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◇ ◇ ◇
雪みたいな人だと思った。
静かで、綺麗で、触れれば消えてしまいそうなほど儚い。雪みたいな人だと思った。
アリアローサはロアから受け取ったバスケットを手にしたまま、ロアの母、エニエルの待つ食卓へ戻った。まだ温かいバスケットの中には、リタが作ったというミートパイが入っている。甘く香ばしい匂いのするそれをテーブルに置くと、エニエルはほんの少し目を見開いた。
「おや、リタだったのかい」
当たり前のように言う。このバスケットにもパイの匂いにも覚えがあるのだろう。それほど自然に、頻繁にリタはこの家を訪れているのだ。
アリアローサは「ええ」と、頷いた。
「ミートパイですって。ロアさんはリタさんを送ってくるって」
「そうかい」
エニエルは少し心許なげな表情で、カーテンを引いたままの窓を見やった。二人を心配しているのだろう。この吹雪だ、無理もない。せめて雪慣れしているはずのロアが、早くそして無事に戻ってくることを願おう。
アリアローサは気持ちを持ち上げようと、バスケットの中の風呂敷包を取り出した。
布の結び目を解いて、現れた陶器の蓋を開ける。ふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。パリパリした表面の茶色の焦げ目が、とても美味しそうだった。
「ロアは昔からこれが好きでね、リタがしょっちゅう作ってくれるんだよ」
エニエルが「今夜のはよく焼けてるね」とパイを覗き込んで言った。
これがロアさんの好物なのね。
思いながら、アリアローサは台所へ向かう。
「切り分けますね」
食器棚の引き出しからナイフを取り出しつつ、アリアローサは、先ほど自分に向けられた、リタの熱い瞳を思い出していた。
挑むような彼女の眼差しは、どうしてあなたがここにいるの。と、物語っていた。
アリアローサはナイフによってサクサクと良い音を立てるパイを見つめて、苦く笑った。
きっとリタは、ロアが好きなのだろう。
こんな時間までロアと一緒にいて、悪いことをしてしまった。彼と自分はなんでもないのに、不安にさせてしまったことだろう。わかりやすい子だった。ロアと違って。
「美味しそうですね」
小さく切り取ったパイを皿に取り分けて、エニエルと自分の前に並べる。フォークでつついたそれは、予想を遥かに超えてとても美味しかった。アリアローサはあっという間に皿を空にしてしまう。シチューを食べてなければ完食出来ただろうに──それともこのパイが好物だというロアは全て平らげてしまうのだろうか。
──ロアさん、怒ってたな……
ふと先ほどリタと言い合っていた様子の彼を思い出す。
こんな顔もできる人だったのか、と正直驚いていた。
祖母の葬儀で知り合ったその時から、アリアローサの前での彼はいつも穏やかで物静かな人だった。感情の起伏など微塵も見せず、音もなく笑って、アリアローサの昔話に付き合ってくれた。そんな彼をアリアローサは、雪みたいな人だと思った。上品な顔立ちと、やさしげな低い声。そこに消えてしまいそうな儚さを感じて。
けれど先ほどのロアは、普通の男の人に見えた。
荒いだ声と苛立ったような瞳。
彼はリタを心の底から心配し、思っているのだ。
余所者のアリアローサは〝客人〟だからいつもやさしくしてもらえる。気を使ってもらえている。
そう思えば、ひどく寂しい思いがした。
見えない壁をはっきりと感じて。
ロアさんは、あの子のことをどう思っているのだろう。
肉汁のあふれるパイには、リタの愛が詰まっている。
彼と夜、親しくしすぎるのは控えておこう。
アリアローサはロアの帰りを待ちながら、孤独を払うように片付けを始めた。エニエルと喋っている間は、気を紛らすことができた。
その二日後、早速ロアの料理教室が開かれた。
その日、エニエルは友人宅へ招かれていて、図らずも二人きりになってしまった。
アリアローサは用意していたメモ帳とペンを手に、意気込んで彼の台所に足を踏み入れた。
ロアは、今日もいつもと同じ浅茶色のエプロンを身につけている。使いふるされたそれを「ぼろぼろで恥ずかしい」と彼は言っていたけれど、それはロアにとてもよく似合っていたし、エプロンなんて汚れるためにあるのだから、問題はない。
そうアリアローサが言えば、ロアはクスクスと笑ってくれた。
そうして、アリアローサを見つめて、言う。
「君は本当に服が好きなんだね。今日の服も似合ってる」
白いブラウスとくるぶし丈の深橙色のスカート。その上に、スミレ色のエプロンをつけていた。初めて着てきたことに気づいてくれたらしい。心配そうに首をかしげられた。
「でも、汚れちゃうかもしれないけど、いいの?」
「この服は作業用なの。だから大丈夫」
「よかった。じゃあ始めようか」
ロアは言いながら、卵を取り出す。
今日は昼食にオムレツを一緒に作る予定だった。ロアが、まず手本にと卵を割っていく。ロアの意外と大きな手を見つめながら、アリアローサは味付けをメモしていった。手際良く料理を進めていくロアに「すごいすごい」と声を掛ければ、「君もするんだよ」と微笑まれた。
そうして一時間後。
ようやくできたアリアローサのオムレツは、形はいびつだったけれど、ロアは美味しいと言って褒めてくれた。
「ロアさんは、さすが先生ね。とってもわかりやすかった」
アリアローサは、ロアが手本にと作ってくれたオムレツを食しながら言った。
向かいに座るロアはけれど、複雑そうに眉を寄せる。
「そうかな。学校では子供達にからかわれるし、言うことは聞いてもらえないし、あんまりいい先生じゃないと思うよ。そもそも俺、先生になりたかったわけじゃないし、子供達には申し訳ないと思ってる」
「……そうなの? じゃあ、何になりたかったの? 都の大学に行ってたんでしょう?」
ロアが国立大学を出ていると村人から聞いていたアリアローサは、単純に不思議に思って、尋ねてみた。
国の運営するその学舎は学費は安いが門は狭い。集うのは優秀な学生ばかりで、卒業後は皆、何かしらの要職についているのだという。
その常識から言えば、ロアは異端だった。
「さあ。何になりたかったのかな」
ロアは困ったように笑った。
「子供の頃から勉強が好きでさ。その延長だったのかもしれない」
誤魔化すような、曖昧な返答に、アリアローサは怯んだ。
きっとそれは、聞いてはいけないことだったのだろう。
踏み込み過ぎてしまったと、後悔する。まただ、いつもこうだ。距離を間違えてしまう。
アリアローサは、鬱々とした気持ちを表に出さないように、懸命に笑った。
ロアとは良好な関係でいたい。
「じゃあ今〝勉強〟に関わるお仕事ができてるのは、幸運かもね」
「……言われてみれば、確かに」
ロアがいつものように笑ってくれて、アリアローサはほっとする。
冬が終われば、自分は街に戻らなくてはいけない。
それまではこの静かな村で心健やかに過ごしたかった。
祖母の家をどうするか。
相談している母からの返事はまだ来ない。
この雪で、郵便屋も遅れているのだ。
「紅茶でも淹れようか」
オムレツを完食してくれたロアが、席を立ちながら言う。
「じゃあ私洗い物しますね」
ロアが紅茶を用意する隣で、アリアローサは食器を片付ける。
彼の淹れてくれる紅茶もコーヒーも、好きだった。どうしてか、街で飲むそれよりも美味しい気がして。
このまま春が来なければいいのに。
そうしたらずっとロアさんのご飯を食べられるのに。
そんなことを、ぼんやりと思っていた。