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 ◇ ◇ ◇


 日が暮れて、夜になっていた。

 雪は止んでいる。


 なにが起こっているのだろう。呆然とするアリアローサの目の前を、村人たちが駆けていく。怒号が飛び交っていた。「早く」だとか「医師を」だとか「エニエルさんを呼んで来い」だとか。このひと月あまりで顔見知りになった人々が、口々に叫んでいる。

 つい先刻、アリアローサは戻ってきた男たちに「どけ」と叫ばれ、廊下の壁際に避けたまま、動けないでいた。ずぶ濡れのキリールたちが運んできたのはぴくりとも動かないロアで、その真っ白な肌が、教会で見た祖母を思い起こさせたからだ。

 嘘よ。

 アリアローサはロアが運び込まれた医務室に入ることが出来なくて、廊下の端に佇んだままだ。無事に見つかったというヘルザも同じく医務室で手当を受けているらしく、彼女の両親と兄のイレイザが安堵に涙をこぼしていた。

 しかし、その隣のベッドでロアは今、生死の境を彷徨っているのだという。


 アリアローサは、これが現実なのかそれとも夢なのかわからなくて、呆然とたちすくんでいた。おかしい。ロアはつい数時間前までここにいたのに。会話をしていたのに。生きていたのに。どうして今は呼びかけに答えてくれないのだろう。


「足を滑らせんだ」


 キリールがそう教えてくれても、反応することが出来ない。アリアローサはただぼんやりと、薄暗い廊下の先を見つめていた。村にある唯一の診療所は、ここから少し離れた場所にある。だからロアとヘルザは学校の医務室で治療を受けていた。

 木造建築の古びた建物は、通った覚えもないのにどこか懐かしい気持ちがした。彼が、ずっとここで働いていたからだろうか。会いたい、と思った。


「ヘルザは大丈夫だ。治療したら問題ないって」


 泣き腫らしたイレイザが言う。


「先生のおかげだ。先生がヘルザを見つけてくれたんだ」

 

 アリアローサは、「よかった」と呟こうとして、喉が動かないことに気づく。そばにいたキリールが、困ったように眉尻を下げた。


「アリアローサ、そんなに泣くなよ……先生についててやれって」


 言われて、せわしなく村人が出入りする医務室に目を向ける。

 ロアの教え子たちや、その親、同僚らしい教員、友人にと、ロアを見舞う者たちは後をたたない。リタもずっと付き添っているようで、彼が運ばれてきたのと同時に医務室に入ってから、出てきていなかった。今もそばにいるのだろう。


 皆、ロアの命を繋ぎ止めようと必死になっていた。

 先生、先生と、幼い子供たちのすすり泣きが聞こえる。それを宥める親たちの声。

 彼は、この村の人々にとても愛されているのだ。

 アリアローサが、彼を愛した以上に──。


 アリアローサはキリールを見上げて、首を左右に振る。

 やっと小さく声をこぼした。


「後で、いくわ」


 医療の知識もないアリアローサが狭い医務室に入っても邪魔になるだけだろう。その上、自分とロアの接点は、村人の誰よりも少ない。このひと月余り世話になって、数日だけ恋人にしてもらえた──あげく傷つけた──そんな、最低な関係だった。


「今はここで待ってる」


 彼の回復を。アリアローサは言って、再び俯いた。

 と、そこへ慣れ親しんだエニエルの声が届く。


「アリアローサ」


 暗い廊下の奥で、ロアの友人たちに支えられたエニエルが立っていた。アリアローサはエニエルに駆け寄って、身体を支えるのを手伝った。


「おばさま。ロアさんはあっちに」

「……あの子は無事なの?」


 か細い声に、アリアローサの胸が締め付けられる。


「今、治療にあたっています。とにかくエニエルさんも中へ」


 答えられないアリアローサの代わりに、キリールがエニエルを誘導した。アリアローサはその背を見送り、両手を握りしめる。

 おばあちゃん。と、呟く。どうかどうか、あの人を助けてください。もう二度と、愛されたいなんて望まないから。私が身代わりになっても構わないから、どうか。お願いだから、ロアさんを連れて行かないで。アリアローサは、そう、ひたすらに祈った。


 医務室から、エニエルが息子を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。アリアローサは唇を噛み締める。と、隣村から呼び寄せていた医師がやっと到着して、アリアローサのそばを横切った。それから一晩中、アリアローサはそこで待っていた。

 どうか奇跡が起こりますようにと。



 ◇ ◇ ◇


 ──自信がないって?


 夢の中で、なんだいそりゃ、とアグリルが笑っていた。

 初夏。

 眩しいほどの熱気にさらされた広い庭で、アグリルは草木に水をやっていた。水色のワンピースが涼しげで、そう言えばアグリルも随分な衣装持ちだったことを思い出した。


 そんなところは、彼女に似ていたのかもしれない。

 

 ──子供たちはあんたが好きそうだけどね。それじゃダメなのかい?


 ロアは暑さにぐったりしながら、壁に背を預けて、木陰で涼んでいた。

 遠くから、子供たちの笑い声が聞こえる。ロアはわずかに視線を落とした。


 ──俺は教師になりたかったわけじゃないのに。俺が教えていいのかなって、思うんだ


 ぽつりと弱音をこぼすと、アグリルは「面倒な子だね」と肩をすくめた。


 ──いいに決まってるじゃないか、あんたは大学をでて、都で暮らして、いろんなことを知ったんだろ? それを教えてやればいいんだよ。皆聞きたがるさ。


 そうかな、とロアは言って、アグリルを見つめた。アグリルが笑う。


 ──それでも自信がないってんなら、やめちまえいいんだよ


 アグリルの軽い口調に、ロアはくすりと笑う。そうだ、やめることはいつだって出来る。村には他に、男手を必要とする仕事がいくらでもある。そもそもロアが教職についたのは、村長が「せっかく大学出なんだから頭を使う仕事じゃなけりゃな」と後押ししてくれたからだった。それだけの理由だった──だから、自信が持てない。


 ──でもね


 と、アグリルは両目を細めて、ロアを覗き込んだ。深い海色の瞳は、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。


 ──子供たちは本当にあんたを好きなんだよ、それだけはわかってやんな


 ロアは「そうだね」と頷く。そう。子供たちが慕ってくれるから、それが嬉しくて、ロアは教師をやめられないでいた。大学で得た知識が無駄なろうと、都のでの暮らしが役に立たずとも、懐いてくれる子供たちが可愛くて、やめられなかった。

 アグリルが、満足そうに微笑む。

 爽やかな風が吹き抜けた。


 ──じゃ、そろそろ戻りな


 みんな、泣いてるから。

 あの子も。


 なんのことだろうと首を傾げ、それからロアは、意識を取り戻した。




「先生!!」


 最初に目に入ってきたのは天井──次にヘルザの泣き顔だった。大きな瞳に、みるみるうちに新しい涙が溜まっていく。ロアははっきりしない意識のまま、唇を動かした。


「へ……ルザ……」

「よかった! 気がついたんだね!! エニエルおばちゃん、先生が!!」


 ヘルザの大声で駆けつけた人々によって、医務室はすぐに満員になった。隣村の村医、母に友人、子供たち、村長──やや遅れて、リタたちも入ってきた。皆自分を見て、涙を流している。まるで葬式みたいだな、とロアは複雑な気分になった。


「本当に心配したんだよ、ロア」


 母が怒ったように泣き荒ぶ。ロアはベッドに横たわったまま「ごめん」と繰り返した。喉がひりつき、上手く話せない。それでもどうにか状況を聞けば、ロアが海に落ちてから三日も経っているそうだった。一度は呼吸も止まり、もう駄目だと思った、と泣いたのはリタだ。横からすっかり元気を取り戻しているヘルザが「リタさん、徹夜で先生の看病してたんだよ」と、笑う。ロアは、そんなリタにも何度も「ごめん」と謝った。

 眩しい、と思って窓の外を見やれば、明るい日差しが差し込んでいた。いつか見たような、青空が広がっていた。

 


 それから、村に留まってくれていた医師がロアを診察し、その安定した鼓動にほっとしたように微笑んだ。

 

「もう大丈夫でしょう。外傷が治るまで安静は必要ですが、命に問題はありません」


 ロアはシャツの前ボタンを留めながら「ありがとうございます」と頭を下げた。キリールたちに救助されたロアは、右の腕と頬に擦れたような傷を負っていた。波に飲まれた際、岩かなにかにぶつかったのでしょう、と医師が言った。ズキズキとした痛みは残っていたけれど、骨に異常はなさそうで、ロアは腕に巻かれた包帯を大袈裟だな、と眺めた。

 と、医療器具を鞄にしまいながら、医師がふとロアを見つめた。


「でも、あなたは本当に運がいい。普通ならまず助かりませんでしたよ」


 若者たちのおかげですね、とロアより十歳くらい年上に見えるその医師は微笑んだ。草食動物を思わせるような細身の穏やかな医師は、鞄の口を閉じて、立ち上がる。


「皆であなたを助けに向かったそうですよ。冬の海に飛び込むなんて、そう出来ることではありません。命の恩人がたくさん出来てしまいましたね」

「はい……」


 礼をしないと、とロアは微笑む。


「では、私はこれで。また様子を見にきます、お大事に」

「はい」


 医務室から立ち去る医師を見送ると、同じ引き扉から、代わりばんこのようにリタが入ってきた。


「診察、終わった?」

「うん。異常はないって」

「そう、よかった」


 リタがベッド脇の椅子に腰掛けて柔らかく笑う。その顔色は決して良くはなかった。ずっとロアの看病をしていたせいだろう。


「リタも家に帰っていいよ。ずっとついててくれたんだろ?」

「三日位寝なくても平気よ。あなたと違って若いんだから」


 澄まし顔でいうリタに、ロアはわずかに息をついた。


「母さんは?」

「家に帰ったわ。夜また来るって」

「……皆に迷惑をかけちゃったな」

「お互いさまでしょう。でも、本当に無事でよかった」


 そう笑ったリタに、ロアも微笑み返す。と、騒がしい声とともに、医務室の扉が開いた。


「先生、やっと起きた?」

「心配したんだよ!」


 手に果物や本やらを抱えた教え子たちが、わらわらとベッドの周りを囲む。ロアは「ごめんな」と笑うと、もう大丈夫だからと繰り返し、彼らを抱きしめた。

 その次に訪れたのは、友人たちだった。早く元気になってまた酒を飲みに行こうと首に腕を回される。


 翌日には、意外な見舞客が訪れた。

 キリールだ。

 彼はリタに席を外すように言うと、看護人用の椅子に座り、ロアを見つめた。

 その顔や腕に残る傷に、顔をしかめる。


「本当にもう、大丈夫なのかよ」

「うん、リタたちが心配性なんだ」


 言って、ロアはベッドの上で半身を起こしたまま、深く頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとう」


 礼を言われ慣れていないのか、少し居心地が悪そうに、キリールは視線を逸らす。


「……あんな死に方されちゃ、寝覚めが悪いからよ」


 病室として貸してもらっている医務室のベッドの脇には、たくさんの見舞品が飾られていた。キリールはそれらを見やりながら、ぽつりぽつりと口を開く。


「あと、色々悪かった。今まで。先生先生って、馬鹿にして」

「……」


 そんなふうに謝られるだなんて思いもしていなくて、ロアは目を瞬かせる。


「なんだよ、急に」

「……反省したんだよ、これでも。ずっとあんたは、惰性で教師をやってると思ってたから。でも、ヘルザを探すあんたを見て、そうじゃなかったんだなってわかった」


 ロアは唸る。

 キリールの言うとおり、惰性──だったのかもしれない。最初は。

 渇望したわけでもない仕事を、できそうなことを、ただやっていただけ。


 だからロアは苦く笑った。


「……それは謝ることはないよ。多分、本当にそうだったから」

「だった?」

「うん。今は、この仕事が好きなんだ、とっても」


 口にして、すっきりした。

 なにになりたいかもわからずついていた仕事が、いつの間にかこんなにも愛着の湧くものになっていたのだ。ロアはその幸運を噛み締める。


 キリールは「ふうん」と訝しそうに首を傾ぐ。


「そりゃよかったな」


 じゃ、俺はそろそろ帰るわ、と言って、キリールが立ち上がる。ロアは「ああ」と見送った。


 それから数日。

 ロアのそばに見舞い客が絶えることはなかった。

 毎日誰かしらが来て、ロアを気遣っていく。

 けれど、その客の中に、アリアローサの姿はなかった。

 病室の扉が開くたび、期待してしまう自分に呆れ、ため息をつく。

 その繰り返し。

 母は、アリアローサから事情を聞いてしまったのだろう。

 なにも言わなかった。



 そうして、明日には家に戻ることが決まった前日の夜。

 ロアは、慣れないベッドの上で寝返りを打っていた。どうしても寝付けなくて、仕方なくカーテンの隙間から出ていた夜空を仰ぐ。群青の空に、まるい月がぽっかりと浮かんでいた。


 と。

 その時、小さな靴音が響いて、部屋の前で止まる。看護はもう不要だと言われて、今晩は、ロアひとりきりのはずだった。


 吸い寄せられるように見つめていた木製の扉が、コンコン、と控えめに叩かれる。


「……起きてるよ」


 身を起こし、そっと声をかける。

 引き戸が開かれる。

 顔を覗かせたのは、やはり、アリアローサだった。




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