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 ◇ ◇ ◇


 ひとり。アグリルの家に戻ったアリアローサは、広い家の暗い居間に座り込んだ。寒さは少しも感じなかった。明かりを灯す気力もなく、ただただ空っぽの暖炉を見つめる。数日前、ここで彼と寄り添ったあの夜がまぼろしのようだった。

 視界が涙で滲む。

 押し寄せるのはひたすらの後悔だった。

 

 ──ロアさんを傷つけてしまった


 あんなにやさしい人を。

 先程の苦しげな彼の瞳を思い出して、アリアローサは立てた両膝の上に顔を伏せた。ごめんなさい、と反射的に謝罪を繰り返す。しかし、そんなつもりはなかったと言っても、いくら謝っても、打ち明けるつもりだったとしても、真実を隠していたことに、変わりはない────このまま嫌われても、仕方のない話だった。


「……っ」


 アリアローサは唇を噛み締める。涙を堪えて、顔を上げた。

 泣いている場合じゃない。まずは、出来ることからやらなくちゃ。

 悪いのは全て自分で、悲しむ権利すらないことは重々承知していた。ロアが別れを望むなら、甘んじて受け入れるべきだと言うことも。


 アリアローサは鼻を啜って、嫌な幻想を振りはらった。

 初めて自分から好きになった人、惹かれた人、もう一度、彼の心を取り戻したい。幻滅されたのなら、誠意をもって謝りたい。

 そうして、もう一度ロアの前に立つために、アリアローサは〝彼〟と話をつけなければならなかった。

 

 アリアローサは窓辺に寄って、カーテンの隙間から荒れ狂う吹雪を見つめる。明日には止んでいるといいのだけれど。


 と、眺めやった隣家の戸口が開いた。

 中から長身の男と小柄な娘が出てくる。

 ロアとリタだ。

 前みたいに、リタを家まで送り届けるのだろう。

 防寒具に身を包んだふたりの影が、並んで歩き出す。

 ロアは、贈ったマフラーを巻いてくれてはいなかった。

 根がやさしい人だから、一応は受け取ってくれたけれど、使うつもりは微塵もないのかもしれない。

 なんだか覗きをしているみたいで居た堪れなくなって、アリアローサはカーテンを引いた。

 部屋が再び、暗闇に満ちる。


 アリアローサはきつく両目を瞑り、息を吐いた。

〝彼〟──ディオは、まともに話を聞いてくれるだろうか。

 夕刻、話した時の彼の様子を思い出して、陰鬱になる。

 突然村を訪れたディオは、街にいた時と同様、少しも冷静になってはくれなかった。一方的に言葉を並べ立て、アリアローサを強引に街へ連れ帰ろうとした。周囲の目もあったことで今日は折れてくれたけれど、あの様子では簡単に引き下がってくれそうにはない。

 アリアローサは木造りの椅子に座り込んで、濡れたコートを着込んだまま、高い天井を仰ぎ見る。


 出会った頃は、ディオがあんな人だとは思いもしなかった。



 ディオは一つ年上の貴族の青年だった。

 物腰は上品で、柔らかで。いつも背後には従者がついていて、そう、言葉遣いの一つをとっても、アリアローサとは全てが違っていた。住む世界の違う人間だった。


 そんな彼とアリアローサが知り合ったのは、本当に偶然だった。

 アリアローサの勤める洋品店は、本来ならディオのような貴族の子息が足を踏み入れる場所ではない。庶民の娘がちょっとした晴れ着を揃えるのや、男性が意中の女性に贈る飾りリボンやレースを扱う、小さな店だった。


 そこへある日、慌てたように入ってきたのがディオだ。

 雨の日で、『靴と服を汚してしまったので、今すぐなんとかして欲しい』と、お付きの者と共にアリアローサの店にやってきたのだ。


 ──ここは女物しか取り扱っていないから、もう一つ向こうの通りの店に行ったらいいわ


 そう案内すると『親切にありがとう』とディオは何度もアリアローサに感謝した。そうして後日、彼は礼の品をもって、再び店に訪れた。今度はひとりだった。


 それから彼は何度もアリアローサの店に通ってくれて、他愛のない話をするようになって、だんだんとふたりで出かけるようになって、そうして半年前、結婚を申し込まれた──嬉しかった。ディオはひたすらに好意を示してくれていたし、珍しい洋服の話をするのにも快く付き合ってくれていたからだ。


 それは、目も眩むような烈しい想いではなかったけれど、アリアローサは確かに彼が好きだった。

 同時に、自分が彼の親族から良く思われていないこともわかっていた。

 だからふたりで、時間をかけて認めてもらえるように頑張っていこうと、誓い合っていた。


 だが──。

 アリアローサがディオとの交際に違和感を感じ始めたのは、それからしばらく経ってのことだった。


 仕事を辞めて欲しいと言われたこともそうだし、急には辞められないと言っても理解してもらえなかったこともそうだ。逐一どこに行ったのか、誰と会っていたのか、彼はアリアローサに尋ねてきた。君が心配だと言われるたび、息苦しくなってきたのもその頃だ。異性の友人や、過去の恋人と少し話しをしていただけで、ディオは機嫌を悪くするようになった。アリアローサが嫌だと言ったタバコの本数が増えて、貴族らしい、高圧的な態度を取るようになった。


 婚約中でこうなのだ。

 結婚生活が始まったら、自分はどうなってしまうのだろう。

 四六時中監視されて、付き合いも制限されて、彼の言いなりになるのだろうか。

 籠の鳥。

 そんな言葉が脳裏をよぎって、ぞっとした。


 豪奢すぎる婚礼衣装が仕上がる前にと、アリアローサはディオに婚約を破棄したいと伝えた。


 聞き入れては、もらえなかった。


 ──子爵家に入ることが出来るのに、何が不満なんだ?


 街の有名な喫茶店で、彼に面と向かってそう言われた瞬間、わずかに残っていたアリアローサの恋は、完全に冷めた。心は、こんなにも簡単に形を変えるものなのかと、恐ろしいほどだった。

 アリアローサはそれまでに貰った高価すぎる贈り物も返し、慰謝料も払うと話した。

 庶民の女に結婚を断られた──屈辱に顔を赤くしたディオは、ならばと途方もない額を請求してきた。払えないのなら妻になれと、ディオは言った。アリアローサは全て払うと言い切って、店を飛び出した。


 アリアローサはこれまでにも、何人かの男性と付き合ってきた。

 けれど、こんなにひどい別れ方をしたのははじめてだった。


 ──お母さん、助けて


 その日、泣きじゃくって帰宅したアリアローサに、しかし母は冷たく言った。

 子爵に頭を下げてきなさいと。もう子供ではないのだからと。

 女手ひとつでアリアローサを育てた母は、奔放な、美しいひとだった。母に言いよる男は絶えず、けれど最初の結婚で失敗をした母は、誰とも一緒にはならないままだった。

 いつも朝から晩まで働き詰めだった母は、その苦労を身をもって知っているからこそ、経済力のある男性にアリアローサを嫁がせたかったのだろう。


 今思えば、それは、不器用なりの母の愛だったのかもしれない。


 けれどその時のアリアローサは、突き放すような母の言葉に、絶望した。


 ──お母さんは、私を見捨てるんだわ


 だからその日、アグリルから手紙が届いていたことが、まるで運命のように思えてしまった。


 ──元気ですか。

 ──こちらはもうすぐ冬が来ます。

 ──暖かくしてくださいね。


 そんな、いつもの内容を自室で読み耽りながら、アリアローサは、記憶の淵に残る祖母の姿を思い描いた。

 しわくちゃの厚い手。切りすぎた爪。日に焼けた浅黒い肌。クセのある真っ白な髪。草木の匂いのするエプロン。それから、自分とよく似た、深い海色の瞳──。


 ──アリアローサ


 思えば、もう何年も会っていない。

 祖母の筆圧は、弱くなっているように思えた。

 アリアローサはいてもたってもいられなくなって、立ち上がった。


 おばあちゃんに会いたい。

 話を聞いて欲しい。

 あの、静かな村で。


 アリアローサはすぐに荷物をまとめると、ディオから貰った贈り物と請求された慰謝料の半分を彼の屋敷に送った。残りも必ず払うと書き添えて。

 そうしてその足で、街を出た。

 


 けれど──アグリルは、アリアローサの到着する一日前に、息を引き取っていた。


 辿り着いた教会に人はまばらで、祖母の棺の前で、アリアローサはがくりと膝をついた。

 自分で解決なさい、と言われているようだった。



 しかし村には救いもあった。


 ロアだ。


 彼は雪のように静かに、穏やかに、アリアローサに寄り添ってくれた。彼と話すたび、傷や、ささくれや、胸の内のドロドロしたものが、ゆっくりと癒えていくのがわかった。

 ロアとエニエルと過ごす時間が好きで、ああ、私はここで生きるのが正解なのだ、とすとんと納得できた。


 彼への恋を自覚してからは、心を穏やかに、とはいかなくなってしまったけれど。


 多分、今までの恋は、恋ではなかったのだ。

 そう思えるくらい、ロアへの想いは違っていた。

 彼と話すたび、触れるたび、心臓が本当に痛くなって、苦しくなった。なのに、離れることが出来ない。ロアの黒い瞳が自分を見つめて、柔らかく細められるたび、恋に突き落とされた。

 口付けをしたくなって、でも、はしたない女だと思われたくなくて、彼がその気になってくれるのをもどかしい気持ちで待っていた。

 こんな気持ちははじめてで、アリアローサは心が暴走しないように必死だった。

 間違ってもディオのようにはなりたくない。

 押し付けるような愛は嫌だ。

 ロアみたいに、やさしく、包み込むような関係を築くのだ。

 今度は、間違えない。


 そう頑張ろうと思っていたのに。

 ロアに婚約のことを知られるのが怖くなって、話すことを戸惑ってしまった、その報いが、今だった。



 風が、窓をガタガタと打ち鳴らす。

 ロアは無事リタを送り終えただろうか。

 外を見る勇気がなくて、アリアローサはそのまま眠りについた。

 吹雪が続いていた。



 ◇ ◇ ◇


「また雪だねえ」


 母が言って、不安そうに外を見やった。


 昨夜から続く強風が吹き荒び、家中が軋みを上げている。


 ロアは落ち着かない午後を迎えながら、隣家にいるはずのアリアローサを思った。まさかこんな日に出かけてやしないだろうか、あの男に会いに行ってはいないだろうかと、気が気でならなかった。ひとめ様子を見るくらいなら、いいだろうか。そう思った瞬間、母が言った。

 

「ロア、ちょっとアリアローサを見てきてちょうだい。なんならうちに泊まってもらった方がいいんだし」

「……ん」


 ロアは読みかけの本を閉じて、立ち上がった。

 母にはまだ昨夜のことは話せていない。

 薄々は勘づいているのかもしれないが、母は、そういったことにいつも口を挟まなかった。無関心ではなく、見守ってくれているのだ。そうわかっているから、ロアも落ち着いて考えることができた。


「じゃあ、ちょっと行ってくる」


 コートを着込み、いつものマフラーを巻く。アリアローサからもらったほうは、まだ開けることさえ出来ないでいる。


「……」


 昨夜は、とてもひどいことを言ってしまった。嫉妬と劣等感でいっぱいになってしまっていたのだと思う。返す返すも、狭量な男だった。

 ちゃんと話を聞いてやるべきだったのに。

 ロアは重い足取りで雪原を歩む。


 見上げれば、山を覆うような鉛色の雲が、海まで広がっていた。


 嫌な天気だ。


 と、目指していた隣家の扉が開く。

 今日は黒いコートに身を包んだアリアローサが、驚いたようにロアを見つめた。


「……ロアさん」


 涼やかな細い声が、ロアの耳をくすぐる。

 今日のアリアローサは、金色の髪をまとめもせず、飾りのひとつもつけてはいなかった。 

 あの男に会いにいくのだろうか。

 今日はよした方がいい。

 そう言おうとして、口を開く──その時。


「先生っ!!」


 怒号に、ロアもアリアローサも、弾かれたように振り向いた。

 通りの向こうから、顔を真っ赤にしたイレイザが走ってくる。

 ロアは、そばで立ち止まり、荒い呼吸を繰り返すイレイザを怪訝に見返した。


「どうしたんだ、そんな、汗だくで」

「ヘルザを見なかったか?」

「ヘルザ?」


 ヘルザがどうかしたのだろうか。

 ロアが声色を変えて問い返せば、イレイザは震えながら顔を上げた。


「昨日からあいつ、帰ってきてないんだ────」


 昨日から?

 駆け寄ってきたアリアローサも言葉をなくす。


「そんな、どうして」


 ロアは降りしきる雪を見上げた。

  

 時に雪は、全てを奪い、隠してしまう。

 まるで最初からそんなものは存在しなかったかのように。


 ──先生


 可愛い教え子の、少し生意気な笑顔を思い起こし、ロアはイレイザの腕を掴んだ。


「早く、探そう」


 雪が降る。

 ロアは、波打つ心臓の音を聞いた。

 

 

 

  


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