『墨と紫陽花』
各駅の電車が次々停まっては次のホームへと進んでいく。大学から遠のいていくのと同時に美咲と一緒にいられる時間が刻々と擦り減っていくのを感じる俺。その間も彼女はレポートパッドに文章を焼き付けていた。そのように見えたのは、美咲の瞳から太陽のような輝きを感じたからだ。何気に俺は彼女の筆跡も好きだ。丸みを帯びた女性らしいタッチの字。そんな美咲の文字を毎日見られる俺は心の底から幸せ者だと思う。
「できたわ」
満足げな顔で当然のように俺に出来立ての小説を渡してくる美咲。今度は梅雨がテーマか……一体どんな題材を使ったのか。気になるところだ。
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『墨と紫陽花』
こどもたちの笑い声が聴こえる。世の中は梅雨だというのに、羽根突きをして遊んでいたのだ。顔に塗りたくられる墨汁。そこらじゅうに跳ねる墨。そのこどもたちは地域を象徴する妖精だった。彼らの姿を見た者は幸福になれるという。聊か胡散臭い話だがそれは本当であった。
「あ、妖精さん」
道路を飛び出しそうになった幼稚園児の男の子が彼らの姿を見て百円を拾ったのである。足元のナメクジは踏まれて死んだ。結果、男の子は車にも轢かれず百円も入手できた。ナメクジの死と引き換えに幸福が訪れたのだ。跳ねた墨汁は鮮やかな紫陽花を黒く染めた。その模様はハート型だったという。
「ナメクジさんの死は忘れない」
男の子はそう言うと、灰色の空を見上げた。
――完――
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今度の犠牲はナメクジか。美咲はこの小説を「純文学もの」だと言っている。確かに雰囲気はそれらしい気もするが、感想を言うのは難しい。しかし俺は彼女の彼氏。美咲の望む良い感想を言ってやりたい。必死になって俺はこの小説の良い点を探した。そんな俺をからかうかのように彼女はクスッと小さく笑った。
「純文学に正解は無いのよ、仁司」
「え?」
美咲がそれらしいことを言うので拍子抜けした俺はいつもより間抜けな声を出す。次の駅で彼女は降りる。美咲はレポートパッドをひょいと俺から取り上げて鞄の中に入れると、やっと普通の話をしてくれた。今日食べたオムライスが美味しかったこと、講義中に起こった事など些細な話。
電車がホームに停まり別れの扉が開く。美咲は軽く手を振ると電車から降りて階段を降りていった。しかし、彼女の真の創作意欲は帰宅後に発揮されるのだ。俺はスマホを取り出して今時は珍しいかもしれないが、メールの履歴を辿っていた。迷惑メール等は全て消去している。残っているのはそう、美咲から送られてきた小説たちだ。俺は家までの最寄り駅に着くまでそれらを見ては、彼女が一生懸命文字を入力している姿を想像した。あの女性特有の文字を見れないのは少し残念でもあるが……
今夜はどんな小説が送られてくるのだろう。