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「ね、だから言ったでしょ?」
その夜、消沈するロアを訪ねてきたのはリタだった。
何処から事情を知ったのか、アリアローサの婚約者は今、村に唯一ある宿屋に泊まっていると、聞いてもいないことを教えてくれた。「中に入れて」と居間に入り込んだリタは、暖炉に手をかざしながら、次々と口を滑らせる。ロアは壁に寄りかかるように立ったまま、その話に耳を傾けていた。
「婚約者さん、すごくあの子のことが好きなのね。こんな村まで探しにきてくれるなんて。──ああ、さっき宿屋で彼から直接聞いたのよ、色々教えてくれたわ」
母は、すでに床についていた。
ロアはどう説明しようかと暗い床を見つめる。
なるべく、母のことも、アリアローサのことも傷つけたくはなかった。
「身分違いの恋だったみたい。彼、子爵様なんですって。それもご長男。でもあの子はいくら上品ぶってみても平民でしょ? だから随分反対されたそうよ。それでも諦められないって、彼から求婚したんですって、素敵ね」
その求婚をアリアローサは受け入れたのか。
ロアは「そうなんだ」と小さく呟く。
リタのおしゃべりが続く。
「喧嘩の原因は婚約者さんの嫉妬。ほらあの子とっても綺麗じゃない? 街でもよく男の人に声をかけられてて、それを彼が勘違いして口論になったそうよ」
「……それは、少し聞いてた」
暖炉の前にしゃがみこんだままのリタが、こちらを振り向く。
「ねえロア。ショックなのはわかるけど、元気出しなさいよ。傷が浅いうちでよかったじゃない」
労るようなリタの声は、やさしかった。
それでも、傷ついたロアの心は癒されない。
アリアローサと次に話す時、果たして自分は冷静でいられるだろうか。あの男同様、醜い嫉妬をむき出しにしてしまうのではないかと、恐ろしかった。
あれから、婚約者の男はふたりきりで話がしたいと言って、アリアローサを村の方へ連れ出した。どうしてついていかなかったのだろうと、今更ながらに後悔する。彼女は自分の恋人だと、断言すればよかったのに──そう。たとえたった数日の関係だったとしても。
ロアはため息を押し殺して、拳を握りしめた。
──アリアローサはあの男との痴話喧嘩で街を飛び出し、この村にやってきた。
そうして偶然自分を好きになってくれた。
春がくるまでの、束の間の恋人。
そんな言葉が、脳裏をよぎる。
火搔き棒を手にしたリタが、暖炉の中をかき回した。
「でもね、よく聞いたら、婚約者さんが嫉妬しちゃったのも無理のない話だったの。アリアローサさんは結構惚れっぽいところがあって、今までも色んな男とお付き合いしてたそうだから」
その話に、ロアは、数日前のアリアローサからの告白を思い出していた。キリールの店から連れ出した帰り道、アリアローサは言った。
──私、ロアさんともっと一緒にいたい
あまりに唐突で、でも嬉しくて、そうしてロアは彼女に夢中になった。
でもそれが、惚れっぽいという彼女の、一時的な感情だったとしたら? 思って、愕然とする。ロアはあまりにもアリアローサのことを知らなすぎた。共に過ごした時間はこのひと月あまり。全てを知っていると言うには、短すぎた。
「ロア……私はずっとそばにいるわ」
と、いつの間にかそばに寄っていたリタが、ロアの袖を引いた。濡れたような大きな瞳が、ロアを見つめる。ロアは顔を逸らした。
「悪い、リタ。ひとりにしてくれないか」
まずは落ち着いて、それからアリアローサと話そう。
そう思った瞬間だった。
コンコン、と遠慮がちに戸口が叩かれる。
ロアは、それが誰かを悟って息を呑んだ。
「……ロアさん」
扉の向こうから聞こえた声は、聞き落としてしまいそうなほどだった。
ロアは意を決して、扉に向かい、開く。
白いコートに身を包んだアリアローサが、立っていた。
アグリルが亡くなった時と同じように、泣き腫らしている。
片手で扉を押さえたまま、ロアは言った。
「こんな時間に、危ないだろ」
「ごめんなさい」
アリアローサは即座に謝ってきた。口早に言う。
「昼間のこと怒ってもしょうがないと思う。でも信じて、私が好きなのはロアさんだけなの」
今は、だろ。
そんな意地悪な声が何処からか聞こえて、口にしなかったことに安堵した。
「彼とは、ちゃんと話したの?」
ロアは荒ぶりそうになる感情を抑えて、聞いた。アリアローサが弾かれたように頷く。
「ええ。ちゃんとロアさんとお付き合いしてることも、婚約を取りやめて欲しいってことも言ったわ」
「そう。それで、彼は?」
アリアローサは蒼白になって俯く。
「納得してくれなかった……だから私、一度街に戻るわ。それで、全部整理をしたら、また戻ってくる」
その間に、また新しい恋人を作るつもりなのだろうか。
ロアは笑った。
自分がこんなにも嫌な男だなんて、知らなかった。
「じゃあ、戻ってきたらまた寄りを戻そう──本当に戻ってきてくれるなら」
「……ロアさん、なんでそんなこと言うの。戻ってくるわ、絶対」
「聞いたんだよ。リタが、君の子爵様だっていう婚約者と話したらしくて。街では恋人がたくさんいたんだね」
はっとしたアリアローサが、傷ついたような顔を向けてくる。
どうして君がそんな顔をするんだと、ロアはおかしくなった。
アリアローサが唇を噛み締める。
「昔の話よ。ロアさんだって、恋人、いたでしょ」
「いたよ。でも、一度にふたりと付き合ったことはなかった」
「私だって……!」
「あいつときちんと別れてから、告白して欲しかった」
別れたつもりだったのだろう。この娘の中では。でもあの男の中では違ったのだ。
雪が降る。
アリアローサはもう一度「ごめんなさい」と口にした。
「それは、ロアさんの言う通りだと思う。私が悪かったわ……本当にごめんなさい」
「……」
「でも、我慢できなかったの。あの時、今言わなくちゃって、どうしても、そう思ったのよ」
ほろほろと、アリアローサが涙をこぼした。
ぬぐってやれないことが、苦しかった。
「ねえ」
アリアローサがぼんやりとロアを見上げる。
「……もう別れたい?」
ロアは見ていられなくて、視線を逸らした。
「彼とのことに本当に決着がついて。それでもまだ君が俺を選んでくれるなら、一緒にいよう」
提案に、アリアローサは何度も頷いた。
「わかった、そうする。私、絶対にまた戻ってくるわ。少し、時間がかかるかもしれないけど必ず戻ってくる」
涙を手の甲でぬぐいながら、アリアローサが笑おうとする。
「あのね、これ、ずっと渡そうと思ってたの。もうすぐロアさん、お誕生日でしょう?」
言ったアリアローサが小さな包みを抱えていたことに、ロアはその時になってようやく気づいた。綺麗な赤い包装紙にリボンまでかけてある。
「おばさまに習って、マフラーを編んでたの。よかったら使って」
「……ありがとう」
そうだ。明後日は誕生日だったと、今更ながらに思い出す。
受け取った紙袋は、暖かかった。
アリアローサが力なく微笑む。
「あのね、信じてもらえるかはわからないけど、私、自分から好きになったのはロアさんが初めてよ。告白したのも、ロアさんが初めてだった」
「……」
「だから私、ロアさんを諦めたくない。でも、待っててもらう間に、もしロアさんに恋人が出来ても仕方ないって思ってる」
「……多分そんな人出来ないと思うけど」
「ふふ、本当にロアさんは自分のことがわかってないのね」
アリアローサが寂しげに笑った。
その視線がロアの背後に注がれる。
「話は終わった?」
居間から出てきたリタが、顔を覗かせていた。
「……リタ」
ロアが「まだだから」と言おうとした瞬間、アリアローサが「ええ」と頷いて、一歩、下がった。
吹き荒れる風が、彼女の金色の髪を攫う。
「リタさん、来てたのね」
「ええ。ロアを傷つけてくれてありがとう。あなたの婚約者さんは宿に泊まってるわよ、迎えにいかなくていいの?」
「リタ」
たしなめようとしたロアを、アリアローサが遮った。
「いいの。彼とは別れるから、迎えにはいかないわ」
キッパリと言ったアリアローサは、そのまま後ずさる。
「それじゃあさよなら。ロアさん──おやすみなさい」
本当にこれでいいのだろうか。
ロアは受け取ったばかりの紙包を強く握りしめる。
「おやすみ。アリアローサ」
儚げに笑ったアリアローサに、胸を締め付けられる。これが、アリアローサの気まぐれな恋だったとして、それを永遠にしてみせるほどの自信があればよかったのに。ロアは平凡な男だった。なにになりたいかすら朧げで、臆病な──最低の男だった。




