猛火の英雄
「よォ、兄ちゃん。五百円貸してくんねェか」
そう声をかけられたのは、行きつけのラーメン屋だった。
やっと営業の外回りが一段落し、遅い昼食にありついていたときのことだ。
声をかけてきたのは五十代くらいの男で、見上げるほど背が高く、肩幅も厳つい。
縦縞のスーツに身を包み、目の奥をぎらつかせている。
明らかに堅気ではない雰囲気が滲み出ていた。
一方の俺は、くたびれたスーツに無難な柄のネクタイ、おまけに死んだ魚のような目という、いかにもオフィス街の風景の一部だった。
自分で言うのもなんだが、他人に恵んでやるほど金を持っているような風貌ではないと思うのだが。
「……お、俺ですか?」
確認するように尋ねると、相手はにやりと口の端を上げた。
「そうさ。支払いに金が足りなくてなァ」
記憶を探るが、こんな知り合いはいない。
友人にも、会社の同僚にも、取引先にもだ。
当然のように金をせびる男の、値踏みをするような目が恐かった。
断ってトラブルになると厄介だ。五百円程度ならくれてやったほうが安いだろう。
そう判断し、財布を開いてちょうど目に入った五百円玉を一枚わたす。
「ど……どうぞ」
「おう、すまねェな」
男はそれだけ言うと、さっさと会計を済ませて店を出ていった。
俺は少しのびてしまった自分のラーメンを慌ててすする。
仕事の合間のわずかな息抜きが台無しだ。
しかし、真の悲劇が襲ったのはそのあとだった。
ラーメンを食べ終え、支払いをしようとレジに立つ。
「八百二十円になります」
俺は財布の中身を凝視した。
……た、足りない。
ほんの数十円だが、足りないものは足りない。札入れを覗くが、あいにく諭吉も一葉も英世も出払っていた。
「すいません、カードで」
キャッシュカードでの支払いを試みるが、それを機械に通した店員は首を傾げて「申し訳ありません。このカードはお使いいただけないようです」と言った。
持っているカードをすべて渡してみても結果は同じだった。
「そ、それじゃあ電子マネーで!」
しかし、どうやら会社にスマホを置き忘れてきたらしく、慌ててカバンやポケットを探るが影も形もない。
……最悪だ。
そうこうしているうちに、俺のうしろには会計待ちの客が並び始めた。
俺と同じ外回りのサラリーマンも多いのだろう。みんな「早くしろ」と言わんばかりの視線をこちらへ投げかけてくる。
いたたまれなくなり頭を抱えると、店の奥から眼鏡をかけた痩せ型の男が出てきた。
「お客様、わたくしこの店の店長をしております。ちょっとお話が」
「へっ、あ……はいっ」
言われるがまま、俺は店長のあとについてバックヤードに入っていった。
休憩室らしき小部屋につくと、俺は慌てて事情を説明した。
「申し訳ありません! 決して食い逃げをするつもりはないんです! 現金がちょっと足りなくなってしまって……。残高も残っているはずなのにカードが使えないって言われたし、電子マネーにしようと思ったらスマホも忘れてきてしまったようなんです。後日必ずお支払いをいたしますので、どうか……」
営業マンの哀しい性なのか、つい必要以上にペコペコと頭を下げてしまう。
そもそもあの怪しい男に五百円をくれてやらなければ、こんなことにはならなかったんだ。今日はとことんツイてない。
しかし、店長は俺ではなく別のほうを見ていた。
「オーナー、連れてきましたよ。本当にこんなので良かったんですか?」
よく見ると、休憩室の片隅には人がいた。
狭い休憩室には似つかわしくない黒のソファーに深々と身を沈めながら、大きく広げた新聞を読んでいる。
「あァ、ご苦労さん」
その声に聞き覚えがあった。
相手は新聞紙から顔を上げ、ゆっくりと俺を見た。
「よォ兄ちゃん。待ってたぜ」
「あっ、さっきの!」
どうやら俺はハメられたらしい。
レジでカードが使えないと首を傾げていた店員も共犯だったのか。
たとえ支払いができていたとしても、結局は別の手段でここに連れてこられていたに違いない。
必死で心当たりを探る。
何か他人の恨みを買うようなことをしただろうか。
そもそも営業職なんて、常に他人との騙し合いだ。ときには詐欺まがいの言葉で契約を取りつけることもある。他人を気遣っている余裕などあるわけがない。
だから、俺を恨んでいる奴は大勢いるだろう。同僚にも、同業他社にも、顧客にも。
でも、そんなことは誰だって多かれ少なかれやっていることじゃないか。
こんなのはあまりに理不尽だ。これ以上、俺から奪わないでくれ。
「……お、俺に何か用ですか」
そう尋ねる声が情けなく震える。
男は面白そうに身を乗り出した。
「なぁに、とって食いやしねェよ。お前には見込みがあると思ったのさ」
「見込み?」
思ってもみなかった言葉が飛び出し、訝しげに相手を見る。
「ちょいとひとっ働きしてくれや」
「え、どういう……」
まさか薬物を運べとか水商売のスカウトをしろだとか、そういうことじゃないだろうな。
男はにやりと笑いながら言った。
「安心しな。お前が死ぬこたァねえよ」
戸惑っていると、店長が横から割り込んできた。
「もうすぐ開幕の時間です。お早く」
そう言うと彼は俺に紙切れを握らせた。
それがなにかを確認する暇もなく、店長は俺をドアのほうへグイグイと押す。
ドアの向こうは店の裏口のようで、細く開けられた隙間からアスファルトがのぞいている。
彼らがこのタイミングで俺を解放する意図がつかめない。
なにか、嫌な予感がした。
「ちょ、ちょっと!」
必死で抵抗を試みるものの、店長はその細身に見合わず馬鹿力だ。
「ほら、早くお行きなさい」
「まっ、待って……あっ」
俺はついにバランスを崩し、よろけるようにドアをくぐる。
その瞬間、ふっと空気が変わった。
慌てて辺りを見回すと、奇妙な感覚に襲われた。
ドアの先はラーメン屋の裏口だとばかり思っていたが、予想とはまったく違う光景が広がっていた。
ここは、どこかの建物の中だ。
黴臭い空気のなかに、化粧品の香料や花の匂いが混ざっている。決して爽やかではないのに懐かしかった。
狭い空間に、さまざまな物がひしめいている。
鏡台。メイク道具。色とりどりのウィッグ。けばけばしい色彩の衣装、ブーツや学生靴や下駄。チラシ類や製本された台本。ポスターや筆記用具。差し入れの菓子類。座布団と石油ストーブと薬缶。そして、抱えきれないほどの花束。
見覚えのある場所だと思った。
ここは楽屋だ。
しかも、テレビ局などではなく、小さな劇団の。
そして俺は、何度かここへ来たことがある。
振り返ると、ラーメン屋の休憩室は消えていた。
あの怪しげな男も、店長も、姿が見えない。
そこにはただ通路が続いていた。
そのとき、ふと誰かの気配を感じた。
振り返るよりも先に声をかけられる。
「お客様。申し訳ございませんが、こちらは立ち入り禁止となっております」
「すっ、すみません!」
俺は慌てて頭を下げた。
いったいどうなっているんだ。これではまるで不審者じゃないか。
声をかけてきた相手を見て、俺は目を見開いた。
この人には見覚えがある。
たしか、俺の恋人と友人が所属していた劇団の役者だったはずだ。
相手は俺の手のなかにある紙切れを見つけ、役者特有のよく通る声で「受付はあちらになります」と言った。
店長から渡された紙切れに目をやると、それは演劇のチケットだった。
午後の部の公演は三時半からと記載されている。
これはドッキリかなにかなのだろうか。
もしそうなら、あのラーメン屋のオーナーも店長も店員も、すべて仕掛け人だったということになる。
少し悩んだあげく、俺は仕事をさぼることにした。
誰がなんのためにこんなことを仕掛けたのかは知らないが、どうせ乗りかかった舟だ。こうなったら最後まで付き合ってやろうじゃないか。
それに例の一件以来、演劇からは遠のいていた。あれからもう三年も経つのだし、ふとまた観たくなったのだ。
俺に声をかけてきた相手は、そのままロビーの受付へと案内してくれた。
しかし、この人とは挨拶を交わす程度の仲だったはずなのだが、どうにもよそよそしい。しばらく来ないうちに忘れられてしまったのだろうか。
いや、それだけではない。どうも何かが引っかかる。
受付に行くと、チケットと引き換えにチラシを渡された。
そこに座っていたスタッフを見て、俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「へっ? 狭山!?」
「……えっと?」
「なんだよ、久しぶりで忘れたのか? 俺だよ、広川だよ!」
見知った顔に、思わずテンションが上がる。
狭山は俺の大学時代の後輩であり、深い付き合いをしていた友人でもある。
会うのは数年ぶりだ。懐かしさが込み上げる。
それなのに、名前を告げても狭山は怪訝な顔をするだけだった。
やがてあからさまな営業スマイルを浮かべる。
「……広川さんですね。ご来場ありがとうございます」
なんだよ、他人行儀だなあ、と俺は笑った。
いつもの狭山なら、俺のことを「広川さん」だなんて呼ばないくせに。
もしかしたら他の客がいる手前、私語を慎んでいるだけなのかもしれない。
あるいは、彼もまたこのドッキリの仕掛け人なのだろうか。
そんなことを考えながら、客席に座る。
一息ついて、俺はようやく気付いた。
ラーメン屋の裏口が劇団の楽屋になるという不可解な状況を目の当たりにしたことや、なぜか演劇のチケットを渡されたこと、そして懐かしい人物と再会したことで、記憶が混乱していたらしい。
そうだ、狭山は――三年前に死んだのだ。
いったい何が起きているんだ。
俺は椅子に深く腰かけ、深呼吸を繰り返した。
いくらか気持ちが落ち着いてきたところで、渡されたパンフレットを確認する。
目を引く抽象的なイラストと、大きく印刷されたタイトル。
その下には、監督、脚本、演出、照明、音響、大道具、小道具、衣装、メイクなどといった大勢のスタッフの名前が並んでいる。
チラシを裏に返すと、俳優の名前と顔写真が載っていた。
そのなかの一人に目が留まる。
「狭山 祐二」
もしかしたら他人の空似なのかと思ったが、間違いない。やはりあれは狭山だ。
しかし、それ以上の衝撃が待っていた。
俺はある女優の写真に釘づけになった。
「中山 エマ」
それは三年前に死んだはずの、俺の恋人だった。
エマと出会ったのは、狭山の紹介だった。
というよりも、俺が劇団に遊びにきて狭山と話しているときに会ったのがエマだった。何度か話すうちに意気投合し、やがて付き合うことになったのだ。
俺は夢でも見ているのだろうか。
受付での狭山の様子が気にかかる。まるで俺とは初対面だといわんばかりだった。
それだけではない。楽屋で会った相手も、まるで俺のことなど知らぬといった顔をしていた。
あれこれ考えているうちに、劇場の壁時計が三時半を指した。
ジリジリとベルが鳴り、劇場内の照明が落とされる。
あたりが闇に沈み、ゆっくりと幕が上がる。
演目は群像劇のようだった。
BGMとともに短いナレーションがあり、舞台に数名の役者が立つ。
その中に、エマがいた。
舞台の上の彼女は相変わらず美しかった。
青いドレスに身を包み、豊かな髪を背中へ流している。
スポットライトを浴びたその姿は幻想的だった。
もし彼女に会いに行ったら、どんな顔をするだろう。
狭山と同じ反応をされてしまったらと考え、慌てて頭を振る。
劇が進むにつれ、俺は気付いた。
エマと狭山だけではない。
舞台の上には、死んだはずの人が次々と現れてはまた舞台袖へと消えていった。
好々爺を演じている座長も、その横で天真爛漫な孫役を演じる役者も、その奥に立っている気難しい弁護士役の役者だってそうだ。
そういえば、楽屋で会った役者も三年前に亡くなったうちの一人だったと思い出す。
俺はいつのまにか死後の世界へ来てしまったのか?
いや、違う。
舞台に立っている役者の中には、生き残った人もいる。
あれこれ考えているうちに、ゆっくりと記憶が蘇ってきた。
スマホに届いたライン。
電話の向こうで震える声。
新聞記事には、都会の片隅にある小さな劇場が火事になり多くの死者が出たと書かれていた。出火元は楽屋のストーブで、燃えやすいものが多く火の回りが早かったと。
俺は喪服に身を包み、いくつもの通夜や葬式に出席した。
もちろん、エマの葬式にも行った。
ご両親の憔悴しきった顔は見るに堪えなかった。あちらこちらで響くすすり泣きを聞きながら、俺はゆっくりと現実を呑み込んでいった。
火事になった日の演目は――、そうだ。
今日と同じタイトルじゃないか。
当時のことを鮮明に思い出した途端、劇場内のざわめきに気付いた。
誰かが「焦げ臭い」と言うのが聞こえた。
それとほぼ同時に、舞台の袖から団員が飛び出してきて座長になにかを伝える。
途端に座長の顔色が変わり、その場で役者たちに慌ただしく話す。
役者たちは驚いて顔を見合わせた。
壇上の声はこちらまで届かない。
しかし、俺にはわかっていた。
今ここで、三年前と同じことが起きているのだ。
もしかしたら俺はあの日の再現を見ているのかもしれない。
観客たちのあいだにどよめきが走る。
最前列のあたりから「火事」という言葉が聞こえてきた。それは伝染するように、一気に客席へと広がってゆく。
まずい。このままでは場内がパニックになる。
舞台の上では座長が劇団員たちに指示を出しているようだったが、あれではとても間に合わない。
俺は自分に言い聞かせる。
今しかない。腹をくくれ!
その場に立ち上がり、めいっぱい息を吸い込む。
大丈夫だ。舞台に立ったことはないが、俺ならやれる!
覚悟を決め、腹の奥底から叫ぶ。
「みんな、ロビーへ!」
俺の声を聞いた観客たちが、何人かこちらを見た。
よし、いいぞ!
たしかな手応えを感じ、さらに声を張り上げる。
「転ばないように落ち着いて、ロビーへ避難して!」
役者さながらに大げさな身振りで方向を示す。
ざわざわとしていた観客たちが立ち上がる。数名が出入り口へ向かうと、それに続くように人の流れができ始めた。
その瞬間、はっきりとわかった。
あの怪しげな男と店長は、このために俺をここへ寄越したのだ。
恋人も友人も失って、三年間。
俺はずっと馬鹿げた妄想をくり返してきた。
――もし、あの日、あの時間、あの場所に俺がいたら。
何度もくり返し、そればかりを考えてきた。
今この場で自分が何をすべきかなんて、わかりきっている。
団員たちも座長の指示を受け、それぞれの持ち場についたようだ。
口々に呼びかける声が聞こえてきた。
「ロビーへ向かってください! 舞台のほうへは戻らないで!」
「みなさん、落ち着いて行動してください。周りの人を押さないように!」
「同じ出口に集中しないよう、左右に別れてください!」
どこかで、炎が劇場を焼いてゆく音が聞こえ始めていた。
ミシミシときしむ音。ガラスの割れる音。炎が空気を求めて這い回る「ごおぉおお」という轟音。
振り返った瞬間、舞台袖から炎が飛び出し、あっというまにステージを呑み込んでゆくのが見えた。
場内に「きゃあっ」という悲鳴があがる。
出入り口からは「早くしろよ!」「どけ!」という怒声が聞こえてくる。
それらをかき消すように、俺は叫ぶ。
「大丈夫だ! 落ち着いて!」
出口にはすでに大勢が群がっていた。
三年前の火事では人々が出口に殺到し、将棋倒しが起きてしまったと聞いている。そのせいで避難が遅れ多数の犠牲者が出たのだ。
俺がここにいる以上、同じ悲劇を繰り返させるものか。
「二列に並んで!」
そう声を張り上げる。
出口の近くにいた劇団員たちが、観客を誘導している。
彼らにも俺の意図は伝わったようで、うまく誘導の仕方を切り替えてくれたのがわかった。
そのとき、黒煙がもうもうと観客席まで押し寄せてきた。
それとともに物が焼ける悪臭が立ち込める。
煙が目に染みて、涙が止まらない。
しかし、俺にはまだやるべきことが残っている。
火事の犠牲者のなかには多くの劇団員が含まれていた。観客の避難を誘導していて逃げ遅れたのだ。
足元で小さな子どもが転んだ。
親とはぐれてしまったのだろう。肺が裂けそうなほどの大声で泣いている。
俺はその子を抱きかかえ、舞台に近い場所で避難誘導をしていた狭山に押しつけた。
「狭山! この子を安全な場所へ! それと出口の誘導を頼む!」
彼は戸惑いながらも「わかりました!」と答えて子どもを抱きかかえ、出口へと走っていった。
すすが肌にまとわりつき、肺が酸素を求めて喘ぐ。
炎は生き物のようにゆっくり動き、新鮮な空気を追うようにゆらゆらと天井へ登ってゆく。壁の一部が剥がれ、轟音を立てて床に落ちた。炎がゆらりと床に乗り移る。
その光景はさながら悪夢のようだった。
もう、あまり時間がない。
俺はエマの姿を探した。
すぐに青いドレスが目に飛び込んでくる。
あろうことか、彼女は燃えさかる劇場の奥へ向かおうとしていた。
「エマ!」
俺はなりふり構わず彼女を抱き止める。
「きゃっ?」
彼女が驚いて俺を見た。
一瞬、目が合う。
そして俺はすぐに理解した。
やはり、彼女も俺のことを覚えていない。
ふと、脳裏にあの言葉が浮かんだ。
――安心しな。お前が死ぬこたァねえよ。
あの怪しげな男は、俺にそう言ったのだ。
彼が何者なのかはわからない。
悪魔か、あるいは死神か。
ここがどういう場所なのかも俺は知らされていない。
三年前の記憶を見ているのか、それとも単なる夢なのか。
ひとつだけわかるのは、俺はこの世界に存在するはずのない人間らしいということだ。
つまり、俺が死んでもこの世界には影響がないってことか。
そう解釈した途端、覚悟ができた。
俺には、この世界で演じなくてはいけない役割がある。
「エマ! もうじき焼け落ちるぞ! どこへ行くんだ!」
俺が尋ねると彼女は答えた。
「逃げ遅れた人がいないか確認するんです!」
「それは俺がやる! 今すぐ避難しろ!」
「えっ、でも……」
あなたは誰なの、と問う視線に、心がえぐられる。
それでも俺は、俺の役を演じ切るまでだ。
「お前の役目は俺が引き継ぐ! 行け!」
彼女は黙って唇を噛み、俺を一瞥して出口へ走った。
それを見送り、俺はただ一人、劇場の奥へと向かう。
炎は壁を這い、すでに建物全体を取り囲んでいる。朱く蠢く様子は悪意を持ってすべてを破壊しようとしているかのように見えた。
火のまぶしさに目が眩み、灼熱を浴びた体が焦げつくように熱い。
充満した煙が視界を遮る。
口元を覆い、椅子の列を縫うように進む。
俺は最後の力を振り絞り、声を張り上げた。
「誰かいませんか! 誰か! 逃げ遅れた人はいませんか!」
燃え盛る炎のなか、返事はない。
劇場内をくまなく走り回ったが、人の姿はどこにも見当たらない。
出口に押し寄せていた観客たちも、それを誘導していた劇団員たちも、すべて避難できたようだ。
ここにいるのは、俺だけ。
四方から猛火に睨まれながら、俺は両腕を広げ掠れた声で笑った。
俺を呑み込もうとしている炎が、まるで舞台を照らすライトのようだ。
劇場に満ちる灼熱は、観客席から伝わる熱気のごとく。
焼け崩れる轟音は、鳴り止まない拍手のようじゃないか。
ああ、俺は役割を演じ切ってやった。
そう思った途端、膝から崩れ落ちた。
肺が痛い。息ができない。ああ、苦しい。
体中の皮膚が、肉が、骨が、激痛を訴える。
意識が朦朧としてきた。
炎がゆっくりと俺の体を喰ってゆく。
体が燃えている。熱い。熱い。あつい。
どうやら閉幕のときが近いようだ。
次の瞬間、意識が途切れた。
「おつかれさん」
声をかけられ、俺は弾かれたように辺りを見回した。
そこはラーメン屋の小さな休憩室で、焼かれたはずの体はぴんぴんしていたし、スーツも元通りだった。
ソファに身を沈めた怪しげな男が、俺を見て満足げに笑っていた。
その隣で店長が新聞記事を覗き込んでいる。
「数名でも犠牲者を減らせればと思っていましたが……死者ゼロですか。やりましたねえ」
俺は、二人に向き直って尋ねた。
「あの……俺が見ていたものは、なんだったんですか」
「夢のようなものです。私たちにとっては」
店長が答える。
「夢、ですか?」
そのわりには、熱かったし苦しかったし、俺はここで死ぬのだとばかり思っていたのに。
「並行世界って聞いたことあるかい」
新聞に視線を向けたまま、オーナーが尋ねる。
どこかで聞いたことがあるような気がした。たしか、この世界とそっくりな、でも少しだけ違う世界のことだったか。
その世界は、こちらの世界と寄り添うように存在している、とも。
まさかそんな作り話のようなことが、と思ったが、それならいろいろと合点がいく。
あれは「俺だけがいない三年前の世界」だったのだ。
そして、俺は残酷な事実に気付いてしまった。
「俺があちらの世界を救ったところで、こちらの世界のエマには――死んだ人には、もう会えないってことですか」
そう尋ねる声が、悲しみで震える。
「そうだな」
オーナーは無慈悲に頷いた。
そして静かに続けた。
「だが、向こうの世界だって確かに存在していることに違いはない」
「オーナー、それ以上は」
と店長が止めた。
どうやら彼らにもそれなりの事情があるようだった。
「おっと喋りすぎたな。もう帰っていいぜ」
そう言って、ぽんと肩を叩かれる。
俺は涙をぬぐって頷いた。
役目を終えた俳優は、舞台を去るのみだ。
休憩室のドアの向こうは、やはり店の裏口になっていた。
もう一度あの世界へ戻れないかと期待したが、俺の足はしっかりとアスファルトを踏みしめていた。
室外機の気怠げな稼働音とともに、豚骨スープの香りがふわりと漂う。
最後にもう一度だけ振り返り、俺は尋ねた。
「どうして俺だったんですか」
戸口に身を預けたまま、オーナーはにやりと口の端を上げた。
「見込みがあるって言っただろ? かっこよかったぜ。ヒーロー」