1 彼女・萌の視点から
いつも朝の電車で一緒だと、気がついたのはいつだろう。
その人は、わたしの降りる駅より二つ先の駅にある進学校の制服を着ている。
他の人たちよりも、少しだけ背が大きくて、いつもすぐに見つかる。目を惹くのは、身長の高さだけではなくて、細身だけれどぴしっとした立ち姿に、整った顔立ちは、同じ通学電車に乗る友達の中でも有名だった。
彼はいつも同じ高校の友人と二人で、電車に乗っている。
その友人の前では、微かに笑ったり、ずっと話をしている姿をよく見る。
他の人たちとは、話はするけれど、あまり一緒にいることは無い。
わたしが知っているのはそれだけ。
名前も何も知らない。
話したのは、一度だけ。
それも、電車の揺れで転びそうになったところを背中を支えてもらった時に、
「大丈夫?」
の一言だけ。
わたしは、背中の手の感触に、頭がいっぱいになって、
「だ、大丈夫です。」
どもりながら、答えただけだ。
きっと顔は真っ赤だったと思う。
だって、間近で見た彼のまつ毛の長さ、目の大きさ、綺麗な鼻筋から、目が離せなかったから。
その時の、自分のどきどきした耳元の熱さと、強く噛んだ唇の痛さだけ、しばらく残った。
今朝も、彼は友人と一緒に電車に乗っていた。
朝の光を背中から浴びた彼の髪は、柔らかく輝いて見えた。
***
その日は、珍しく、先生に手伝いを頼まれ、ひとりだけ帰りが遅くなってしまった。
いつもなら、塾に向かう友達と途中まで一緒の電車に乗って、塾前まで買い物をしたり、同じ中学だった別の高校に通う友達と会ったりすることが多い。
珍しく、いつもの時間より遅い電車にひとりで乗った。
夕方の電車は、座席がほぼ埋まっていて、吊り革の高さに手を伸ばすのが辛いわたしは、乗降口近くの手すりにつかまった。
電車に乗れて、ほっと息をつくと、目の前に見知った高校の制服がらあることに気付いた。
ふわりと、一度だけだが、知っている匂いがして、顔を上げると。
目の前に、彼が立っていた。
そして、わたしの顔を真っ直ぐに見ていた。
息を呑む。
いつも少し離れた距離で見ていた彼は、近くで見ても整った顔立ちで、ほんの少しゆるんだ制服の皺は、彼の体の細さを感じさせた。
あまりにも突然のことに、わたしは彼を見つめ返して、そのまま視線を外すことが出来なくなった。
しばらくの沈黙の後、
「あの、いつも、朝の電車で一緒の、ですよね。」
彼がたどたどしく、話しかけてきてくれた。
わたしは、笑顔を用意する余力もなく、真顔のまま、答えた。
「はい。いつも。同じ電車ですよね。」
「えぇと、その制服だと、S女学院、かな?」
「はい。そうです。その、そちらは、K高校で、合ってますか?」
「あ、はい。そうです。S女学院より、二つ駅が先の。」
「あの進学校のですよね。」
お互いにたどたどしく、さぐりさぐりの、それでも、話を続けようと必死な感じで、わたしたちは、会話を続けた。
「今日は、先生の手伝いで遅くなって。」
「そうなんだ。いつも帰りは同じ電車で見た事がなかったから。」
見た事がなかったから?
わたしが不思議な顔をしたのが、わかったのだろう。
彼は、顔を赤くしながらも、わたしの目を見て言った。
「いつも話しかけようと思ってたんだ。君と話してみたかったんだ。」
わたしも彼に釣られて、顔が赤くなってしまったのは、仕方がないと思う。
そんな会話をしたのは、わたしが降りる駅のひとつ前の駅を出た時だった。
わたしは、どきどきしているせいか、少しだけ震える手で、スマホを取り出して、彼とアドレスの交換をした。
交換が終わった時、お互いに目を合わせて笑った。
その時、わたしは、彼に恋をした事に、気付いた。
***
それからお互いにメールをやりとりしたり、電車で会った時に会話をしたりして。
ある日、途中の駅にふたりで降りて、公園を歩いて。
人が見えない場所に来た時に、手を繋がれて。
真っ赤な顔で俯きながら、わたしは手を振り解くこともせずに、ぐっと唇を噛み締めた。
耳まで真っ赤だったのだろう。
彼は、
「赤い。」
そう言って、手を繋いでいない方の左指で、ぎこちなく、わたしの耳元の髪を掬い、耳にかけた。
わたしの心臓は今までになく、早鐘を打ち、苦しさを感じながらも、このまま時を止めたかった。
握る彼の手に、ぎゅっと力が入る。
真っ赤な顔のまま、わたしは顔をあげて、彼を見た。
彼も顔を赤くしながら、わたしを見つめ、
「好きなんだ。俺と付き合って。彼女になって欲しい。」
告白をしてくれた。
わたしたちは、恋人になった。
***
付き合い始めてすぐに、夏休みになった。
最初のうちは、図書館やカフェで会っていたけれど、彼の家は日中誰もいないと言われ、時間を見つけては彼の家にわたしが通うようになった。
彼は進学校のK高校でも、さらに成績上位者らしく、来年の受験に向けての勉強がもう始まっていた。
「透くん、前からそうかなって思ってたけど、やっぱりすごく頭がいいんだね。」
わたしの成績は、恥ずかしくて見せられないくらいだ。
「そう、なのかな。よくわからないけれど。萌に勉強が教えられるなら、それでいいかな。」
ふふ、と微笑みながら、彼はわたしの頬を撫でた。
夏休みの間、彼は本当にすべて自分で勉強の計画を立てて、それを淡々とこなしていた。
わたしは、その横で課題の他に、彼の選んでくれた参考書と問題集で、一緒に勉強をしていた。
時々、外へデートに行くことはあるけれど、クーラーの効いた部屋で、彼と静かに過ごすことは、わたしにとって落ち着く空間で、暑い中出掛けるよりは、部屋に篭っている方が良かった。
それに、と思う。
「ここ、分からない。教えて。」
「いいよ。どこ?」
会話のたびに、彼がわたしに触れることが、とても嬉しかった。
今も、目を合わせて、わたしの前髪を優しく触れている。
彼の両親は、いつも家に居らず、わたしはいつでも彼の部屋の中で、彼に触れられながら、彼の隣で呼吸をしていた。
勉強のたびに、彼に触れてもらい、服を着ていて触れられるところは、全て彼に触れてもらった。
そして、全てを彼に触れられた後、わたしは彼が服を着たままで、わたしが触れられるところを全て触れた。
何度も。
互いに。
***
着衣のまま、触れ合うことにすっかり馴染んだ頃、夏休みは終わりを迎えた。
***
夏休みを終えても、わたしは変わらず彼の家へ行き、彼の部屋で勉強をしに行っていた。
成績も上がり、自分でも勉強のコツが掴めて来たような気がした。
そこで、わたしは勇気を出して、彼に告げた。
「同じ学部は、無理だけど、同じ大学になら、通える、かも。」
進学校の彼と同じ大学なんて、ずっと無理だと思っていた。
大学が別でも、別れずに付き合い続けるつもりでいたけれど、やっぱり通えるなら同じ大学がいい。
それに、わたしのやりたいことに合った学科があることも、わたしの背中を押していた。
びっくりするかなと思っていたら、彼はさも当然のように頷く。
「夏休みから、一緒に勉強していたんだもの。それくらい分かるよ。」
「そうなの?透くんには分かってたの?わたしには分からなかったよ…」
「そうなれば、いいな。と思ってたから。嬉しい。」
そう言って、彼はわたしをぎゅうっと抱き締めると、
「一緒の大学に行こうね。」
それはそれは甘く、わたしにおねだりをしてきた。
わたしも、ぎゅうっと抱き締め返すと、
「同じ大学行こうね。」
と、彼の匂いに顔を埋めて宣言した。
***
そのまま、高校三年生になり、また夏休みには彼の家へ通っていた。
大量の勉強道具を抱えて。
それでも、合間合間に、彼がわたしに触れて、わたしも彼に触れることが出来たので、勉強のストレスもなんとか発散出来ていた。
ただし、お互いにお互いが好きな事を分かっているわたしたちは、受験が終わるまでは、これ以上の関係を持たないようにと決めていた。
彼はどうなのか、わからないけれど、わたしは絶対に頭の中が勉強どころでなくなることが分かっていたから、受験が終わるまではダメだと、決めていた。
それでも、顔に触れる彼の指が、抱き締めてくれる彼の胸元からの匂いが、手放すことも出来ず。絶対に彼と同じ大学に合格しようと、何度も気合を入れて、受験勉強に励んだ。
それが、ある日。
付き合って一年以上経つ中、一度も会う事の無かった彼の親が家に帰ってきたようだった。
彼の部屋の開いた窓から、家の敷地内で車が停まり、ドアが閉まる音が聞こえた。
「…家族の人、帰って来たのかな。」
わたしは、とうとうご挨拶をすることになったのか!と慌てながら、初めて会う彼の家族に緊張を感じていた。
なんて言えばいいかなと、わたしが考えていると、彼は、
「見てくる。萌は、絶対に部屋から出ないで。」
目を合わせる事なく、ドアを閉めて、部屋を出て行ってしまった。
しばらく、勉強も何も手がつかないまま、彼の部屋で待っていると、車のドアの音がして、すぐに発車して行ってしまった。
呆然としていると、彼が部屋に戻って来たので、聞いてみた。
「え、家族の人じゃなくて。お客さんだったの?」
わたしは自分の中の嫌な考えを消そうと、彼に聞いてみたけれど、彼の答えはわたしの欲しい答えではなかった。
「いや、母さんが忘れ物を取りに来ただけ。」
彼は、ほうっと息を吐くと、わたしを胸に抱え込み、抱き締めた。
わたしは、どきどきしながら、彼に尋ねた。
「お母さんに、挨拶した方がよかったんじゃない?勝手にわたし、いつも来てるし。」
彼の腕の力が強くなる。
「いいよ。言った事ないから。萌は挨拶しなくていい。」
挨拶しなくていい?
彼の言葉がわたしには理解できなかった。
わたしの家族には、受験が終わったら会ってくれるかなと、勝手に思っていた。
けれど、彼は、わたしを家族に会わせようとしない。
会わせられるほどの者ではないというの?
わたしは、彼にとって、一体何なのだろう。
いつもより、強く抱き締められているのに、体の合わさった部分がひどく違和感を感じてしまい、右手を宙にあげては、何も掴めずにそっと手を下ろした。
***
あの日から、夏休みの間は塾を始めたからと嘘をついて、彼の家には行かなくなった。
夏休み明けからは、予備校に入り、学校の友達と一緒に通った。
彼からの連絡に返信はするけれども、会う事はなかった。
朝の電車の時間も、ひとつ早い電車に変えて、彼と顔を合わさないように、ひたすら受験勉強へと逃げた。
ただ、一年も付き合っていると、彼の友人とも顔見知りになってしまっていて。
ある朝、電車で彼の友人の水人くんに捕まってしまった。
「おはよう、萌さん。少し話いいかな。」
制服を着崩すこともなく、朝から身だしなみを整えた水人くんは、誠実な性格が滲み出た顔で、わたしに話しかけて来た。
「透と、何かあったの?」
「何も、ないです。」
「それなら、どうして電車の時間を早くしたの?」
「受験、だから。」
まともに話す気のないわたしは、目を合わせないまま、ぽつぽつと答えた。
「まさかと思って、早めの電車に乗ったらいるんだもの。萌さん、避けてないで、話してやって。」
水人くんは、彼のためにわざわざこの電車に乗ってきたと言った。
夏休み明けからずっと、同じ電車で見ていないこと、彼は何も言わないけれど、様子がおかしいこと。
黙ったままでいるわたしに、水人くんはひとりで話し続けた。
「萌さんがいないと、あいつ、ダメなんだよ。僕に相談してくれればいいのに、それもなくて。僕だって、受験あるから、透の心配している場合じゃないんだけど。」
少し、言葉を探すように黙ると、水人くんは、何か言おうとして、また口を閉じた。
いくら小声とはいえ、ここは電車の中だ。
話せる内容にも限界がある。
わたしだって、言ってしまいたいことはあるけれど、ここでは口に出したく無かった。
次の駅で、S女学院の生徒は降りる。
わたしだけ、残ることはない。
それは水人くんもわかっていたようで、急に鞄からノートを取り出して、ボールペンで何かを書くと、破ってわたしに渡してきた。
「これ、僕の番号。お願い。透をあのままにしたくないんだ。話を。透がダメなら、僕と話をして欲しい。」
夏よりも弱くなった朝の陽射しは、水人くんの表情をすべて照らして、わたしに思いの強さを感じさせた。
「…わかった。」
わたしは、唇を強く噛み締めながら、水人くんの手から、ノートの切れ端を受け取った。
次話、明日の12:00投稿予定です。