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第7話 都は涙に漱ぐ

――遠く山々の裾が、オレンジ色に染まった太陽を少しずつ地平線へと引っ張ってゆく。この調子ならば、まもなく夜が訪れるだろう。西の空にかかる雲も、今は白い装いを捨て、橙色のドレスを身に纏っているようである。屋敷を出た先に広がっているこの無駄に広い庭の一角が、マーティン家の使用人である大原隼太と、その精霊との初めての邂逅の場であった。


「...精霊ってみんな人みたいな見た目してる訳でもないのか。」


「あたしもこんな子初めて見たわぁ。あたしが会ったことある精霊はみーんな人間みたいな見た目だったわよぉ?」


隼太とシクリーがいかにも不思議そうに見つめる視線の先には、意思を持つとは到底思えない、異質な存在が立っている。


「なんつぅか、一言で言うなら『木』って感じだな...」


隼太の意識によって姿を現したその人影。それは隼太の思い描いていた精霊の容姿とはあまりにかけ離れていた。綺麗に鉋をかけた木材で作られた彫刻のような体、関節の構造はマネキンのようで、顔には口や鼻、耳は存在せず、瞳の存在しない楕円形の物体が二つ、目のように付いているだけ。最も特徴的なのは頭に二本、角のような枝が左右対称に生えているところである。


『私のこの見た目は私自身の能力の影響を大きく受けた結果だと言ってもいいでしょう。その能力に対するあなたのイメージ、といった方が正しいでしょうが...』


「俺の...イメージ?」


『そうです。私は元々この世界に存在していた精霊ではありませんので。あなたが此方に来るのと同時に私も生まれたのです。』


「…なるほど、だから生まれる際の材料、いわばDNAみたいなものが俺の記憶や、能力に対するイメージだったって訳か。」


『その通りです。』


さすがに自分から生まれた存在となると話が進むのも早い。この精霊とやらがどうしてこんな見た目になったのかも大体わかった。


「ちょっとぉ、二人で盛り上がってるとこ悪いんだけどぉ...……お兄さんそろそろ夜のお仕事の時間じゃなぁい?」


「夜のお仕事って言われるとなんだか卑猥に聞こえるな...ってもうそんな時間か!?」


先ほどまで夕日に赤く染まっていた空も、今はだんだんと色を失いつつある。反対の空にはとっくに月が昇ってきているようだ。


「まずいな...また赤髪の口うるさい先輩にグチグチ言われちまう...」


「ほらぁ、もう行った方がいいんじゃなぁい?」


「まだいろいろと聞きたいことがあるんだが...今は一旦切り上げだ!屋敷に戻るぞ!」


初めて姿を見る自分の契約精霊との会話は一旦ここまでのようだ。


そうと決まれば急いで屋敷に戻る。幸いここは屋敷の目の前の庭であり、屋敷の中に戻るには1、2分ほどしか掛からないだろう。


「っと、ここまではいいんだが、グロース、お前はどうするんだ?いつまでも姿が見えると俺が気になって仕事に支障が出そうなんだが...」


『それに関しては問題ありません。私はあなたの精神の半分。ならばあなたの中に戻れば良いだけの話です。以前の状態と何も変わらないでしょう。』


「お前そんな器用な事もできるのか...まぁそれができるなら頼むよ。上手くやろう。」


グロースは短く返事をすると、次第に姿を消して行く。体が霧のように分解し、視界から姿を消してしまった。


「なんか死ぬ時みたいな消え方するんだな...」


「へぇ~器用なのねぇ。つくづく不思議な子だわぁ。」


「お前は消えたりできないの?」


「そんな事出来るわけないじゃなぁい。普通の精霊はみんな常に顕現してるわぁ。まぁ特別な道具があれば消えることはできるけど...精霊術士以外には見えないだけよぉ。」


「へぇ〜、なんだか変なもんだな。」


彼女によると、どうやら全ての精霊が自由に出たり消えたりできるわけではないらしい。半霊半人、それは隼太だけでなくグロースにも当てはまることであり、それだからこそ出来る芸当なのだろう。



そんな事を考えながらシクリーと二人で屋敷へ歩いていると、ふと庭の奥の方から固い物が地面にぶつかるような音が響いてくる。不思議としばらく前に同じような音を聞いたことがあるような気がした。いつの間にか暗闇に包まれている庭の奥、そこに目をこらして見てみると...


「なんだあれは...?」


目を疑う程、やけに大きい爬虫類...否、竜である。青い鱗に守られた力強い体は、逞しい四本の脚で地面を颯爽と走りながら体に繋がれた車を引く。その姿はまさにレティシアが言っていた竜車そのものであった。この屋敷に来てからも何度か目にしたが、やはりなかなか目には慣れない。


「改めて見てもでけぇな。俺はあんなもんに轢かれたのか...自分の体の丈夫さとレティシアの治癒魔法に感謝だなマジで...」


マーティン家はそれなりに裕福な貴族の家柄であり、先ほども言ったように、そこに仕える隼太は何度か使者として来訪する者が竜車に乗ってきているのも何度か見ていた。


しかしこの暗闇の中で出くわすとなるとまるで見え方も違う。あれほどの物に轢かれたならば、柔な人間なら即死は免れないだろう。そう考えると背筋がゾッとする。


「でもなんでこんな時間にこんな物が...?普通は昼間に来るもんだが...」


そんな疑問がふと頭をよぎる。何度か竜車での来訪は見ているものの、夜間に使者が訪れるのは初めてのことである。だがそんな事に悩まされる必要はなかった。なぜなら、その答えは中から飛び降りて来た、正装を身に纏う青年、彼の口からすぐに飛び出てきたからである。


「――レティシア様とアロイジウス様を今すぐここへ!賢人会からの緊急の招集である!」


***************


「一体なんの騒ぎじゃ!?」


屋敷の中央の階段から、2階にいたアロイジウスが降りてくる。屋敷の広い玄関、その扉の前に青年は立っていた。背丈は175cm前後で、紺色の髪を少し長めに伸ばしている。目元は鋭く、きっと彼は自分自身に非常に厳しい性格なのだろうと思わせる。白を基調とした制服のような服をキッチリと着こなし、まさに出来る男、といった印象だ。年は隼太と大差なさそうだが。


「夜分遅くに大変申し訳ございません。私の名はアゼル・スタンフォード。近衛騎士団所属の騎士でございます。この度は賢人会からの緊急の招集をお伝えしに参りました。」


近衛騎士団。それについての説明は必要ないと言っても良いだろう。王家に直接仕える近衛騎士は国内の騎士団員の中でも選りすぐりの実力を持っていることは容易に想像が付く。とはいえウェルドは公国、つまり王は存在しないので、公爵やそれ同等の要人に仕えているのだろうが。


「賢人会からの招集じゃと...?それで、招集の理由は何じゃ?」


賢人会、その言葉を耳にしたアロイジウスの顔はいつになく真剣そのものであった。いつもの陽気な彼とは別人のようである。


「それが...大変申し上げ辛いのですが、予てより体調をお崩しになられていたウィンストン公爵様の容態が急変しまして...」


「何!?ウィンストンがどうした!」


アゼルの顔には悔しそうな表情が浮かぶ。竜車から降りてきた時から彼の顔色は優れない。彼の様子、そして話の流れから見るに、ただ事ではなさそうな雰囲気である。そして静かに彼が口を開く。



「本日の昼過ぎに公爵様が――お亡くなりになられました。」



その瞬間、文字通りに場の空気が凍り付いたのではないかとさえ思った。アゼルの口から静かに語られたのは、このウェルド公国を治める公爵の死であった。その知らせを聞いた瞬間、アロイジウスの顔には明らかな動揺が浮かぶ。


今この場にいるのは隼太、アロイジウス、シクリー、メイドであるダリアとカリーナ、そして近衛騎士だと名乗るアゼルだけである。レティシアはまだこの場には到着していない。エラはもう寝てしまっているのだろうか。


「そんな...!いくらなんでも急すぎるじゃろう...!」


「公爵様と親交の深いアロイジウス様が悲しまれるのは当然のこと...しかし今はその時間もございません故。」


「しかし...……いや、分かっておる...ダリア、早速ですまんが出かける用意をしてくれんか。」


「承知しました。旦那様。」


ダリアはその小さい体を折り曲げ、後ろを向いて歩き始める。玄関に残された人間はただダリアの帰りを待つだけであった。アロイジウスは悲痛な表情を無理矢理に上塗りしてそれを隠す。握りしめられた両手には青い血管が浮かび上がっている。


ダリアが屋敷の玄関を離れて少し後、2階の奥の廊下から激しい足音が聞こえてきた。


「はぁ...はぁ...お爺さま!一体何が!?」


「レティシア...!それがじゃな...」


「突然の訪問、大変ご迷惑をお掛けしました。初にお目に掛かります、レティシア様。」


未だ表情に悲しみの色が消えないアロイジウスの言葉に割って入った声は、アゼルのものだ。


「近衛騎士、アゼル・スタンフォード。この度はこのウェルド公国を治めていらした公爵様がお亡くなりになられた件と、それに伴いレティシア様とアロイジウス様に首都までご同行願いたい件をお伝えに参りました。」


「...え?今、なんて?」


先ほどまで息切れしていたはずの呼吸は一瞬にして嘘のように落ち着き、耳に入ってきた言葉が信じられないといわんばかりに目を見開いてただ立ち尽くしている。


「公爵様が...亡くなったですって...?」


アロイジウスと同じように、レティシアの顔からもサーッと血の気が引いていくようだ。


「私としてもお仕えする主を失いました。悲しい気持ちは痛いほど分かりますが…今はとにかく外出の用意を。」


「――――」


アゼルの言葉は今のレティシアには少し厳しすぎるように感じた。一国の主が前触れもなく急に命を落としたのだ。ショックを受けるのも当然。しかしアゼルはその猶予を与えない。そのせいもあってかレティシアは地面を見つめて小さく震えている。それが彼、アゼル・スタンフォードの性格なのだろうが、今の状況には全く不合いだと言えるだろう。


「――それに加えて、誰か付き人を付けるようにお願いしたい。今は竜車が一台しかありませんのでできれば一人だけでお願いしたいのですが...」


付き人。なるほど確かに彼の言うことは最もだろう。要人2人だけを身内の者無しに連れて行くのではさすがに心許ないと言わざるを得ない。近衛騎士である彼がついていれば何も問題はないだろうが、護衛や身の回りの世話をする人間が一人付くのは当然だと言える。


「付き人、か...メイド長であるダリアを家から離す訳にはいかぬだろう...エラはカリーナがいないとダメじゃしのう...」


アロイジウスは消去法で付き人を選んでいるようだ。この家のメイド長を務めるダリアは無論屋敷に残す。となると選択肢は3つ。カリーナ、エラ、隼太の3人である。カリーナと隼太ならどちらでも十分な働きはするだろうが、エラの扱いに長けたカリーナは残った方がいいだろう。となれば...


「ハヤタくん、いきなりですまんが、儂らと首都まで付いてきてくれんか?」


「まぁ、この中だとどう考えても俺でしょうね...分かってます。もちろん喜んで同行させて頂きます。」


隼太の返事によってこの旅のメンバーは決定した。レティシア、アロイジウスとその精霊のシクリー、アゼルに加えて隼太。グロースを含めれば6人だが、今は引っ込めているので現状はこの5人で首都へ向かい、賢人会の面々と話をする事になった。


「旦那様、既にご用意出来てございます。」


「おぉ、ありがとうダリア。突然じゃが、屋敷を頼むぞ。」


「無論、何事も平時と変わらぬよう努めます。」


こう見るとダリアはメイドの鏡と呼ぶに相応しい態度と働きである。突然の出かけ支度を即座に済ませ、屋敷の無事を約束する。当然といえば当然だが、若い彼女の心身には、既にメイドとしての基礎がしっかりと出来上がっている。まさにメイドのあるべき姿と言えるだろう。


「...時にハヤタ。」


「はい?」


「旦那様とレティシア様を頼むわよ。何かあったら首が飛ぶと思いなさい。無能は無能らしく肉の壁として精一杯主人を守ることね。」


ーー前言撤回である。やはりこの人は隼太にとって、メイドとして、そして人としてあるまじき存在であった。


************


首都へ向かう竜車の中、弾む会話などあるはずもなく、ただ重苦しい空気が流れている。


竜車は夜通し走り続けている。アロイジウスは静かに窓の外を見つめ、レティシアはずっと俯いたままだ。アゼルはまっすぐに背筋を伸ばし、目を閉じて座っている。シクリーはアロイジウスの膝の上で脚をぶらぶらさせている。


そんな人たちの中で隼太はずっと気まずい思いをしながら車に乗っている。


「あ、あとどれくらいで到着するんですかねー...」


この重い空気を少しでも軽くしようと隼太が口を開く。誰も反応しないという悲しすぎるパターンも想定していたが、どうやらそこまで冷たくはなかったらしい。


「...あと2時間ほどだろう。だんだんと空も明るんで来た。」


ずっと目を閉じたままのアゼルが静かに答える。夜の間止まらずに走り続けた竜車はその疲れを感じさせないほどペースが全く落ちない。あと2時間、されど2時間。早く着いて欲しいと願うばかりである。正直、隼太の体にはだんだんと疲労が溜まりつつある。竜車の乗り心地は決して良いとはいえず、さらに同じ体勢で長時間座っていれば疲れて当たり前だ。到着したら降りる際の案内という名目で一番に竜車を降りようと考えていた。


――しかし次の瞬間、体が前に吹き飛ぶような感覚が突然車内の全員を襲う。高速で走り続けた竜車が突然止まったようだ。


「っ!!」


突然目の前の景色が回転する。体は上下の感覚を失い、激しく車内を転げ回る。急停止による車内への被害は少なくない。


「…お?痛...くない?」


激しい衝撃に身を襲われたが、不思議なほど怪我や傷は全くない。おそるおそる目を開けると自分の背中から木のような手が伸びているのが見えた。


「グロース!」


『あなたの危険は常に私が守ります。』


頼もしい精霊の言葉が聞こえた。それによって冷静さを取り戻した隼太は、すぐに車内を見回す。


「ぬぅ...いきなり何じゃ!?」


「いたたた...なんで止まったの?」


「皆さん怪我は!?」


どうやら車内のみんなは無事のようだ。とりあえず一安心。しかし衝撃の原因の謎が解けた訳ではない。


「皆さん無事で何よりです。すみませんが私は御者に何があったか聞いてきましょう。竜車をこんな風に止めるなど、ただ事ではありますまい。」


そう残し、アゼルは颯爽と竜車を降りる。外からは特に異変を感じさせるような音はしなかった。


――しかし、10分、15分…しばらくしても彼は一向に戻ってくる気配がない。緊急だとしても、いくら何でも長すぎる。簡単な報告くらいあってもいいだろう。


異変を感じたレティシアと隼太は外の様子を見るために、ふと窓から外を覗いてしまった。



しかし、それが彼らの運の尽きだった。



窓の外にあったのは、竜車を操縦する御者の惨殺死体、近衛騎士であるアゼルの切り傷だらけの体、そしてその犯人と思われる、両手にナイフを携えた怪しい男の姿であった――


*************


――竜車を降りたアゼルの目には信じられない光景が広がっていた。刃物で何度も刺されたような傷が体に生々しく残る御者と、血塗れのナイフを持った男の姿。男はボロボロの布きれを頭から足の先まで被っている。恐らくまともな身分の者ではないだろう。


しかし、幾度となく死線をくぐり抜けてきたアゼルには、即座に男がただ者ではないことが分かった。


「貴様...何者だ。」


アゼルの冷たい声が朝焼けを待つ空に響く。目の前の男は返事をせず、手元の2本のナイフをじっくりと見つめているようだった。


「貴様がやったのならこれは紛れもない重罪だ。状況が状況だ。私には君を生け捕りにして公正な裁きを受けさせるだけの余裕はない。故に――」


アゼルの右手が左の腰に刺さっている騎士剣を抜き取る。磨かれた美しい刃は近衛騎士の実力を有する者だけが持つことを許された一級品である。


「大人しく投降しない場合、速やかに君を斬らせてもらう。これは国を守る正義の剣だ。」


その誇り高き言葉がアゼル・スタンフォードと男の開戦の合図であった。無論、アゼルは国内でも有数の実力者。かなりの実力を持つ者でなければ彼とまともに剣を交えることは出来ないだろう。


そしてそれは目の前の男も例外ではなかった。彼はアゼルの剣にナイフを当てる事すら叶わない。鋭い剣筋を無理矢理に交わしているようだ。しかし...


「ぐっ...!」


誰もが目を疑うだろう。先に音を上げたのはアゼルの方であった。


なぜだ。自分の剣は相手の男を圧倒していた。剣をまともに交えることもできない程度の実力だったはず。それなのに、傷が付いているのは自分の体だけであり、彼は未だ健在である。


「人間の『血』ッてのはよォ~~~~~~~~~!!ワケわっかんねェよなァ~~~~~~!?」


「...……いきなり何を?」


「口に入れる『水』は透明なのによォ~~~~~~~~~??体開いて出てくる『血』はなんで真っ赤なんだァ~~~~~~~~~~~??」


...どうやら男は狂っているようだ。目の前の男とはまともな会話は出来そうにない。


あれほどの剣撃を防ぎ、さらにアゼルにダメージを与えるほどの実力者とは到底思えない。よく見れば顔の肉はほとんど無く、ただその瞳だけに怪しい光が点っているようにさえ見える。


「わァっかんねェなぁ~~~~~~~~~!!イライラしてくるぜェエエ~~~~~~~~~!!!俺は俺に理解できない事が大ッ嫌いなんだよォ~~~~~~~!!!!!」


彼は叫び声を上げた後、両手のナイフを握りしめ、歯ぎしりを始める。両足には見るからに力が入り、アゼルの方へ跳躍して襲いかかるつもりなのだろうか。途端、彼の右手に握られていたナイフがアゼルの方へ飛んで来る。男はアゼルに隙を作らせるために投げたのだろうが、それはあまりに浅はかな行動である。アゼルはそれを最小限の動きでかわし、次の攻撃に備える。


男はすでに跳躍体勢に入っていたが、そうはさせないと言わんばかりにアゼルの剣が牽制に入る。闇夜の月に映える刀身がスラリと男に伸びる。その剣のスピードは人類の到達できる域を軽々と超越していると言ってもいい。才のない者がどれほど修練を重ねようとも、この域には達する事はできないだろう。だれもが目の前の男はアゼルの剣によって串刺しになったと思うであろうその一撃。しかし――


「読みが甘いんだぜェ~~~~~~~~~~!!俺はもうお前の後ろにいるんだからよォ~~~~~~??」


その言葉がアゼルの耳に入った時はもう既に手遅れだった。男の持つナイフがアゼルの制服を貫き白い首筋に突き刺さっていた。あまりに決定的な一撃であった。


どれほどの実力者でも、首に直接ナイフを突き刺されたのでは一溜まりもない。一瞬でアゼルは意識を失い、手をつく間もなく地面に倒れる。国内有数の実力者である近衛騎士アゼル・スタンフォードは、通りすがりの身元も知れないような男に完全に敗北したのであった――


*************


何が起きたのかまるで理解できなかった。初めて見る人の死体。それもここまで酷い殺されかたをしているとは。喉の奥から熱いものがこみ上げてくるが、これでは彼らにあまりに失礼であろう。必死にそれを飲み込み、静かにアロイジウスに話しかける。


「...近衛騎士ってのは相当な実力の持ち主なんじゃないのか...?」


「うむ...それは間違いないじゃろう...近衛騎士団は騎士団の中でも選りすぐりの実力者しか入団を許されんはずじゃ。」


「それがこんな一瞬で...」


圧倒的。その言葉が最も良く当てはまるだろう。国内選りすぐりの実力を持つ彼がこうもあっさりと殺されてしまうとは。あの男はそれ以上の実力を持っているという事なのだろうか。


「……まだ...生きてる。」


自分たちもあいつに殺されるかもしれない。心の中に広がりかけていたそんな絶望が、その一言で止まった。


言葉の主はレティシアである。彼女はその惨状を目にしても、動揺するどころか先ほどまで彼女の心を覆っていた悲しみをさっぱり切り捨ててしまったように冷静だった。


「レティシア...」


「あの人を追い払えばまだ彼は助かるわ。私なら分かる。今まで数え切れないくらい傷を治してきたもの...」


「だがアレを相手するのはさすがに...」


未だあの謎の男に対して有効な手が見つからない。今の隼太達には戦力が足りなさすぎた。ここにいる3人は、十分な攻撃魔法を使える者はおらず、かといって剣を使いこなせるという訳でもない。


隼太も剣道では負けた事がないが、近衛騎士をも倒す者が相手となればそんなものでは通じないだろう。まさに八方塞がりである。


「手詰まりだな完全に...このまま身を隠して居られるのも時間の問題だし――」


「――ちょっとぉ、なぁんか一人忘れてなぁい?」


突然、緊迫感のない声が聞こえた。ふと顔を上げると、そこには金色の髪を優雅に垂らしている少女、ではなく、一人の精霊が立っていた。忘れていた。完全にここにはこの3人しか居ないと思っていた。しかしそうではない。そうではなかったのだ。


「シクリー!お前、いたのか!」


「もぉお兄さん、当たり前でしょお。いるに決まってるじゃなぁい。」


「すまん、焦って見えてなかったみたいだ...でも助かった、お前ならアレどうにかできるのか?」


「えぇ?お兄さん、何言ってるのぉ?あたしだけじゃなくてぇ、お兄さんも戦うのよぉ?」


「は??」


この少女――のような見た目の精霊は一体何を言っているのだろうか。自分が戦う?そりゃ一般人相手に負けるとは思えないが、近衛騎士を一瞬で倒せるような怪物を自分が倒せるとは思えない。倒せるはずがなかった。それが昨日までの隼太のままであったのならば。


『私が、います。』


その声は隼太のすぐ耳元で囁かれた。それはさっきの衝撃を守ってくれたものと同じものだ。そして思い出した。自分はもうただの人間ではないのだということを。


「グロース、お前やれるのか...?」


『何も問題はありません。シクリー様だけでも難しい相手ではありませんが、2人いるのならば敗北はあり得ないでしょう。』


「そこまで言うのか...?アレは近衛騎士を圧倒する実力の持ち主だぞ...?」


『騎士を倒せても精霊術士を倒せるとは限りません。精霊術士以外には私たちの姿は見えませんし、何より精霊には一つ、「魔法では到達できない特別な能力」を持っているのです。』


「特別な能力...?」


まだこの世界には魔法とは違う異能が存在していたのか。初めて耳にする情報だ。つくづく奥の深い世界だと思う。


「ハヤタくん、そいつは...?」


「そういえばアロイジウスさんには言ってませんでしたか...出会ったのはごく最近なんですが、こいつは俺の契約精霊ってやつらしいです。」


「なんと!ハヤタくんは精霊術士であったか!」


「なったのはごく最近、というかほぼ今日が初対面です。自分でもまだこいつを完全には理解していませんが...」


「何はともあれそれは良い知らせじゃ...しかし今はそれどころではないのじゃったな...とりあえず作戦をたてるかのぅ。」


隼太とアロイジウスは互いの精霊の特性を考え、作戦を立てる。隼太が持っているグロースに対する情報は少なく、見た目の話くらいしかできない。本人に聞いても、『それはお見せした方が早いでしょう』と言うばかりで一向に能力について話そうとはしなかった。


しかし、もう片方のコンビはさすがに長い付き合いのようで、アロイジウスはシクリーの特性を完全に知り尽くしている。それを簡単に隼太にも教えてくれた。


「液体を、固体に変える能力...?」


「そう。それがこいつ、シクリーの持つ特別な能力じゃ。」


「液体を凍結させるのとは違うのか?」


「嫌ねぇ。氷魔法なんて忌々しいわぁ。あたしは凍らせるんじゃなくてぇ、『固体に変える』能力なのよぉ。」


どうやら彼女の能力では温度変化なしで液体の状態変化(固体化に限る)を行えるらしい。


「お兄さんを気絶させたのもこの能力よぉ。お兄さんの頭に通じる血を固体に変えて血を止めたのぉ。」


「お前そんな危ないことしてたの!?下手したら俺死んでたじゃん!!」


「もぉ~あたしだって何回も使ってるのよぉ?たまにしかミスなんてしないわよぉ~」


「たまにはミスすんのかよ…!!」


そんなツッコミが入ったところで、とりあえずこのくだりは終わりにしておこう。


「でもそんな事ができるなら俺が出る必要なくない...?」


「相手はとびっきり強い騎士さんを倒しちゃうような奴なのよぉ?用心に越したことはないわぁ。」


「それはそうなんだが...」


「それにぃ...」


彼女は紫のドレスを翻し、サッと後ろを向く。顔だけをこちらに向けて一言。


「あなたの精霊は『やれる』って言ってるのよぉ?やらせてあげるのもあなたの仕事なんじゃないのぉ?」


――確かにそうだ。なにを不安になっているのか。自分には彼がついているではないか。彼は初めから『問題ない』と言ってくれていたではないか。


「そうだ...確かにその通りだ。やろう。俺たちであいつをぶっ倒してやろう!」


隼太はなけなしの勇気を振り絞り、決断を下す。初めて相対する人殺し。その恐怖は普段の生活では味わえない緊張感を孕んでいた。


しかし、ここにいるのは隼太だけではない。心強い仲間がいる。だからこの決断を下したのだ。勝とう。勝って全員で首都に向かおう。その意思だけが恐怖を和らげる緩衝材であった。


***************


「さぁ、やるぞ。」


車内から降りた隼太はそう一言だけ呟く。その言葉には恐怖の念を感じない、確固たる意思が確かにある。車と男の距離は50m程。すでに男はこちらに気がついているようだが、すぐに攻撃を仕掛けてこない。


「じゃあアロイジウスさん、作戦通りに。」


「分かっとる。安心せい。」


経験豊富なアロイジウスの言葉は作戦成功の自信を持たせるのには十分だった。さっき急いで立てた簡単な作戦。安直ではあるがそこまで悪くはないだろう。



時間は作戦会議に遡り、



「――まずあいつと当たるのはハヤタくん、君にやってもらいたい。」


「俺、ですか...?」


「そうじゃ。わしのシクリーは確かに人間の血液を固めて殺す事は出来よう。しかし、この能力には欠点がある。」


「欠点...?」


「そうじゃ。欠点、それは、液体の純度が低ければ低いほど固めるのに大きな力が必要になる、という事じゃ。」


なるほど。どうやら液体は純度が高ければ高いほど固まりやすく、低いと固めるためにそれなりのパワーが必要になるらしい。


「特に血のような純度の低い液体には直接力を使う必要があるじゃろう。今回のように一部ではなく全身の血液を止めるためにはのぅ。しかし、直接力を使うには相手に触れていなくてはならん。それをするには奴はいささか速すぎる。こやつはあまり足が速くなくてのぅ。」


アロイジウスは目をつむり、ため息をつきながら首を横に振る。


「だから俺はシクリーの能力が使えるようにあいつにダメージを与えてスピードを落とさせれば良いって訳ですね...正直不安なんですが...出来るんだな?グロース。」


『もちろんです。』


「…よし、そうなれば作戦は決定だ。とりあえずはこれで行こう。」


――という話し合いを経て今に至る。無理矢理で不確定要素の多い作戦だが、これで行くしかあるまい。


「いくぞグロース!俺たちの初陣だ!」


『了解です。』


出陣の会話を済ませ、隼太とグロースは男に駆け寄る。


「なァんだアァァ~~~~~~~~~~???また何か出てきやがったなァ~~~~~~!!」


狂人が大声で怒鳴りつけてくる。目は爛々としており。興奮冷めやらぬ様子だ。男はさっきと同じように、右手のナイフを隼太に向かって投げつけてきた。暗闇で投げられたナイフを見分けてよけるのは簡単ではないが、それをいとも簡単に木製の手がはじき飛ばす。隼太の背中から半身だけ外に覗かせた状態のグロースである。


「あァンだァアアアア~~~~~??そりゃァ~~~~~~!?」


「よし、まずは初手回避!」


しかし喜んでいる暇はない。目の前にいたはずの人影が瞬きの間に姿を消す。ものすごい速度だ。どれほど速く動けば視界から一瞬で姿を消すなんて芸当ができるようになるのだろうか。しかし、


「それについても大体予測は付いてるんだよ!」


アゼルの時と同じように、両手にナイフを持った男が隼太の背後から斬りかかってくるが、そのナイフは隼太の首には到達しない。グロースの手がしっかりと男の腕を掴んでいるからである。精霊を見ることのできない男は、何が起きているのか分かっていないようだった。


「...ところでよ、単純な疑問なんだが...なんで『今』お前はナイフを『2本』持ってるんだ...?」


「ッんだとォ~~~~~??いきなりなんだァテメェ~~~~~ッ!!」


「わざわざ投げた片方のナイフを拾いに行くわけねぇ...そんなことして折角作ったチャンスを逃してたんじゃあいくらなんでもマヌケだよな?」


「なァにが言いてェんだァアア~~~~~!?意味分かんねぇことばっか言われるとよォオオオ~~~??俺は無性にムカついてくるんだぜェエエエ~~~~~!!!」


空中に宙釣り状態の男は、怒りで目が充血し、獣のように歯をむき出しにして唸っている。


「つまりだな...お前は『ものすごいスピードで移動している』んじゃなくて『ナイフを目印として瞬間移動している』って事なんじゃないか?」


「なッ...?」


反応を見るに、どうやら図星のようだ。マーティン家で過ごした2週間、隼太は魔法学について調べていた。その中の「空間魔法」における記述にそのような魔法が存在している事も知っていた。つまり、


「空間魔法を使う『魔術師』...!それがお前の正体だ。」


「くッッそがァァァ!!!」


男は見えないグロースの手を振りほどこうと必死だが、木製の精霊の手が緩まる気配はない。ものすごい力である。


『――ところで』


「お、なんだグロース、まだこいつになんかあるのか?」


『いえ、そうではなく。私の『能力』を今、ここで説明する必要があるかと。』


「そういえば...なにかあるのはこいつじゃなくてグロース、お前の方だったな。」


能力――肝心のそれについての説明は、未だにされていなかった。彼の持つ能力次第でこれからとれる行動もまるで違ってくるだろう。しかしグロースはそれを口で説明することはしなかった。


『見ていてください。すぐに分かります。』


彼はただそれだけ告げると、男を掴んでいる右腕が黄色い光を放ち始める。それに伴い――


「おォ?なんだァ~~~~!?腕のキズが治っていくぞォ~~~~~!!」


「お、おい!?グロース!これはどういうことだ!」


『問題ありません。これで何も。』


何も問題がないだと?そんなわけがあるか。キズを治す能力。確かに魅力的な能力だがうちにはもうレティシアがいる。それになにより敵を治してしまったのでは、回復してしまうだけで効果が無い。


「お前の能力はもう分かった!だから今すぐ止めろ!」


『いえ、まだです。よく見てください。』


「よく、見る...?」


その言葉通り、グロースに捕まれた男の様子をじっくり見てみる。すると...


「...これは...!」


「なァァんだァアア~~??なんだか目が良く見えなくなってきたぞォオオオ~~??それに耳も遠いしよォ~~~?」


まるで見違えるようだった。男の顔には深いシワが刻まれ、それが手足にまで及んでいる。筋肉質な体はすっかり骨と皮だけになっている。


「老化...している...?」


『いえ、「成長」しているのです。』


「...成長、だと?」


『そう。生命は死ぬまで成長を続けます...私はそれを自由に操れるのです。』


捕まれたままの男、もとい老人はすでに動きが鈍くなっている。あの体ではろくに走ることもできないだろう。


『そしてある時期を境に「成長」は「老い」を伴い始める。「老い」を伴ったまま「成長」を続ければいずれ...』


「なるほど...死に至るってわけか。」


その言葉と同時に男の目から光が消える。細くなりつつあった呼吸は止まり、乾いた体は力なく垂れ下がっていた。死んでいる。しかしその表情に苦しみの色はない。完全な老衰による死であった。


「これが...お前の能力か...!」


『その通りです。「成長」、それこそが私の能力。』


隼太の背から姿を見せるその木製人形のような精霊は、自分が殺めた男を見せつけるように高々と掲げていた。まるで自分の能力を誇示するかのように。その奥で朝焼けに染まる青い空が、壮絶な戦いの幕引きであった――


*************


「ぐっ...ハァ...!」


「良かった!意識が戻ったのね!」


「大変申し訳御座いません皆様...!このアゼル、一生の不覚...!」


「そんな事言わなくていいの。貴方がちゃんと戦ったことくらいみんな分かってるんだから。」


「しかし...」


アゼルはなんとか生きていた。あと数分手当が遅れていれば失血により死んでしまっていただろう。ナイフを首に刺されて生きているとは、騎士のタフさには驚かされる。


傷だらけの体をすっかりレティシアに治してもらったアゼルはこれ以上無いほど悔しそうな表情をしていた。無理もないだろう。自分が命をかけて守らなければならない対象に、逆に助けられてしまったのだから。自責の念は溢れて止まらないようだ。


「でもこれ、どうするんだ?御者がいないんじゃ竜車を動かすことなんて出来ないだろう...」


そう。竜車の扱いに慣れた御者は命を落とし、ここにはだれも竜車を動かせる者はいない。竜車の速度は体感で40km前後といったところであろう。それでもあと2時間はかかるという道のりを歩いて行くのでは、あまりに時間がかかりすぎる。襲撃者との戦闘に勝利できたのは良かったが、賢人会の呼び出しに間に合わなかったならば大問題である。


『それに関しても問題ありません。』


苦悩の中、ふとグロースが声を上げる。


「――何?お前竜車操縦できるのか?」


『いえ、操縦するのは私ではなく、あなたです。』


「え、俺?」


この精霊はなにを言っているのだろうか。もちろん隼太に竜車を操縦した経験などない。生物を動力として動かす乗り物は、操縦者と生物との間に信頼関係が出来ていなければうまくいかないことは知っている。それなのにグロースは隼太に操縦させるというのだ。


『無論、このままではありません。』


「?どういう事だ?」


『私の能力「成長」はなにも生命だけが対象ではありません。』


「…どういう事だ?」


『つまり――』


グロースが竜車に触れる。先ほどと同じ光がグロースの右腕から放たれ始める。すると、竜車はまさに驚くべき変化を遂げる。


「――!!これは!!!」


隼太の目の前にあった竜車は、隼太の最も見慣れた乗り物に姿を変えていた。


「ウソだろ、これ、自動車...か!?」


『その通り。「成長」はこの世の全てに作用します。「物体の概念の成長」。それもまた私の能力です。』


これは言葉通りの革命である。過言でもなんでもない。産業革命期を丸ごと飛ばして、現代技術の結晶である自動車がこの世界に姿を現した。「物体の概念の成長」。


なんという能力だろうか。この能力を使えば現代の物をなんでも取り寄せることができるかもしれない。現代知識を使いで商売する、なんてことも考えたが、これはそれどころの騒ぎではない。時代を180°変えてしまう程の能力である。


「これは何じゃハヤタくん!?竜がいなくなっては徒歩で首都に向かう事になるぞ!?」


アロイジウスは驚きを隠せない様子で隼太に歩み寄ってくる。竜という動力を失ったように見える自動車に焦りを抱くのは当たり前だと言えよう。


「こ、これはなんといいますか、まぁ大丈夫です。この形なら多分、僕が操縦できると思いますので...」


車の運転方法ならば前の世界で飽きるほど見てきた。運転方法は完璧に頭に入っている。あとは感覚でなんとかなるだろう。


「操縦??車だけでは動かんぞ?動力はあるのか??」


「それに関しては問題なく。うちのお家芸ですから性能は折り紙付きですよ。とりあえず、時間がないでしょう。ここ、乗ってください。」


隼太は後部座席のドアを開け、中に迎え入れる。


「おぉ!なんじゃこれは!」


アロイジウスは初めて見る自動車に興味津々といった様子だ。先ほど結局出番がなく、拗ねていた様子のシクリーもすっかり機嫌を取り戻したようだ。これならば問題なく乗ってくれるだろう。アロイジウスに関しては一段落である。


「ハヤタ殿。」


「え、あぁ、殿なんて呼ばれるの初めてだが...アゼルさん、俺になんか用ですか?」


アロイジウスの次に隼太に話しかけて来たのは、はキズを完全に治し、すっかり健在といった様子のアゼルであった。


「――命を助けていただき、誠にありがとうございます。この恩はかならずどこかでお返しいたします故。」


「――」


アゼルは隼太に対して深く頭を下げる。先ほどまで落ち込んでいたとは思えないほどスッキリとした顔つきであった。それに隼太は驚いた。まさかこんな反応をされるとは思いもしなかったからである。


「あ、あれはなんていうか、自分のためでもあるしそんなお礼なんて言わなくても...」


「ハヤタ殿は私の命の恩人です。騎士は恩義を大事にするもの。命の恩をないがしろにするわけには参りません。」


彼の目には固い意志が宿っている。自分に非常に厳しい彼の事だ。隼太が何を言おうとこの考えを曲げることはないだろう。


「そんな目で言われるとなぁ...分かった。そういうことにしとくよ。まぁとりあえずアゼルさんも車に乗ってくれ。今は時間がない。」


「...承知しました。」


アゼルはもう一度隼太に頭を下げると、あらかじめドアを開けておいた後部座席に乗り込んだ。これで後部座席にはアロイジウス、シクリー、アゼルの3人が乗り込んだ。実はこれも隼太の策略である。


「もう終わったの?」


隼太に話しかけてきたのは先ほどの策略の対象であり、アゼルのキズを治したレティシアである。あんな血みどろの一件があったにも関わらず、彼女の透き通るような金色の髪は汚れを知らず、風に美しくなびいていた。彼女の微笑みが先の戦闘の報酬だろう。


「まぁ一通りはね。とりあえずレティシアも早く車に...」


「あ、待って、その前にハヤタに言わないといけないことがあるわ。」


「え?何々?」



「――お疲れ様。助けてくれてありがとう。」



目を奪われた。微笑みなどではない。彼女の満面の笑みがそこにはあった。さらにその口から告げられた言葉。それはどんな財宝よりも、どんな名声よりも今の隼太にはありがたく、なにより嬉しい言葉だった。


「あ、あぁまぁアレは当然というか...」


「どうしたの?ハヤタ、なんだか顔が赤いわよ?どこか悪いの?」


「いやいやいや!!大丈夫大丈夫!!全然元気だよ!!ほらほら!早く車乗らないと!」


「??う、うん、わかった。」


どうぞどうぞ、とレティシアを車の助手席に座らせる。人生初のドライブで彼女を隣に乗せられるのはこの上ない贅沢だろう。


「えっと...ここをこうして...」


キーを回し、エンジンをかける。無事一発でエンジンが始動したことに感動を覚えつつ、細かいチェックを行う。ガソリンは十分に入っており、長時間の航行にも影響はないだろう。車体は悪路走向にも問題なさそうな車種であり、多少の荒れ道ならば問題なく超えてゆけるだろう。


「よし!準備Ok!首都に向けて出発進行!!」


隼太はアクセルを踏み込む。車輪が地面を掴み、回転、前進を始める。隼太以外の人間は皆歓声をあげ、驚きを隠せない様子だ。車はぐんぐんとスピードを上げ、初めて踏む異世界の道をも物ともしない。時速は60km前後。飛ばせる道で速度を上げれば、1時間30分ほどで目的地に到着するだろう。


5人を乗せた鉄の車体は、賢人会の待つ首都に向けて順調に走り始める。首都で行われる会合も、このように順調に行けばいいのだが――

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