを拒むように、キリールが声を張り上げた。良く通るその声に、周囲の目がこちらを向く。キリールはそれを視認して、緩慢に笑んだ。
「今夜はママの世話はいいんですか? いつもべったりなくせに」
「……!」
アリアローサはさすがに怒って、キリールを睨み上げた。
「ちょっと、キリール」
「なんだよアリアローサ。本当のことだろ。いい歳していっつも母親と一緒で。母さんが母さんがって、親離れもできてない」
「……それがなんだ、お前に関係ないだろ」
静かにそう返したロアからはどんな感情も読み取れなかった。
キリールの安い挑発などものともせず、ロアはただ、淡々と、諭すように言った。
「自分の親を大事でなにが悪い? ……いや、それより、アリアローサを離してやれ。嫌がってるだろ」
「……は? ちょっといい大学出てるくらいで上から物言いやがって」
「上からなんて」
「だから、その態度がムカつくんだよ! 貧乏人が無理して大学行って、借金抱えて、ろくな職にもつけなかったくせに偉ぶりやがって……! 負け犬は負け犬らしくしてろよ!」
激昂したキリールに、ロアは困惑気味に片眉を上げた。
「君も大学に行きたいなら行けばいいだろ。こんなところで燻ってないで」
「うるせえな! 余計なお世話だ!」
「……」
これ以上の言い争いを不毛だと感じたのか。
ロアは力なく視線を落とすと、そばにいたリタに声をかけた。
「悪い。やっぱり帰るよ」
「ちょっと、ロア。せっかく来たのに……!」
「アリアローサ。君も一緒に帰ろう」
呼びながら、ロアはアリアローサの手を掴んで自分の元に引き寄せた。
キリールの手から離れることが出来て、安堵する。とても、痛かった。
ロアが言った。
「まだ飲みたいなら俺が家で付き合うから。今夜は帰ろう?」
「……はい」
アリアローサは、小さく頷いた。
「──ごめん。やっぱりキリールのこと注意しておけばよかったな」
屋外は、先ほどまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。
闇の中に、雪だけが音もなく降りそそいでいる。
夢のような景色だった。
「あいつ、悪い奴じゃないんだけど、子供の頃から気性が荒くて。それに最近は酒ぐせと、その……女ぐせも良くないみたいで」
数歩先を歩む、ロアの背中を追いかける。
「君に忠告しようかとも思ってたんだけど、さすがにお節介かと思って。あいつもあそこまですると思わなかったし……けど、怖い思いをさせて悪かった……痛かったろ? 手」
ふとこちらを向かれて、アリアローサはとっさに首を振った。
「ううん。全然」
「本当に? 顔強張ってたよ」
「……ねえ、ロアさん」
「ん?」
「ロアさんが村に戻ってきたのは、おばさまのためだって、本当?」
「……」
ロアが立ち止まる。
アリアローサは、その綺麗な顔に見惚れていた。
「おばさまに聞いたの。事故で、おじさまが亡くなって、おばさまの足が悪くなったから、ロアさんは夢を捨てて村に戻ってきたって。──ロアさんは本当は、都に残りたかったの?」
ロアは少しばかり視線を横へ流すと「わからない」と呟いた。
「どうなんだろう。本当に残りたかったら、母さんを一人にしてもそうしてたかもしれない。でも俺は結局こうして村に戻ってきた。そんなにやりたいことがなかったんじゃないかな……」
そうか。
「……ロアさんは、お母さんが好きなのね」
アリアローサはロアに微笑んで、言った。
「かもね」
ロアが呆れたように笑って、肩をすくめる。
その笑顔も、好きだなと思った。
そうか、そうだ。
──ああ私、この人が好きなんだ。
纏う空気が、声が、思考が。
「────」
気づけば、胸が痛いほどに詰まった。
呼吸さえ危うくなる。
アリアローサは立ち止まり、ロアの袖を掴む。
彼は不思議そうに首をかしげた。
「アリアローサ?どうし」
「ロアさん、私……春が来てもここにいたい」
「……え?」
ロアは一瞬、驚いたように瞳を瞬かせる。アリアローサの声は掠れてしまっていた。
誰にも彼を渡したくないと思った。リタにも。
「私、ロアさんともっと一緒にいたい」
繰り返せば、ロアはわずかに眉を寄せた。
「それは……」
雪が降りしきる。
けれど不思議と寒さは感じなかった。
酒が残っているからだろうか。
それとも、彼の返事が恐ろしいからだろうか。
アリアローサは死刑宣告を待つ罪人のような気持ちでロアを見つめ続ける。
お願い、どうか。受け入れて。
ややあって、ロアは迷い迷い、口を開いた。
「アリアローサ……それは…………それは、そういう、意味?」
顔中から、火が出るかと思った。
アリアローサは、こくりと頷く。
そのまま、顔をあげることが出来なくなった。
だから、ロアの靴先をじっと睨む。
戸惑うような声が降ってきた。
「どうして、俺なんて」
「……〝なんて〟じゃないわ。ロアさん、かっこいいもの。好きにならない方が無理よ」
告白するなんて初めてで、アリアローサは半ばぶつけるように想いを吐き捨てた。
ここまで来たら、恥も何もなかった。
唇を引き結び、ロアの反応に、ただ耐える。
「……えっと、ありがとう」
それは、どの意味の?
分からなくて、アリアローサは顔をあげることが出来ない。
ロアのやさしい声が今は刃物のようだった。
「あの、アリアローサ」
そっとロアが背を屈めてきた。
アリアローサは、覚悟して目線をあげる。
穏やかな瞳がアリアローサを見つめていた。殺されてしまう。
「……俺も、好きだよ」
照れたように言うロアの頬はほんのりと赤く染まっていた。
アリアローサは、とうとう呼吸を止める。
「……本当?」
「嘘なんてつかないよ」
「でも、ロアさん、全然そんなそぶりなかった」
「君だって」
ロアはふっと笑って、とうとう、アリアローサの息の根を止めにかかった。
「どうしよう……すごく嬉しい。叫びたいくらいだ」
そんなこと言わないで。
アリアローサは、ロアの柔らかな子供のような笑顔に、泣きそうになる。
それは、こちらの科白だ。
「大学を受かった時の方が上でしょ……」
「それはほっとした感じ。今は、嬉しくてたまらない」
言ったロアが、アリアローサの手を握った。
「俺の家においで。一緒に暮らそう。この村は何もないけど、魚は美味いし子供達は可愛いんだ」
「……ええ。知ってるわ」
アリアローサは彼の手を握り返しながら、涙まじりに微笑んだ。
ロアが好きだ。
大好きだ。
そうして、きっとここでなら、過去を忘れて生きていける。幸せになれる。そう思った。
「アリアローサ……」
そっと重ねられた唇も、彼の高い鼻の先も、雪のように冷たかったけれど。