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村は静かに、冬を迎えた。
視界に落ちてきたものに、ロアは、ぼんやりと寒空を見上げる。
ゆっくりと舞い降りてきた白い塵が、鼻の先に触れて、消えた。
ああ、また一つ歳を取るのだと思った。
「やだ、雪だわ。傘を持ってくれば良かった」
隣から甲高いリタの声があがる。ロアは黒いマフラーを鼻先まで引き上げると、再び歩き出した。
「このくらいなら平気だよ」
「ああ待って。ロア」
リタが小走りについてくる。
ロアもリタも、それぞれに大きな紙袋を抱えていた。
冬籠もりのための食糧だ。
本格的な冬が始まれば、彼らの住む小さな漁村は、春までの長い間、深雪と海風に閉ざされてしまう。
その冬越えのための食糧を買い足しに行こうと、早朝ロアはリタに誘われた。その、帰り道だった。
頬を上気させたリタが言った。
「早めに行けて良かったわ。付き合ってくれてありがとう、ロア」
「俺も買いたい物があったから、いいよ」
横に並んだリタを見下ろして言えば、彼女は機嫌良さそうに微笑んだ。
今日は化粧をしているらしい。ロアからすれば赤すぎるような気もする唇で弧を描き、大きな瞳でじっと見上げてくる──男達は、この瞳に籠絡されるのだろう。ロアは、飲み仲間がリタの話ばかりをするのを思い出して、小さく息をついた。
リタは、村で一番美しい娘だった。
雪のように白い肌に整った小さな顔、ふわりとした豊かな胸と、それとは反する細い腰つき──これといった娯楽のない村の男達にとって、彼女は目の毒であり、保養でもあった。
明るく愛想が良い彼女に恋する男は絶えず、おかげでロアは、幾度も喧嘩の仲裁をさせられていた。(とばっちりで殴られたこともある)
早く恋人を一人に定めて落ち着いてくれたらと思うのだが、猫のように気まぐれなリタは、どんな相手とも長続きしないようだった。
「ねえロア。お礼にうちでお茶して行かない? 父さん達もどうせ遅いだろうし」
上目遣いのリタに袖を引かれ、ロアはわずかに眉を寄せた。
愛嬌があるのはいいことだが、そうした態度が男を勘違いさせるのだと、どうしてこの子は気づかないのだろう。
ロアは「いや──」と口を開きかけた、その時。
「よお。リタ、どこに行ってたんだ?」
通りの向こうから、体格の良い三人の男が歩いてきた。
キリールにエル、それからイレイザだ。
若者のリーダー格であるキリールが、ロアに気付いて、ニヤニヤした笑いを浮かべる。
「あれ? 先生も一緒だったんだ」
背が高く、野生の獣を思わせるきりりと引き締まった顔立ちをしたキリールは、女達から人気があった。
リタとも一時期、関係があったらしい。
立ち止まったキリール達を前に、リタはさりげなくロアから手を離す。
「ええ、偶然ね。街の方まで買い物に行ってたの」
「ふうん」
釣り気味の目を細めて、キリールは片手に持っていた酒瓶を煽った。
普段漁師をしている彼らは、海が凍りつくこの期間だけ、小洒落た酒場を開いている。そこは暇を持てあました若者達の溜まり場になっていて、夜な夜な続く騒音に大人達は悩まされていた。
キリールがにっと笑って、リタの首に自身の太い腕を巻きつける。
「なあ、暇? これから店に来ない? 奢るぜ」
「え、これから? そうね……」
リタはちらとロアを見やった。
先ほど茶に誘った手前、行きたいと言いづらいのだろう。
ふとキリールが顔を上げてロアに笑いかけた。目は、笑っていなかった。
「ああ、先生もくる?」
牽制など必要ないのに。
ロアはゆっくりと首を振った。
「いや。夕飯の支度もあるし、俺はいいよ」
「ああそう? 残念だな。それじゃ、また」
首に腕を回されたまま、リタは「ごめんね」と言うように眉尻を下げた。
「えっと、ロア、じゃあまたね」
「うん、また」
軽く手をあげたロアに背をむけ、リタ達は酒場の方へと進路を変えた。
大声で何を飲むかを話す四人分の影が遠ざかっていく。
ロアは助かったとばかりに息をついて、家を目指した。
今年で、二十七。
いや、八だったか?
だんだんと、自分の歳が分からなくなる。
ロアは古い家の扉を開けて、薄暗い部屋に声をかけた。
「ただいま、母さん」
と、奥の方から「おかえり」とシワがれた声が返ってくる。
ロアは雪を払い落とすと、室内に入り、抱えていた荷物を年季の入った四人がけのテーブルに置いた。
マフラーを外しているところで、奥から杖をついた白髪の老婆が出てくる。ロアが出かけた時のまま、寄れた寝巻きに、毛織のショールを羽織っていた。
「おかえり。寒かっただろ」
「いや。そんなには」
ロアは湿ったコートも脱いで、暖炉のそばの壁にかけた。
そのまま棚上のマッチを手に取り、屈んで、暖炉に火をつける。そろそろ薪も買い足しておかないと、と頭の片隅で思った。
「街はどうだった?」
母は言いながらテーブルの椅子を引いて、ゆっくりと腰掛けた。
ロアは火がついたのを確認して立ち上がり、母の向かいに座る。
「いつもと変わりないよ。少し物価が上がってたくらいで」
「今年は雨季が長かったからねえ」
母は懐かしむように言って、窓の外を眺めた。
雪がひどくなっている。
あ、そうだ。
ロアはふと思い出して、母に尋ねた。
「なあ母さん。俺って今年でいくつだっけ?」
思った疑問を口にすると、年老いた母は、おかしそうに笑った。
「あんた、もうボケたの? 来月で二十九でしょうが」
「そっか。九か」
なるほど、と頷いて、ロアは買い物袋の中身を広げた。
都の大学を出て、もう七年になるのか。
ロアは塩漬け肉の瓶や新聞に包まった野菜やらを取り出しながら、そんなことを考える。
あの頃は、自分が村の教師になるだなんて、思いもしなかった。
幼い頃から勉強が出来たロアは、神童と持て囃され、自信に溢れていた。
学ぶことが好きだったので、両親に無理を言って都の大学に進学した──経済学を深く勉強して、村の役に立てたらいいだなんて、夢を見ていたりもした。
しかし、都に出たロアはそこで、自分が神童でもなんでもない、少し勉強ができるだけの普通の人間なのだと思い知った。
授業について行くのに必死で、その上田舎者と小馬鹿にされ、ロアはしだいに疲弊していった。
それでも卒業の頃、親身になってくれた教授が、助手にならないかと誘ってくれたりもした。ロアは二つ返事でその誘いを受けようとしていたのだが、そこで届いたのが、両親が事故に遭ったという悪い知らせだった。
春の嵐に巻き込まれた父は、そのまま帰らぬ人となり、母は、足の自由を失った。
他に親戚もないロアは母の世話のため、卒業証書だけを手に村に戻り、小学校の教職についた。
それが、今も続いている。
村の若者達──特にキリールは「勉強が出来てもな」とことあるごとに嫌味をかましてきた。
キリールとリタは幼馴染で、ともに十九になる。(はずだ)
幼馴染のリタが、家が近いと言うだけでロアに懐いているのがよほど気に食わないのだろう。ロアは彼に突っかかられるたびに、子供の喧嘩に巻き込まれたくはないと、いつも逃げ回っていた。
いつしかロアは、村の人間から情けない男だと陰口を叩かれるようになっていた。
──母は、ことあるごとに「すまないね」と謝ってきた。
輝かしかったはずの息子の将来を潰したのは自分だと、責めているのだ。
そんなことはない、自分はどの道村に戻っていたと、ロアがいくら言っても、母は頑なに自分を責め続けた。ロアはもう説得を諦め、母の骨のような背をさするに留まるようになった。
ロアはけれど、この優しい母が好きだったし、村での(面倒もあるけれど)静かな生活も悪くはないと思っていた。
確かに、都は美しく刺激にあふれていたけれど、自分のような人間には合わない場所だったからだ。
運命は、なるべくしてロアを村に戻したのだろうと、そう、思うことにしたのだ。
「ああ、そうだ。そろそろアグリルさんのところに、食べ物を分けてやらないとね」
「そうだな」
母が思い出したように言って、ロアも頷く。
アグリルは隣に住む老婆だった。
百を超える長寿で(これは確かだ)ロアも毎日のように彼女を見舞っていた。
弱ったその姿を思い出せばアグリルの様子が気になって、ロアは立ち上がる。
「吹雪いてきたし心配だから、今からちょっと見てくるよ」
ついでに彼女の好きな林檎も剥いてやろうと、ロアは紙袋の中から一つ、手に取った。
◇
「まさかアグリルさんがねえ」
「あんなに元気だったのに」
村人が口々に言う。
ロアは古い教会の隅に座って、アグリルの眠る棺をぼんやりと見つめた。
隣には、涙を堪える母が震えている。
ロアが見舞ったその日──アグリルはベッドの中で眠るように死んでいた。
林檎を取り落としたロアは動転し、叫びながらアグリルを揺り動かした。
けれどアグリルは瞼の一つも動かさず、人形のように硬い身体を、死を、ロアに知らしめただけだった。
ロアはぬぐってもぬぐっても溢れる涙を、それでもぬぐいながら、葬儀の手配を進めた。
別れも済んだ今、まもなくアグリルは土の中に埋められる。
雪が積もる前でよかった、と誰かが言った。
と──喪服姿の人間だらけの中、ロアの背後、教会の扉が、勢いよく開いた。
「お婆ちゃん……!!」
若い娘の声が響いて、教会中の視線を集める。
無論、ロアも彼女を見た。
「……──」
後から思えば、一目惚れだったのかもしれない。
涙をいっぱいに溜めた娘が、アグリルを見つめていた。
こんなに綺麗な女を、ロアは他に、知らなかった。