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彼女はまるで、精巧に造られた人形のようだった。夜の海色をした大きな瞳に、月光のような淡い金髪。すっと通った小さな鼻の下、赤い唇は──震えていた。
「お婆ちゃん……お婆ちゃん、どうして」
娘は吸い寄せられるように教会の奥、アグリルの下へ寄った。肩まで伸びた金色の髪に、粉雪が露みたいに光っていた。ロアは娘から目を離すことが出来ず、ただその後ろ姿を見つめる。
「おば……あちゃん」
棺に縋り嗚咽を漏らし始めた娘に、一同は当惑した。あのこは誰だ、どこの娘だ、とひそめき合う声がロアの耳にも届く。娘の真っ白なコートが、黒い服ばかりの教会の中、ひどく目立っていた。
と、ロア同様意気消沈していた母が、娘を見て、力なく唇を動かす。
「アリアローサ……」
ロアは隣の母を見下ろし、眉を寄せた。
「母さん、知り合いなの?」
母は寂しげに笑った。
「知り合いも何も。アグリルさんのお孫さんだよ。歳も離れてるし、小さい頃に引っ越してしまったから、あんたは覚えてないだろうけど」
「……孫? あの子が?」
アグリルさんの血縁?
驚きを隠せないまま、ロアは娘──アリアローサにもう一度目を向けた。
ここからでは後ろ姿しかわからないが、先ほど一瞬見たアリアローサとアグリルとでは、似ても似つかなかった。ロアの知っているアグリルは、初めから、シワだらけの魔女のような老婆だった。
「あんた、失礼なこと考えてるだろ」
母が「これだから男は」と呆れるように首を振って、椅子に立てかけていた杖を手にした。ロアは、母を介助しながら共に立ち上がる。
「いや、だって」
言い訳を口にしながら、母の冷えた手を支える。
生前、アグリルはしょっちゅう「私の娘時代を見せてやりたいね。毎日のように男が貢いできたんだから」なんて軽口を叩いていた。ロアは冗談だと思って笑い、受け流していた。けれどそれは、本当だったのかもしれない。
母に付き添い、棺を覗き込むアリアローサの背後に立つ。
母が、揺れる彼女の肩にそっと声をかけた。
「アリアローサ、久しぶりだね」
と、アリアローサがぴくりと反応して、ゆっくりとこちらを振り向いた。ロアはどうしてか、緊張した。アリアローサの長いまつ毛に縁取られた瞳は、涙に濡れていた。
「……おばさま」
アリアローサは母を見ると、せっかくの愛らしい顔をくしゃりと歪めた。そうして再び、大粒の涙をこぼし始める。
「お婆ちゃんが、お婆ちゃんが……」
アリアローサは言いながら、両目を瞑る。涙が溢れて、彼女の白い頬を伝った。母がカツン、と杖をついて、アリアローサに寄り添う。
「大丈夫。最後に会えて、アグリルさんも嬉しく思ってるだろうさ」
杖をついていない方の手で、母がアリアローサの髪を撫でる。アリアローサは身を委ねるように、ゆっくりと瞳を伏せた。ロアはやはり、そんなアリアローサから、目を離すことが出来ないでいた。
◇
「少しは落ち着いたかい?」
「はい。すみませんでした。先ほどは、取り乱してしまって……」
泣き腫らした顔のまま、アリアローサは気恥ずかしそうに俯いた。
夕刻。埋葬も終わり、ロアたちは自宅に戻ってきていた。さすがに今夜は一人にはしておけないからと、母がアリアローサを自宅に招いたのだ。
「仕方ないよ、いきなりだったものね」
「……はい」
労るような母の言葉が胸に染みたのか、アリアローサの瞳にまた、涙が浮かんだ。
ロアはコートを脱ぎながら、そんな彼女をちらと盗み見る。
本当に綺麗な子だな、と半ば、見惚れていた。
大学時代、都にいた頃だってこんなに綺麗な娘を見かけたことはなかったというに。それとも、自分の好みと一致しているから余計にそんな風に見えてしまうのだろうか。
──俯き加減のアリアローサは、昔美術館で見た絵画のように美しかった。母の話によれば、彼女は今年で二十歳になるらしい。華奢な身体を包むのは、リボンついた小花柄のブラウスと深赤色のロングスカート。左右の耳元から後頭部へ編み込んだ髪を留めているのは、薄水色のレースで、彼女の淡い金色の髪に、とてもよく似合っていた。
可愛い人だと、素直に思った。
ロアは慣れぬ思考に頭をぐらつかせながら、なんとか平静を装い、黒いジャケットも居間のソファに脱ぎ捨てる。
「母さん、アリアローサさんも、コーヒーでいい?」
ロアは内心、声がひっくり返らなかったことに、安堵した。アリアローサは弾かれたように顔を上げて「はい」と頷いた。
「あ、あの、私、手伝います」
「いいよ。疲れただろうから、座ってて」
ロアは腕まくりをしながら、台所に立って湯を沸かす。
背に母の声が届いた。
「愛想のない子でごめんね。アリアローサがあんまり綺麗だから、驚いてるんだよ」
「そんな」
アリアローサの戸惑うような声がこそばゆい。ロアは振り返って、母を睨んだ。
「母さん」
「本当のことだろ。教会にいた時からアリアローサばかり見ちゃって」
「……」
ロアは一瞬口を開きかけて、すぐに視線を逸らした。母に、口論で勝てる気がしなかったからだ。そもそも彼女に見惚れていたのは事実であったし、大袈裟に否定して、ただでさえ気落ちしているアリアローサを困惑させたくはなかった。
ロアは口を閉ざさすと、大人しくコーヒーを淹れるのに集中することにした。
と、母が、ゆっくりとアリアローサに声をかける。
「今日は、アグリルさんに会いに来たんだよね」
「……はい。もう何年も会ってなかったから、会っても、お婆ちゃん、私だってわからなかったかもしれないけど」
母が静かに否定する。
「そんなことあるわけないだろ。アグリルさん、ずっとアリアローサを気にかけていたんだから。毎年、あんたの誕生日だって覚えていたし、元気にしてるといいねって話していたよ──そりゃ綺麗になってるだろうねって」
「……本当?」
アリアローサの声が揺れる。
「だったらもっとたくさん、会いに来たらよかった……お母さんたちのことなんて、気にしないで」
詰まるような声で言って、アリアローサはまた、泣き始めたようだった。
母は優しく言った。
「……あんたの母親とアグリルさんは昔から折り合いが悪かったからね。喧嘩も酷かったし。だからむしろ私は、あの二人は離れて暮らして正解だったと思うよ。
あんたはアグリルさんが大好きだったから寂しかったろうけど……こうして大人になって、一人でも会いに来てくれた……それだけで、アグリルさんは喜んでいると思うよ」
「おばさま……」
背後で、アリアローサが鼻を啜る音がした。ここは母に任せて、自分は自室に逃げた方がいいだろう。ロアは急いでコーヒーを淹れ終えた。
「コーヒー入ったよ」
ロアは言って、アリアローサと母の前に湯気の立つカップを並べる。そうして、やや早口に言った。
「アリアローサさん、泊まってくだろ? 客間を整えてくるから」
そうして踵を返そうとしたところで、アリアローサに呼び止められる。
「ロアさん」
「はい」
向き直ったロアに、アリアローサはわざわざ立ち上がって言った。
「祖母を看取ってくださってありがとうございました。生活も、助けてくださっていたそうで……本当になんてお礼を言ったらいいか」
「礼なんて。それに俺は、看取ったわけじゃなくて、偶然……」
その時のことを思い出して、ロアは不意に言葉を詰まらせた。
そうだ。
もうアグリルはいないのだと、今更のように思い出していた。冷たい身体に触れ、重たい棺を担ぎ、葬儀も終わったというのに、実感だけが置き去りにしてしまったみたいに、ついてこない。
思い返せば父の時もそうだった。
あまりに突然のことで、父がいなくなった事実を事実と認識できず、日常を繰り返す中で、ふとした瞬間に、段々と「ああ、そうだ、もういないのだった」と理解していった記憶がある。
今回も、そうなのだろう。
ロアは締め付けられるような切なさを堪えて、言った。
「本当に、気にしないでください。アグリルさんには子供の頃から遊んでもらってたし、俺にとっても、婆ちゃんみたいな人だったから」
「……そうだったんですね」
アリアローサが、ほんの少しだけ表情を緩める。初めてみる彼女の笑顔が、それだった。
「じゃあ私たち、親戚みたいなものなんですね」
「……ですね」
ロアはつられるように笑って、アリアローサを見下ろした。彼女にも早く元気になって欲しいと、そう願っていた。




