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夕刻。
授業を終えたロアが帰宅すると、アグリルの家の窓という窓が開けられていた。アリアローサが、早速片付けを始めたらしい。
ロアは自宅に入る手前で立ち止まると、アグリルの大きな家を眺め上げた。アグリルの家は二階建てだった。一階には広い居間と台所、それに部屋がひとつあって(アグリルはここを寝室にしていた)、二階には、物置きと化している空き部屋が三つもある──
やはり、男手があった方がいいだろう。
着替えたら手伝いを申し出ようとロアが決心したところで、二階の窓を横切った影が、ふと立ち止まった。
「ロアさん、お帰りなさい」
窓から顔を覗かせたアリアローサが、柔らかな声を降らせてきた。その笑顔に、ロアの頬も自然と緩む。
良かった、少しは立ち直ってくれたらしい。
「ただいま。掃除は捗ってる?」
地上から声を張り上げて聞けば、彼女は「ええ」と頷いてみせた。身に付けているミモザ色のエプロンが、ひどく目に優しい。
「おかげさまで。わけのわからないものだらけで、途方に暮れているところです」
本来、彼女は明るい気質なのだろう──茶目っ気たっぷりに肩をすくめられ、ロアも思わず笑みを返した。
「手伝うよ。夕食、今日もうちで食べるだろ?」
「いいの?」
「もちろん」
そのつもりで、食材も少し買い足して来た。
ロアが小脇に抱えた紙袋を掲げてみせると、アリアローサは嬉しそうに表情を綻ばせた。ロアは、胸がほのかに温かくなるのを感じながら、「また後で」と告げて、自宅に入る。
不思議だった。昨日会ったばかりなのに、彼女と話すとどうしてか心が躍る。もっと笑顔を見てみたいと思う。アグリルの孫だからだろうか──親近感が湧いて仕方がなかった。
それから、数日の時が流れた。
アリアローサと家を片付けている最中、何度かロアは、彼女の涙を目にしてしまった。
古い手紙の束や、小物を見つけた時、アリアローサの身体は止まり、口数が少なくなった。ロアはそんな時、彼女からそっと離れることにしていた。喪失の傷は、時間が癒してくれる。それは、ロアの紡ぐ薄っぺらな言葉より、ずっと効力があるに違いなかった。ロアは自分の不甲斐なさを噛み締めながら、アリアローサの手助けをした。
その間にロアは、アリアローサが街では洋品店に勤めていることを知った。
「だからそんなに服を持ってるの?」
今のところ毎日、違う服を身につけるアリアローサにそう尋ねると、彼女は少し胸を張ってその時着ていたコバルトブルーのワンピースを翻してみせた。
「服が好きなの。この色も綺麗でしょ」
この村ではとんと見かけたことないデザインのスカートに、ロアは「俺は服のことはよくわからないけど」と前置きをした。
「君にとても似合ってると思うよ」
その言葉に、アリアローサはまた、嬉しそうに笑うのだった。
そうしてロアの予測通り、片付けは三日ほどで終わった。
しかしアリアローサは「まだこの村にいたい」と留まることにしたらしかった。アグリルの家をどうするか決めあぐねているようでもあったし、まだ思い出に浸っていたいのかもしれなかった。
そうこうしているうちにも、雪はだんだんとひどくなった。本格的な冬がとうとう始まったのだ。
降り続ける雪を見上げて、アリアローサは言った。
春が来るまでには、決めなくちゃね、と。
◇
「そう、えらく綺麗な子でね」
「礼儀もなっててさ、さすが街育ちは違うね」
アリアローサが滞在してひと月が経った頃。
村を歩いていると、方々から、そんな声が聞こえるようになっていた。
アグリルの孫娘、アリアローサの華やかさに、村の人々は夢中になっていた。アリアローサはその容姿もさることながら、性格も朗らかで人当たりも良い。
ロアが知らぬ間に、アリアローサは色々な村人と交流を深めるようになっていた。
日用品店の主、材木屋の長男、ミルク配りの少年まで、彼女の噂をしていた。
そうしてそれは、村の子供たちも例外ではなかった。
学校での休み時間、職員室を訪ねてきたヘルザが、うっとりして言った。
「アリアローサさん、本当にとっても綺麗な人だった。お洋服もオシャレで良い匂いがして。先生隣に住んでるんでしょ? お話したりするの?」
「……まあ少しは」
「! いいなあ」
こんな子供まで魅了されてしまうのか。
内心驚きながら、ロアは指導書のページをめくった。仕事をするロアの隣に立ったまま、ヘルザは構わず、話しを続ける。
「あのね、お兄ちゃんもアリアローサさんに会ったんだって。で、今度一緒に飲みに行く約束したんだって! いいな、あたしも早く大人になって飲みに行ってみたいな」
ロアの指導書を読む視線が止まる。
ヘルザの兄は、イレイザだ。
ということは。と、当たり前の図式を思い浮かべて、ロアはヘルザを見上げた。
「……アリアローサとイレイザが? 飲みに行くって、キリールの店に?」
「そうだよ。当たり前じゃん。おじさん達が集まるみたいな酒場なんて、アリアローサさんを連れて行くわけないでしょ」
「……それは、そうかもしれないけど」
アリアローサが、キリールの店に。
ロアは胸を掠めた不安に、眉を寄せた。
キリールには、親しい女性が多いこと、少し強引な気があること、忠告しておいた方がいいだろうか。しかし、さすがにそれは差し出がましすぎるだろうか。年下と言っても、アリアローサは成人している立派な大人の女性だ。ここ数日は夕食を共にする回数も減ってきていたし、そんなことにまで口を出す権利は、自分にはないように思えた。なぜなら、彼女と自分はただの隣人に過ぎないからだ。
「あ、もしかして、先生もアリアローサさんのこと好きなの?」
ヘルザの面白がるような声に、ロアは訝しむ。
「…………も?」
「うちのお兄ちゃん。本気みたいだよ」
イレイザが……。
「そうなんだ」
ロアは言って、指導書に視線を戻した。
アリアローサは、とても綺麗で、可愛い人だ。だから、イレイザが恋に落ちてしまうのも、仕方がないことだと思えた。
そう。彼女に惹かれているのは、なにも自分だけではなかったのだ。村人の誰もが、それこそこんな子供のヘルザだって、アリアローサを綺麗だと言って憧れている。
ロアは、自分がアリアローサに惹かれてしまう原因を、彼女がアグリルの孫娘で隣人だから、だと思っていた。初めに会った時に、泣き顔を晒され、弱いところを見てしまい、親近感を持ってしまったからだと。
でも、そうではなかったのだろう。
アリアローサは誰の目にも美しく魅力的に映る。そうしてアリアローサが打ち解けているのは、今や自分だけではなくなっていた。アリアローサの手伝いを買って出る村人が、昨日も彼女の家を訪れていた。ロアは自分の手助けはもうほとんど必要ないこと知って、少しだけ残念に思った。
勘違いしていたのだ。自分は彼女の特別なのだと。アリアローサと懇意になったのは、ロアがアグリルの隣人だったからであって、もしそうでなければ、ロアはアリアローサと話をする機会さえ持たなかっただろう。きっと遠くから「綺麗な子だな」と見惚れて、終わっていた。
「もう先生ってば、そんな深刻な顔しないでよ。ちゃんとわかってるって。先生が好きなのはリタさんなんでしょ?」
ヘルザの見当違いの心配りに、ロアは思わず笑ってしまう。
「だから、違うって」
「あのね、いつまでもそんなんじゃリタさんに愛想尽かされちゃうよ」
「どうかな」
言ったところで、予鈴が鳴った。ヘルザを教室に追い立てたロアも、授業の準備をする。
今日は特に冷えるから、鶏肉のシチューにしよう。そう思いながら、席をたった。久しぶりにアリアローサを誘おうか、迷っていた。
「──まぁ! でも、こんなにいいの……? 助かるけど」
「いやそんな、大したものじゃないから。よかったら食べてよ」
「……ありがとう」
家に近づいた頃、道の少し先から、そんなやりとりが聞こえてきた。ロアはゆっくりと声のした方へ顔を向ける。玄関の軒下でアリアローサとイレイザが向き合っていた。アリアローサは、ジャガイモやニンジンの入った袋を抱えている。どうやら、イレイザが彼女にプレゼントしたらしい。
イレイザはらしくなく、照れたように微笑んでいる。
「ごめん。全然洒落たものじゃないけど」
「そんなことないわ。この前くれた干し肉もすごく美味しかったもの」
アリアローサが、にこにこと応対している。ロアは視線を逸らして、自宅を目指した。と、ロアの帰宅に気づいたアリアローサが、いつもの明るい声をかけてくる。
「ロアさん、お帰りなさい」
気づかない、なんて言い訳の出来ない距離で、だからロアはゆっくりと顔を向けた。
「ただいま」
と、こちらをむいたイレイザと目が合ってしまう。彼は、挑戦的な眼差しをしていた。ただの隣人に過ぎないロアを相手に──。イレイザは、ロアに聞かせるみたいに大きな声で言った。
「なあ、アリアローサ。こないだの約束、今夜はどう?」
約束。
キリールの店に行くのだろうか。
ロアは家の扉を開きかけたまま、固まった。アリアローサはなんと返事をするのだろう。やはり、お節介だと疎まれても忠告をしようかと思ったその時、アリアローサが「ごめんなさい」と困ったような声を上げた。
「今夜はエニエルおばさまと約束があるの。編み物を教えていただくのよ」
エニエルおばさま、は、ロアの母親だった。ロアはほっとして肩の力を抜く。イレイザが不満そうに息を吐いた。
「編み物なんて……それ、今夜じゃないとダメなの?」
「先にしてた約束だもの。飲みはまた今度にしましょう? それにほら、今夜は雪もひどくなりそうだしイレイザさんも早めに帰った方がいいわ」
ね、とアリアローサに促されて、イレイザは渋々頷く。ロアはそれ以上堪えきれなくなって、もどかしげにアリアローサの名を呼んだ。アリアローサがこちらを向く。出会った最初の頃より金色の髪は伸びていた。
「今日はシチューにしようと思うんだけど、どうせうちに来るなら一緒に食べないか?」
と、アリアローサがいつかのように顔を綻ばせた。
「いいの?」
ああ、この笑顔が見たかったんだと、ロアは納得した。
「もちろん」
ロアは温かく切ないような気もする心を自覚して、微笑んでみせた。