出会い
1
高校生活二度目の春休みが始まった。
僕は近所のコンビニでカップラーメンと炭酸水を買い、店を出た。
炭酸水を買うのは他のと割ったりダイエットをするなどの理由からではない。味が入ってしまった炭酸飲料は甘過ぎて飲めたもんじゃなく、かと言って炭酸の入っていない水やお茶を買う気にもなれない。言うなれば、僕は純粋な炭酸好き。炭酸そのものが好きで、口の中に広がる爽快感を求めている。
だから炭酸水が好きというよりは消去法で買っている。
家に帰る途中で黒猫を三匹見た。不吉すぎて三匹目を見つけた場所からはいつも以上に注意を払って道を歩いた。
玄関の前まで来て鍵を出そうとした時、ふと袋の中身が気になり炭酸水を揺らさぬよう確認する。中にはカップラーメンと炭酸水だけが入っている。鍵を回し、カタと解錠される音がしてようやく違和感に気づく。
割りばしが入ってない。
リビングへ向かう途中、なんとなく人の気配を感じた。しかしそれはおかしい。父は仕事に行っているし、母もこの時間は買い物に行っているはずだから。
もしかしたら空き巣かもしれない。不安と緊張で汗ばむ手をドアノブにかけ、呼吸を整えてから一気に押した。
しかしそこにいたのは空き巣のイメージからは程遠い、中学生か高校生くらいの女の子だった。
「初めまして。私は幽霊です」
無邪気に挨拶をした彼女は、幽霊なので不法侵入ではないなど早口で弁解しているが僕の頭には何一つ入ってこない。何せ、空き巣かもと疑ってリビングに入ったら自称幽霊の女の子がいたのだから。
冷静になるまで三分ほどかかった。
お湯を注いでいればカップラーメンが完成していたのにと後悔していると自称幽霊の彼女が笑顔で言った。
「とりあえず、座りましょ」
「なんで君が言うんだよ」
彼女の図々しさに腹を立てながらも僕は椅子に座った。
テーブルを挟んで彼女と向かい合ったためバイトの面接みたいになっている。
「えーっと、君名前は?」
僕は当然のことを聞いたつもりだった。相手が初対面でこれから話をしようとするならば、お互いの名前を把握しておくのは常識だろう。
しかし彼女は僕の質問を聞いて、まるで余命を宣告されたかのような反応を見せた。
自称幽霊である彼女に対してこの例えは不適切な気もするが他に例えようがない。
一見絶望に満ちているが、どこかにある希望を探して必死にその闇をかき分けている。その結果が残酷にも表情に表れ、彼女が涙を流した。嬉し涙のようなぬるいものではない、冷たい涙だ。
困惑する僕を見て彼女が何度も謝る。
「本当に何でもないの。大丈夫だから」
その大丈夫は、僕に迷惑がかからぬようかけた言葉にも聞こえたが、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
落ち着くまで三分ほどかかった。
お湯を注いでいればなどという考えは野暮だろう。
彼女は赤くなった目をこすり深呼吸してから何事もなかったかのように話し始める。
「綾瀬りんです。中学卒業後に死んだから年齢は当時のまま十五歳。あ、でも体は少し成長してるかな。身長も伸びた気がするし」
僕は突然のことに驚きを隠せないでいたが、開いたままの口を一度結んでからすぐに開いた。
「待て待て。僕はまだ君が幽霊なんて信じてないんだ。いきなりそんな変わった自己紹介されても困るよ」
「心配には及びません。私が幽霊だということは直に証明されるので」
話の流れが彼女から僕に向かって次第に急になる。
自信満々に言う彼女の顔を見ると本当に幽霊なのではと思ってしまう。
大体、どうやって家に入ったのだろう。玄関も窓も全て鍵をかけていたはずなのに、壁でもすり抜けたようにしか思えない。僕の思考は彼女が本物の幽霊である方に傾いてしまっていた。
「どうやって証明するんだよ」
待ってましたと言わんばかりに彼女はニヤッとした。
「簡単な話ですよ。私、あなたにしか見えてないので」
彼女が幽霊なのか疑っていたのを別の疑問が追い抜く。
「どうして僕だけ?」
一瞬、流れが緩やかになり、彼女の目が会話の中を泳ぐ。
「それはほら。最初に私の姿を見たからじゃないですかね」
何かを隠していることは誰が見てもわかるだろう。それを問いただそうとしたが彼女の言葉に阻まれた。
「そんなことより、早く私が幽霊ってことを証明しましょう」
緩やかになったと思った流れは急になり、僕は下流に押し戻されてしまった。
強引に腕を引っ張られ、僕はリビングを後にした。
玄関から出る寸前、コンビニの帰りに見た黒猫を思い出した。
今日は本当についてない。
2
彼女が、近くて確実に人がいる場所が良いと言うから僕は本日二度目のコンビニに来た。
店内には昼前と同じ店員が二人いて、「いらっしゃいませー」と気の抜けた挨拶をすると同時に、「またお前か」とも言いたげな顔をしている。
この短時間で二度も同じコンビニに入るのは僕でなくても多少気が引けるだろう。
「いらっしゃいましたあ!」
彼女が突然大声を出すから僕は咄嗟に小声で注意した。しかし得意げに笑う彼女の顔を見てハッと我に返る。
周りを見渡すと店員が黙々と作業をしていて、こっちには目もくれていない。
思わずもう一回と人差し指を立てると、再び店内に大声が響き渡る。
「ほら、これで証明できたでしょ」
まさか本当に幽霊なのだろうか。店員の耳が極端に悪いだけ、なんてこともないだろう。
一人頭を抱えて考え込んでいると、彼女が「まだ疑うか?」と顔を覗き込ませた。
「じゃあ、これならどうだ」
彼女は、品出しをしている店員に駆け寄るとツンと肩をつついてみせた。「はい?」と振り返った店員と目が合い、なんだか気まずくなる。僕とは距離があったため、店員は一度首をかしげ、すぐに作業に戻った。
彼女が人差し指を立てて「もう一回?」とからかい混じりの笑みを浮かべる。
僕は無言で首を横に振った。認めざるを得なかった。目の前にいる彼女は本物の幽霊だ。
僕が一度深くため息を吐くと、それを吹き飛ばすように彼女が言う。
「それじゃあ、炭酸水でも買って帰りますか」
「それは昼前に買ったんだよ」
彼女が一瞬、目を丸くさせた。
「へー、今でも炭酸水飲むんだ」
僕は無意識に頷いてしまったが、「今でも」という言葉が少しひっかかった。
まるで前から僕が炭酸水を飲んでいることを知っていたかのような言い方だった。
しかし彼女の顔や名前など一切記憶にない。
もしかしたら彼女が生きていた二年以上前では女子の間で炭酸水が流行っていて、そういう意味での「今でも」だったのかもしれない。
よく考えれば可能性はいくらでも出てくる。
自分にしか見えない幽霊が現われたことで少し自意識過剰になってしまっていたのだろう。
周りに聞こえないよう小声で、「帰るぞ」と伝えてコンビニを出た。
帰り道には一回目の時に見た黒猫が同じ場所にいた。
僕だけではとても静かだったのに彼女を視界にとらえると毛を逆立たせてシャーと威嚇している。
猫にも見えているとわかると、威嚇されているのがおかしく思えてきて笑いがこぼれる。彼女の視線に気づいたのはそのすぐ後だった。
「やっと笑ったね」
妙に恥ずかしくて思わず顔をそらしてしまった。
顎の方から頭のてっぺんに向かって、マグマのようなものがこみ上げてくるのがわかる。急いで顔をあおいで温度を下げるが隣で彼女がクスクス笑っていて、温度はついに沸点まで達してしまった。
3
家についてから、まずはお互いを知ることから始めようと提案すると、「それは後々」と断られてしまった。
彼女に話を聞いてと言われそのまま流される。
「私ね、成仏したいの」
「いや、唐突すぎないか」
「唐突じゃないもん。幽霊なんだから成仏したいと思うのは当たり前でしょ」
「仮に当たり前だとしても僕にその手伝いができるのか?」
彼女は呆れ顔で僕を見て、わざとらしくため息を二回吐いた。
「私のことが見えてるのは誰?」
「僕です」
「私の声が聞こえるのは?」
「同じく僕です」
「じゃあ私を手伝えるのは?」
納得してしまい沈黙する僕に追い打ちをかけるように同じ質問をしてくる。
とうとう僕は彼女の威圧に押し負け、成仏を手伝うことになってしまった。
「そしたら、まずは私のことを名前で呼んで」
「わかったよ、綾瀬」
僕は当然のごとく苗字を口にした。
しかし彼女は気に召さなかったようで、さっきと似た呆れ顔を見せた。
「違う。下の名前」
なぜ下の名前で呼ばなくてはならないのかという疑問があるが、手伝うと言ってしまったからには従うしかない。
「わかったわかった。りん。これでいいんだな?」
「うん。よろしくね、えーっと……」
彼女の迷うような顔を見て、自分の自己紹介がまだだったことに気づいた。
「久我まさきだ」
僕が名前を言うのとほぼ同じタイミングで彼女が言う。
「じゃあ、まさ君だね」
そんな呼ばれ方をしたのはいつぶりだろう。
誰に呼ばれていたかも思い出せないということは幼稚園の頃だろうか。
思い出そうとしても記憶に黒いもやがかかって、なかなか思い出せない。それどころか、思い出そうとするほど全身にもやが広がっていく気がしてこれ以上考える気になれない。
だんだん気分が悪くなってきて意識が遠のく。
薄れ行く意識の中、彼女が泣きながら謝っている声が聞こえた。
慌てて飛び起きると部屋には彼女の姿がなかった。散歩にでも行ったのだろうと思い、特に探しはしなかった。
何もないまま時間が過ぎ、母が帰ってきた。
彼女かもしれないとも思ったが、玄関から堂々と入ってくるわけがないと思い直しソファに腰を下ろす。
母がリビングに入ってきて、「ただいま」、「おかえり」に続けていつものように会話をする。
「どうした、暗い顔して。また昔のことでも思い出してたの?」
「なんだよ。昔のことって」
「また恍けて。一つしかないでしょ。まだご飯できるまで時間あるからシャワーでも浴びてきなさい」
僕は母に言われた通りシャワーを浴びることにした。暗い顔をしているのは事実だろうし、今はあまり人と話したくない気分だ。
シャワーで体を流しながら母の言っていたことを思い出した。「昔のこと」とは一体何のことだろう。記憶がはっきりしない。
今思いつくのは、未だに恋愛経験がないことくらいだ。しかしそれを、「昔のこと」とは表現しないだろう。
まだ春休みが始まって一日も経っていないのに、謎が増えすぎている。春休みになると謎が増える、という設定はないが、それなら尚のこと不可解だ。
全身洗い終え、脱衣所が濡れないように小タオルで水分を取る。
風呂場を出てからはバスタオルで全身を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。長考してのぼせてしまったのか、手元がおぼつかない。
スイッチを切ったところで鏡に映る自分の姿を初めて認識した。
汗は流せても張り付いた仮面は流せなかったらしく、暗い顔の僕がそこにもいた。このままではまた母に何か言われかねないと、強めに頬を叩き仮面を落とす。
リビングに戻り炭酸水を飲んだ。思えば彼女が現われたせいで昼に何も食べることができなかった。
彼女は幽霊だから、何も食べなくても大丈夫なのだろうか。それとも食べられないのだろうか。というか、寝床はどうするんだ。幽霊は寝ないのか?
彼女のことを考えていると、また気分が悪くなってきた。胃液がグラグラと沸騰しているようで喉が熱い。これは今飲んだ炭酸水か空腹のせいでもあるのだろう。そうであってほしいと思った。
時計を見ると、短い針が六と七の間まできていた。もうこんな時間か、とも、まだこんな時間か、とも、思うことはなかった。
動き続ける秒針を見つめていると、「昔のこと」を思い出した。
一時期、過去に戻りたいと強く願うことがあった。理由は思い出せないが、ただただ時間が巻き戻ってくれたらと考えていた。
自分でもよくわからないが、これ以上は思い出そうとしない方が良い気がした。
夕飯の時間になっても父は帰ってこなかった。残業で日をまたぐことになるそうだ。
今日はコロッケがおかずのメインで、カニクリームコロッケとカレーコロッケと牛肉コロッケがある。全て半分に割って中を冷ましてから口に運んだ。
途中で物足りなく感じ、ソースをかけていなかったことに気づく。
コロッケなどの揚げ物には何をかけるか、という議論がよくありがちだ。僕は断然、王道、ソース派だが、身近な人にケチャップをかける人がいた気がする。
自分だけでは誰だったか思い出せず、母に尋ねる。
「母さんってコロッケには何かける?」
「私はソースよ。というか、うちの家族はみんなソース派でしょ」
「あー、そうだったそうだった。だめだな、最近忘れっぽくて」
冗談交じりに言ったが、最近、いや、今日一日だけで思い出せないことがたくさんあった。さすがにこの歳で病気、ということはないだろう。ならば直に思い出すと自分に言い聞かせた。
それよりも、ケチャップ派は一体誰だったのだろう。そんな珍しい人を簡単に忘れるわけないはずなのだが。
試しにカニクリームコロッケにケチャップをかけて食べてみたが、当然合うはずもなく、ケチャップ派が誰なのか思い出すこともなかった。
口の中に不快感が残ったため、食器を片付けてからすぐに歯を磨いた。
自室に戻ると昼間のことを思い出した。
家の中に見知らぬ女の子がいたと思ったら、自分のことを幽霊だと言い張り、とどめは本当に幽霊だったなんてオチだ。
思い返してみると、あまりの非現実さに目まいがする。
この目まいはこれからも続くのだろう。彼女が成仏できるまでこの非現実に付き合わなければならない。そう思うと胃が痛い。
目まいと胃痛に見舞われ、ベッドにうつ伏せで倒れこんだ。
今日一日密度が濃すぎて、僕はもう限界だった。
余裕のないはずの脳に彼女の姿が浮かぶ。今彼女はどこで何をしているのだろう。自分の家にでも帰っているのだろうか。帰ったところで家族からも姿は見えないのだろう。
便利な気もするが、単純に考えれば可哀想だ。しかし、幽霊に同情したらキリがない。
僕はそこで哀れみを打ち切り、電気を消す。
結局、彼女は姿を現さなかった。
4
高校生活初めての春休み。
僕は意味もなく近所を散歩していた。それも一日や二日のことではない。毎日外をうろついていた。
朝の九時頃に家を出て、昼になったらコンビニのおにぎりと炭酸水で腹を満たした。そして特に決まりのないルートをぽつぽつと歩き回り、夕方の四時頃には家に帰った。
モノクロの世界に迷い込んだかのように、青いはずの空は真っ白に染まっていた。
その年は春休み初日から桜が咲いていたが、ひらひらと舞い散るそれは、乱雑に切り刻まれたコピー用紙のように見えた。
道行く人々の声、コンビニの入店音、踏切の音、耳に入る全ての音に恐怖した。
中学の帰りに寄り道していた公園は、毎日かかさず通った。
ベンチに座り、頭上に広がるキャンバスのような空に何度も色を付けようとした。何度も何度も手を伸ばし、空を掴もうとした。
あれを引っ張って落とせたら、白も黒もなくなり、全ての境界線がなくなるかもしれない。
そしたらどうだろう。誰もいなくなった世界に立てば何かが変わっただろうか。
滑り台の上に立ち、手を伸ばす。
ブランコを大きく振り、手を伸ばす。
ジャングルジムにも木にも登った。
何が悲しくて、何から逃げていたか、今はもう思い出せない。思い出したくもない。きっと、高校に入学してから何かあったんだ。それだけで十分だ。
家に帰ってからは自室に籠っていた。
リビングにいても母と話すことはないし、テレビも見たい気分ではなかった。
夕食の時間になったら母に呼ばれ、テーブルに着くとろくに噛まずに完食して食器を片付けた。
そういえば、コロッケがおかずの日が一日だけあった。なぜかケチャップをかけて食べていた気がする。なぜあんなに不味いものを食べていたのか、不思議だった。
食後は風呂に入り、歯磨きをしてすぐに寝た。そんな毎日を約二週間の間続けていた。
5
アラームの音に起こされ、不快感を覚えながらも体を起こした。時計を見ると、朝の十時。何度か無意識にアラームを止めてしまっていたようだ。
僕のアラームのかけ方は特殊で、七時から三十分刻みにスイッチを入れている。九時を過ぎるとそれが十五分刻みになる。つまり僕は、八回も無意識のうちにアラームを止めていることになる。
そんなに疲れていたのだろうかと、歯を磨きながら昨日のことを思い出す。
顔を洗い終えたところで彼女のことを思い出した。
僕は急いで着替えて外へ飛び出た。特にあてはなく、とりあえずコンビニまで走った。どうしてこんなに急ぐのか自分でもわからない。ただ、手伝うと約束してしまった以上は最後まで付き合いたい。
もう成仏してしまった、なんてオチはごめんだ。
今日は黒猫の姿がない。運がついているなら早く見つかってくれ。そう願った。
コンビニに入ると、聞き覚えのある気の抜けた挨拶が聞こえた。走るのに必死で忘れていたが、僕は昨日このコンビニに二回来たんだ。
入店してから突き当りのおにぎりの棚まで進み、右に曲がる。パンのコーナー、飲み物、雑誌、狭い店内をグルグル回り、お菓子が置いてある棚に来た。
「遅いぞ」
そこにいた女の子が頬を膨らませて言った。彼女だ。
「罰としてこれ買って」
そう言って彼女は縦長の箱を僕に押し付けた。
箱の表面には冬季限定と書いてある。もう春だろとツッコミを入れたかったが店側にもいろいろと事情があるのだろうと思い、呑み込んだ。
彼女が選んだのは、棒状のクッキーにチョコがかかったもので、周りにはココアパウダーがまぶされている。
「冬の口どけ」と掲げているが、この文字を箱から除いたら冬季限定とは誰も思わないだろう。それくらい冬っぽさがなかった。
僕が冬季限定商品を作るなら、間違いなくホワイトチョコを用いる。見た目が白ければ大体の人は雪を想像し、冬を連想するだろう。これなら、「冬の口どけ」なんて書かなくても冬季限定だとわかる。
そういえば彼女の肌も雪のように白い。幽霊だからなのか、生前からなのかはわからないが、その色は春であることを忘れさせる。
彼女の白い手が、また一つ商品を持つ。
「あとこれも買って」
僕から見ればそれはとても自然なことだ。彼女が僕にお菓子を要求したことを言ってるのではない。商品を手に持ったことだ。
彼女は幽霊で、僕以外の人には姿が見えていない。だとすると、他の人から見たら彼女が商品を持っているのはあまりにも不自然だ。浮いているように見えるのだから。
そのことに彼女は気づいているのだろうかと内心不安になり、小声で伝える。
「あんまり人がいるところで物持つなよ」
「なんで?」
彼女が首をかしげる姿を見て、さらに不安が募る。
「お前幽霊なんだぞ。周りから見たら浮いてるように見えるだろ」
「あ、そっか」
彼女は納得した顔で手に持っていた商品をそっと棚に戻した。辺りをキョロキョロと見渡して、「誰にも見られてないよね?」と僕に聞いてきた。
僕が手のひらを上に返し、「さあ?」と首を曲げると、彼女の顔に焦りの表情が浮かぶ。
「とにかく早く出よう」と急かされ腕を掴まれる。なぜ彼女がここまで焦るのかはわからない。どちらかといえば焦るのは僕の方だろう。
焦る彼女にお菓子の箱を見せて、「これは?」と聞く。
少し唸った彼女は僕の腕から手を離し、購入を促した。
レジに行き商品を台に置く。気だるげな店員が小走りでレジに向かってきて、バーコードを読み取った。
「一点で三百三十円です」
思っていたよりも高くて、画面に表示された値段を思わず二度見した。
恐らくわざと高いのを選んだのだろう。勝手に現われていなくなって、さらには怒って、どこまでも自分勝手なやつだ。
いつもだったらレシートは受け取らないが、彼女に見せるためにあえて受け取った。
店を出ると、彼女は駐車場の縁石に腰をかけて待っていた。
「車来たら危ないぞ」
「いいの。どうせ死んでるんだし」
彼女が口にした、「死」という言葉にひどく胸を締め付けられる。ところどころ髭のように飛び出した麻縄がチクチクと刺さった。我慢しようと思えば我慢は出来る。そんな痛みだった。
口出しはしない方がいいとも思ったが、耐え切れず僕は口を開く。
「そんなこと言うなよ」
僕の冷たい声を聞いて、それまで地面に視線を落としていた彼女がこちらを見上げた。
「俺にはお前の姿が見えてんだ。声が聞こえてんだ。俺に見えてるお前は、生きていようが死んでいようがそこに存在してるんだ。だから……」
段々と声に熱が籠り勢いを増したが、その先がどうしても言葉にならなかった。
悔しくて見下げた地面から彼女に視線を戻すと、深く澄んだ丸い瞳がわずかに潤んでいる。やがてその小さな瞳から、一粒、一粒、としずくが零れ落ちる。
彼女は自分が泣いていることに気づいていないようで、まだ僕の目を静かに見つめている。
「ご、ごめん。言い過ぎた」
僕が謝って視線をそらすと、彼女がやっと自分の涙に気づいた。急いで拭っているが、止まらない涙に自分でも困惑しているようだ。大丈夫か訊ねると、手のひらを僕に向けてすぐに止まると自信なさげに言った。
彼女が泣くのはこれで二回目だ。このペースでいくと、一日一回は泣くことになる。
人は何事も繰り返せば慣れてしまうものだから、明日、明後日、と泣かれ続けたら僕もさすがに慣れてしまうのだろう。そうなった時、僕は上手く慰めることができるだろうか。
これが杞憂だといいのだが。
彼女は一分ほどで泣き止んだ。二回目にしてもう慣れてしまったのだろうか。
そして僕が忘れかけていたことを彼女が口にする。
「よし。そろそろ成仏について話そうか」
6
とりあえず、僕の部屋で彼女に説明を受けることになった。
方法以前に成仏とは何か、成仏するとどうなるのかを聞く。
「えーっとですね、簡単に言うと消えます」
「それはなんとなくわかってたよ。でも消えるにもいろいろあるだろ。いつの間にかいなくなっちゃうのか?」
それは少し嫌だなと思い、何気なく聞いた。
「いや、それはないはず……」
自信なさげな言い方をした彼女が僕から目をそらし、続ける。
「なんかこう、体がどんどん薄れていくんだよ。多分……」
「とりあえず、その曖昧な表現は禁止だ」
「し、仕方ないでしょ。私だって成仏なんて初めてなんだから」
「確かに、言われてみればそうだな」
「でもね、一つだけ確かなことがあるの」
彼女が身を乗り出して言うもんだから、僕の体が後ろに傾く。なんとか体勢を立て直し、彼女を押し戻してから、「それは何?」と聞くとすぐに答えが返ってくる。
「それは、私の願い事を叶えれば成仏できるということです」
「願い事?」
「はい。例えば、昨日名前で呼んでもらったこととか」
「名前で呼ばせたのはそういうことだったのか。先に説明してほしかったな」
でもそう考えると成仏の手伝いは、案外簡単なのではないだろうか。そう思った矢先、彼女が言う。
「今、案外簡単なのでは、って思ったでしょ?」
「な、なんでわかった。幽霊ってのはそういう能力もあるのか」
「ないから。他の人から見えないこと以外は、生きてる人間と何ら変わりないから」
「じゃあなんでわかったんだ」
彼女はため息を吐いてから言う。
「顔に書いてある」
僕が慌てて鏡を探す仕草をとると、彼女が元気良くツッコミを入れてくれた。
二人で大笑いしていると時間が止まっているような感覚になる。僕の中で止まっていた時間がそれに追いつこうと必死に針を回す。長針も短針も秒針もバラバラだが、三つの歯車はたしかに噛みあっている。
それもこれも彼女のおかげなのだろう。思えば、出会って二日も経っていないのにここまで打ち解けているのは奇妙なことだ。幽霊がいるんだ、前世やそれよりもっと前に彼女と出会っていたと言われても僕は信じるだろう。そのくらい、彼女との会話に懐かしさを感じ親しんでいた。
「水性と油性どっちだ?」
「その話はもういいから」
笑いが途切れてもホットな僕に対して、彼女はとてもクールだった。
彼女はあまり後に引っ張らないタイプのようだ。僕も諦めて次の話に入ることにした。
「それで、残りの願い事は何があるんだ」
彼女は顎に手を当て、少し迷った表情を見せた。とりあえずと前置きして彼女が続ける。
「遊園地に行きたいです」