第6話 小さな体験
――広大なマーティン家の敷地、その一角に建てられているのがこの屋敷である。その中、大人数を収容可能な食堂。隼太たちが今いるのはまさにそこである。その食堂の中には微妙に固く重い空気がゆっくりと流れていた。1人はこれからの自分の人生を左右しかねない重要な事実を聞き逃すまいと緊張を絵に描いたような表情で。また1人はある人の額に手を当て、集中した顔つきで自分の指先とそこに柔らかく光る白い光を見つめている。そんな2人とは対照的に、気のよさそうな老人は微笑みを浮かべながら、姿の見えない少女と言い合いをしている。メイド2人は慣れた手つきで普段の業務を淡々と行っているようだった。
自分の目の前、吐息がかかりそうなその距離で、自分の人生の中で最も美しく、麗しいであろうその女性が自分を、否、自分の額と自分の指先を見つめている。よそから見たらこの光景はどのように映っているのだろう。彼女に触れる額は暖かく、とても心地良い体験だ。この感触がいつでも手に入るならどんな対価を支払うことも躊躇はしないだろう。
「――ハヤタ。」
「...ん?」
その瞬間は突然訪れる。開いた彼女の口は重く、いつにも増して真剣であり、彼女との最初の出会いの時と同じくらい、重々しく申し訳なさげだった。
「...その反応、どうやら良い結果は得られなかったように見えるんですが...?」
「うん...それはそうなんだけど...」
そう口にする彼女は、珍しく話す相手と目を合わせてくれない。長いまつげは地面を見つめ、口角は下がっている。
「まず一つ...魔法は向き不向きあれど誰にも適正があるものよ。火、水、風、土、雷の5大属性の他に希少属性の治癒、幻、空間。誰でもそのどれかには必ず当てはまるものなの。それは隼太も既に勉強したでしょう?」
「もちろん、それは魔法学の一番最初に学んだよ。...でもそれがどうしたんだ?まさかほとんど魔法が使えない程俺には才能がないのか?」
自分に才能が無いーそれは隼太が最も信じたくないことの一つであった。いつでもなんでも、自分に不向きな事は無かった。自分に何か出来ないなんて体験、この屋敷で窯を使った料理を行うまでほとんどしたことがなかったのである。
「才能がない...なんて、そんな次元の話じゃないのハヤタ...」
「そんな次元じゃ...ない?」
「...ええ。こんな人を見たのは初めてだけどハヤタ...」
思わず唾を飲み込む。先ほどまで彼女が触れていた額にはじわりと汗の感触を感じる。彼女は深く息を吐き、この事実を受け止めているようだった。いつの間にかそれぞれ別々の行動をしていた彼らの視線も隼太とレティシアに向けられていた。静まりかえった食堂の広い天井に木霊するのは目の前の金色のベールのような頭髪を纏った女性の一言――
「あなたに魔法の才は全く...まさに欠片ほども存在していないわ。」
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信じたくなかった。レティシアと話を進めていくうちに、なんとなくそんな気はしていたが、実際口にして言われるとそれなりにショックを受ける。あれほど興味を持ち、学んでいこうと思っていた魔法の適正が自分には全くないとは。
「嘘だろ...?」
「私も信じられない...誰でも適正を見たとき、必ず指先の光にその属性に沿った反応を示すものなの。でもハヤタを見たとき、その反応が無かった。」
「――――」
この事も知っていた。属性を判断するには治癒魔法の一種を使う事、そのときに出る白光に属性ごとの反応が出ることも。しかし、隼太からそのような反応は無かった。だが隼太は思った。疑ってしまった。ーー彼女がミスを犯したのではないかと。
「ハヤタくん、レティシアの腕を疑うのは無駄な事じゃぞ?これでも孫はウェルド一の治癒魔術師。こんな初歩的な魔法でミスを犯すなんてことは考えられん事じゃ。」
「じゃあ本当に...俺は魔法が使えないのか。」
「...気の毒じゃが、そうなるじゃろう。儂も伊達に長く生きておらんが、このような事は初めてじゃ。本来あり得ん事じゃが...」
レティシアがそんなに優秀な治癒魔術師であったことにも驚きだが、やはりこのショックはそれなりに大きい。しかし、いつまでもショックを受けている暇はない。午後の仕事も残っているので、隼太は無理矢理に気持ちを入れ替える。
「そうか...うん、分かった。大丈夫、このくらいのことでへこたれる程俺は柔じゃないさ。」
「ハヤタ...」
「気にする事ないって。元々無いまま生きてきたし、何も差し支えないよ。それにもうレティシアの事疑ったりしないさ。さっきはゴメン。」
「いえ、疑うのも当然だわ。前例のない話だもの...」
レティシアのその言葉を最後に、隼太は仕事に戻ることにした。一時はショックを受けたものの、元から無かった物、そう考えれば気も紛れるだろう。
「すんません、迷惑かけましたダリアさん、カリーナ姉さん。」
「全く、魔法の一つも使えないなんて。無能に無能を重ねるとはとんだ生き恥を晒したものね。」
「大丈夫か?落ち着くまで無理しなくても大丈夫だぞ?」
「片方はマジでデリカシーの欠片も無かったが...一応大丈夫です。仕事に影響はありませんよ。」
いつもはムカつくダリアの口の利き方も、なぜか今はそれほど腹立たしく感じなかった。失敗は逆にガッツリイジられたほうが気が楽になるのかもしれない。とはいえアレはイジりの範囲を軽く超えていたが。
そんな彼らの微笑ましくも見える会話、それを見つめていた3人。その中の1人が隼太を値踏みするような目で見ていたのを、アロイジウスの瞳だけが捉えていた。
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庭の芝生の上から見る夕焼けの色はこっちに来ても変わらない。紫がかったオレンジの空は、一日の終わりを美しく飾り立てる。肌に感じる風と湿気から判断するに、今は日本の春と同じような気候だ。異世界に四季があるかどうかは知らないが。
「こちらの自然環境も知っておいた方がいいな...あらかた向こうと変わらないとは思うが異世界特有の自然現象があってもおかしくはないし...」
「...なんだか随分と独り言が多いのねぇーお兄さんはぁ」
「おぉ、なんだ居たのか...」
「なんだとは失礼ねぇー、あたしこれでも貴重な高位精霊なんだけどぉ?」
隼太にいきなり話しかけて来たのは、透明の少女、否、アロイジウスの契約精霊、シクリーである。
「そう言われても見えない奴にどんな反応したら良いのか分かんねぇしなぁ。」
「むぅー、不便ねぇ。お兄さんなら見えててもおかしくないと思うんだけどなぁー」
「見えてもおかしくない...?精霊ってのは精霊術士じゃないと見えないって話じゃないのか?」
「それはそれで間違いないわぁー。でもぉ、お兄さんは少し、いや尋常じゃなく精霊と相性が良いっていうかぁー」
「精霊との相性...?」
不可視の少女であろう存在から考えもしなかった言葉を聞かされる。このウェルド王国は精霊との盟約によって守られている。しかしそれは全ての精霊と交わされた盟約ではない。盟約の対象はこの世界にたった88体しか存在しない高位精霊のみである。そんな存在と自分の相性がいいとは思いもしなかった。
「そうなの。精霊術士は魔術師とは比べものにならないほど才能に左右されるのよぉ。精霊との相性。そればっかりはどんな手を使っても手に入れられないものよぉ。でも、お兄さんにはそれがあるわぁ。お兄さん、精霊術士になるために生まれたんじゃないかって感じだわぁ-。」
「そんなにか...?」
「そんなによぉ。でも、こんな感覚、ただの人間からは感じないわ。お兄さんもしかしてぇ...」
目には見えなくても彼女がどこにいるのかすぐに分かる。それほど高位精霊という存在は大きい物なのだろう。なんだか頼りないそのしゃべり方も、今は威厳を感じる。先ほどとは違う、少し柔らかい緊張感。しかし彼女の口から出てきた言葉は、魔法の才能がない、といわれた時よりも衝撃的なものだった。
「半分が精霊...つまり半人半霊なんじゃあなぁーい?」
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「半分が精霊...?それはつまり俺の半分は精霊で出来てるってことか...?」
「理解が早くて助かるわぁ。そうじゃないと説明つかないくらいなんだものぉ。同じ存在にシンパシーを感じるのは当然でしょー?」
「じゃあアロイジウスさんも半分精霊なのか?」
「あのお爺さんがそんな特別な存在なわけないじゃなぁい。あたしが半人半霊の存在と出会ったのはあなたでたったの二人目よぉ。私は600年の歴史を持つウェルド公国が出来る前から存在してるんだから、出会ってきた人間は数え切れないわぁ。」
「それでもたった二人なのか...」
――驚いた。さっき受けたショックを軽く上回る程の衝撃だった。自分の半分が精霊?じゃあ自分は人間じゃないのか?今までずっとそうだったのだろうか。だとしたら今までの自分の人生が丸ごとひっくり返るだろう。人間として歩んできたこれまでの人生そのものが。
「それは...間違いないのか...?本当に俺の半分は精霊...なんだな?」
「それは間違いないわぁ。高位精霊のあたしが保証したげる。それに、もう既に自分の精霊とどこかで出会ってるはずなんだけどぉ?」
「俺の精霊...?」
「そうよぉ。半人半霊の存在は精霊とわざわざ契約を交わす必要がないものぉ。既に自分の中にいるんだもぉん。」
既に自分の中に精霊がいる。今までの話を聞く限り、当然といえば当然だがあまりにも実感がない。そんなもの見たことも無いし出会ったこともないハズだ。
「いや、そんなものは見たこと無い...と、思うが...」
「そんなことないと思うんだけどぉ...例えば気を失ってる時とかぁ...つまり魂が体を抜け出して精神世界にいる状況、そんなときに何も無いハズの世界に人影...みたいなものをみたことはないかしらぁ?」
「人影...!」
思い出した。そういえば以前、事故に巻き込まれた後に連れてこられたマーティン家で、意識を取り戻す前に感覚も何もないような世界で、得体の知れない人影と会話をした経験があった。
「そういえばそいつと俺が同じ存在だとかなんだとか言っていた...あれはただの夢じゃなかったのか!」
「間違いないわぁ、それがお兄さんの精霊でしょうねぇ。」
「そいつとまた会うにはどうすればいい...?そいつの力を借りる事は...?」
「まず訂正しておくわぁ。力を『借りる』んじゃなくてぇ、お兄さんが『使う』のよぉ。彼はお兄さんだしぃ、お兄さんは彼だものぉ。もう一回精神世界に行って話しをしてみたらぁ?」
確かにそうだ。自分の半分である精霊は、そのまま自分の力だと言っても相違はないだろう。
「精神世界に行く...?そんなことができるのか?」
「簡単よぉ。ちょっとだけ意識を飛ばせばいいんだもぉん。あたしに任せてぇー。」
「ち、ちょっと待って、意識を飛ばすってどういう...」
「どうもこうもないわよぉ、それっ」
――瞬間、視界がぐにゃりと歪む。全身の血が止まったような不快感、しかし痛みはなく、ゆっくりと意識が薄くなっていく。死ぬ時はこんな風に死にたい、とすら思えるほど楽な感覚だ。
「な...にを...」
「いってらっしゃぁ~い!」
彼女の元気でなよなよしいその声を皮切りに、隼太の意識は完全にその身を離れた――
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見たことのある景色だった。という表現はあまりにも不適切だろう。この世界に視覚は存在しない。それどころか五感の全てを失っているのである。隼太がこの場所に来るのは2度目の経験である。一度目は事故の後、意識を失っていた時。そして、今回はシクリーによって原因不明の意識喪失。確かに苦しみは無かったものの、こんな感覚は2度と味わいたくないと思うのが当然だ。体を失った世界は、居るだけで頭がおかしくなりそうである。そんな事を考えていると、次第にこの世界に変化が見えてくる。
「...出てきたか。」
『出てきたのではありません。最初からここにいます。ずっと前から。』
「そうだったな...今回ここに来たのはお前と話をするためだ。」
『分かっています。私の力を使いたいのでしょう?』
さすが自分だと言うだけのことはある。話が進むのが異常なまでに早い。
「あぁそうだ。今のマーティン家はいささか戦力が足りないと見てる。物騒な事にならないのが一番なんだが、このご時世、一体何が起こるか分からない。」
『なるほど、しかしシクリー様がついておられて戦力不足ということは無いハズですが...』
「お前のことが俺にも伝わってくるから分かるが、あの精霊そんなに強かったのか...でも用心に越したことは無い。アロイジウスが外出しているとき、あいつもついて行っているようだし。そうなったら本邸に防衛戦力が無くなるだろう。そうなったときにレティシアや他のメイドを守ってやれるようになりたい。」
『わかりました。力を貸しましょう。とはいえ、私の力はあなたが使おうとすればいつでも使えます。あなたは私、私はあなたなのですから。』
「それだけでいいんだな。よく分かったよ...」
精霊とのやりとりが一通り終わった頃、隼太は意識が薄れていく感覚を感じていた。シクリーはああ見えて意外としっかりしているらしい。今は見えないが。
「これでお前との契約は済んだって事になるのか?」
『あなたが私の力を求め、私はそれに応じる。契約など必要ありません。』
「そうか。それなら良かった――それと...」
朦朧としていく意識の中で、隼太は最後の質問をする。
「お前の――名前はなんだ?」
いかにも初歩的、だがとても大事なその質問に、今はまだ実像の掴めないその人影は手短にこう答えるだけだった。
「私はグロース。あなたの精霊です。」
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「あら、やっと帰ってきたわねぇ。」
「やっとってお前...ちゃんと時期を見計らって戻してくれたんじゃないのかよ...」
「あたしがそんな器用なマネできるわけないじゃなぁい」
なんとも無責任な答えを口にする少女。今はハッキリと姿が見えた。
「まぁ思った通りの見た目だな...」
「なによぉ、もっと敬ってもいいのよぉ?」
彼女の見た目はその声にふさわしいものだった。大きさは1mを切るほどに小さく、なんとも気だるそうな顔つきをしている。紫色のフリフリとした少女らしい服を着ている。髪は明るい金色で、10年も経てば綺麗になりそうであるが、この姿が彼女の完成形なのだろう。
「実際に見たらますます敬う気がなくなったよ。でもまぁ本命のイベントはしっかりクリアしてきたさ。」
「ま、それならいいんじゃなぁい?早く見せてよぉ、どんなのがあんたの精霊なのか気になるわぁ。」
「分かった分かった。そんな見た目で催促されるとマジで子供みてぇだな...」
見た目の年齢に相応しい反応に、思わず口角が上がってしまう。
「力を使おうとするだけでいいんだよな...」
精神世界で本人直々に言われたことだが、未だに経験がないのだから、感覚は分からないが多分適当でもうまくいくのだろう。あいつは自分なのだから。
「――出てこいグロース!...あれ?なんともないぞ?」
『私はここにいますが?』
「うおぉ!ビックリしたぁ!なんの演出も無しで出てくんのかよ!」
驚きつつも、後ろをゆっくりと振り返る。すると――
一目見ただけで人とは明らかに違うとわかる、まるで木に人格を持たせたのではないか、とでもいうような、異様な存在がそこに静かに佇んでいた――