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作者: 式似名

 世界の細胞は空だ。だから世界の素顔は偏在する空で、両腕を差し出しても触れることができない。感じるためには、世界に熱を織り込むしかない。そのためには色が必要だ。

そう、だからまずはその色彩をできるだけ正確に構築しなければ。それは世界に相貌を持たせるための色彩だから。躍動するものすべてを慈しみ、癒し、尖らせ、企みを授けるときのような相貌を。

その色彩を配合するための主成分はターコイズだ。それが五〇%。それからマラカイトが三〇%。そこにカドミウムとチタンを五%ずつ加えて、瑪瑙とトパーズを三%ずつ付け足す。トパーズは、必ずインペリアル・トパーズでないといけない。あとはガーネット、アメシスト、コバルト、チョークにくろがねを二%ずつ。そしてこがね、しろがね、クリスタル、金剛を一%ずつ。足し算してみて欲しい。全部で一一〇%になるはずだから。これを一〇〇%のなかに綺麗に詰め込んで、しかもそれぞれの成分が混ざり合わずに共存させなければいけない。深く繋がり合い、けれど決して一つの塊にならないように。そのために最後に加えなければいけない重要なアイテムがある。それは玉虫だ。勿論、どんな玉虫でもいいというわけではない。それは特別な稀少種、星歯車玉虫でなければいけない。

というわけで、星歯車玉虫を採取しよう。世界中の何処でもいいから、まずは標高三二一メートルの山を探し出すこと。そしてそのなかから、頂上を起点にどの方向に向かってもいいから、三二一歩のところに泉がある山を見つけ出して欲しい。その泉は大樹の森に囲まれ、一日のうちで太陽が真上付近にある三時間と二十一分しか水面に日が差さない、という条件を厳密に満たしていなければいけない。しかも泉を取り囲む大樹のすべてが、樹齢三二一年以上でないといけない。その上、その泉はどんなに風の強い日でも水面を一切揺らさない、とても真摯な泉でなければいけない。そういう泉にだけ、星歯車玉虫は水を飲みに現れる。このとき以外に、星歯車玉虫を採取する機会はない。

では採取の手順を説明しよう。第一に待機しなければいけない。水面を陽光が照らす前から、泉のすぐ傍らで。身を隠す必要や、息を潜める必要はない。たとえ大声で歌っていても、星歯車玉虫は躊躇なくやってくるから。陽光が差し込んできたら、水辺の全領域に気を配ること。星歯車玉虫は突然現れるから。それは飛来するのではなく、這い寄るのでもなく、空間の任意の一点から展開するように姿を現すから。第二に接近しなければいけない。これが少しややこしい。星歯車玉虫には、必ず六歩で手の届く範囲まで接近しなければいけない。そしてその六歩は、三歩と二歩と一歩の三段階に分けて進まないといけない。最初の三歩の歩幅を一とするならば、次の二歩の歩幅はその三分の二、最後の一歩の歩幅は直前の歩幅の二分の一に調節する。これも、正確に実行しなければいけない。もしも六歩で接近できないのならば、その日の採取は諦めるしかない。歩数や歩幅を守らず無理矢理接近すれば、その瞬間に星歯車玉虫は消えてしまうだろう。空間の織り目に染み込むように。そうなると、少なくとも三二一日間は、星歯車玉虫は同じ泉には現れない。そんな無謀なことをしなければ、翌日にも必ず同じ泉に姿を現す。首尾よく接近できたら、第三にいよいよ採取だ。両手でゆっくりと、丁寧に掬い取るように、星歯車玉虫を採取しよう。そのとき、唱えなければいけない呪文がある。

『想いは星に萌える』

 星歯車玉虫に手を伸ばし始める瞬間から、手の内にしっかりと閉じ込めるまでの間、この呪文を唱え続けなければいけない。そうすれば、星歯車玉虫は決して逃げないから。そしたらそのまま森を抜け山から下りるのだ。手を開いて別の容器に移そうとしてはいけない。優しく両手で包み込んだまま、時折手の内でやわらかく振動する感触に気を配り、できる限り急いで帰ることだ。もしもその振動が弱まっても、山を下りるまでは絶対に手の内を覗いてはいけない。たとえ振動が止まってしまったとしても、星歯車玉虫の存在を疑ってはいけない。

 さあ、これで色彩の構築が完了する。すべての成分の隙間を星歯車玉虫が優雅に泳ぎ回り、すべての成分を綺麗に噛み合わせ連動させ、揺らぎのない体系を生み出すのだ。たった一つの方程式で世界を記述するように。できあがったその色彩をイメージできるだろうか。その色彩は、瞬く間に奔放に躍動する流体となる。それは海の流体となる。それは森の流体となる。それは空の流体となる。それは宙の流体となる。それはつまり、世界の流体となる。

 星歯車玉虫がこの世界を回転させている。この世界とは、どの世界だろう。それは、アクアとの遊戯に満ちた世界。ときに抱き合い、ときに契り、ときには攻防するような遊戯に。これはそういう世界の片隅にある、小さな島の物語。

 長く風景に覆い被さっていた重厚な夏の旋律、その灼熱を冷ます最初の北風がエンヤ島を一直線に吹き抜けていた。その純真な北風は告げているようだった。さあ、もう戻りなさい。放蕩の季節の幕が下りようとしています。次の色彩の螺子を巻くために歯車を磨きなさい、と。勿論それは言語ではなかったから、人の耳には届かない。だから、砂浜に無防備に寝ころぶカムトの耳も、その呼びかけを捉えることはなかった。

 モーターカヤックの傍らで、それを盾にして北風をいなしながら、カムトは早朝の潜水漁で冷えた躰を、まだあどけない陽光で温めていた。全身を解放し、何を想うこともなく、ただ風とそれがくすぐり響かせる波の鳴音に、彼は無意識に耳を傾けていた。しばらくそうしていると時間さえも停滞を始め、更更とした微睡が彼に染み込んでいく。平坦で中立な微睡が、此処であって此処ではない何処かへと、彼を心地よく漂わせた。

 どれくらいそうしていただろう。突然、カムトの微睡を切り裂くように何かがこの世界に飛来した。彼がそう感じたというわけではない。その何かは確かに飛来したのだ。前触れは微塵もなかったけれど、高貴な凶暴さを纏った何かが、風景を蹂躙するように疾走し、その波動が進路上にいた彼の血流を激しくうねらせた。彼は跳ね起き、周りを見回す。瞳が捉えた風景の何処にも変化はなく、変化の兆しもなく、変化の痕跡もなかった。けれど、彼はその現実をまったく信用することができなかった。

「おかしいな、辻褄が合わない」

 カムトは思わず呟いていた。不可思議な齟齬が、彼を戸惑わせる。目を見張り、彼は風景の隅の隅まで観察する。島の何処かで、何かが盛り上がったような気がした。島を取り囲む海の何処かで、何かが窪んだような気がした。けれど、それが何なのかは解らない。彼の見知った世界からは、急変した事象を見つけられない。奇妙な感覚に二度三度首を傾げ、そして彼はそれだけでこの現象を受け流した。彼の心の表層の揺らぎとは裏腹に、心の奥底がまったく危険を告げていなかったから。

「おかしくはない。世界は常に呼吸し、脈動しているのだから」

 カムトはそう結論づけ、それを揺るがないものにするために言葉にした。

 漁の成果を抱えて立ち上がり、カムトは家へと歩き始めた。躰はもう十分に温まり、足取りも軽かった。けれど、彼は何故か少し物足りなさを感じていた。

 斑の気流の循環を、カムナは感じていた。か弱い光が沈みがちな森の畑で、薬草たちの世話をしているときだった。その場を満たす貞淑な香りが、ひどく浮き足立っていることに彼女は気がついた。樹木たちの狭間をゆるやかに踊りながらすり抜けていく北風が、それを促していることを彼女は知っている。無秩序に高揚していた季節が穏やかに醒め始めていることを、彼女は少し切なく思った。けれど同時に、当たり前の時季に当たり前の様相を見せる世界に安堵してもいた。それは永久機関のようだ、と彼女は思う。それが、世界を綺麗に循環させているに違いないと。

 勢いのある一陣の風が、薬草畑を疾走した。一人遊びに飽きた子供が、仲間を探し求めるように。その風に纏わりつかれ、薬草たちが戸惑うように身を震わせる。

『怯えているのかしら』

 薬草たちが放つ透明な紋様を受け取って、カムナはふと考える。薬草たちが、何かに不安を感じているように思えたから。皆が一斉にその瑞葉を緊張させ、未知の事象を探っているように感じたから。

『兆しを、感じているのかしら』

 そう考えた瞬間、カムナは不可思議な匂いに気づいた。それは碧く、甘く、はにかむような匂い。初夏に熟れる龍殻果実の匂いに似ているようにも思えたけれど、今までに出会ったことのない匂いだった。その匂いを探り、追いかけ、彼女は森の奥へと歩き出す。どうしてかは解らないけれど、その匂いに抗いがたい魅力を感じたから。程なく彼女は細い清流にぶつかり、そこに倒れ苔むした木々と寄り添うように蹲るそれを見つけた。

それは最初、色彩だった。森に継ぎ目を作る清流に、刃のように薄く鋭く差し込んだ陽光を弾き輝く、翡翠の色彩だった。その色彩の麗しさに誘われ、カムナはゆっくりと近づく。そして色彩に形があることに気づく。それは縦長の箱型だった。翡翠色の箱には長い手足がくっついていて、頭からは二本の角のようなものが生えていた。好奇心に逆らえず、彼女は間近まで歩み寄る。背丈は彼女の倍ほどあったけれど、威圧感はまったくなかった。顔だろうと思われる位置にまん丸い二つの目が大きく見開かれ、彼女を真っ直ぐに見つめていた。沈み切る寸前の夕陽のような、錆びた橙色をした瞳だった。深く一礼してから、彼女は問いかけた。

「あなたは、誰ですか」

 それが、のそりと立ち上がる。

「スズカゼ…イタル」

 溜め息のような不確かな声だった。それがカムナへの応えなのかは解らなかったけれど、そいつも粛々とお辞儀をした。陽光がその体表をしなやかに滑り、無数の煌めきを撒き散らした。

『すごく、綺麗、怖いくらいに』

 見とれるカムナに、そいつはお辞儀と同じリズムで小さな口元をほころばせた。そして問いかける抑揚で、今度ははっきりとした言葉を零した。

「オモイハ、ホシニモエル」

 その声は古い弦楽器のような音色で、森の懐まで織り込まれるように響き渡った。

 飛翔していた。軽快に滑るように。風と競い戯れ合うように。そうしながら、遥か下方のわずかに丸みを帯びた凪の海を見つめて、カムトは思った。

『これは俺じゃない。俺は飛ぶ者じゃない』

 そう思ってしまった瞬間、得体のしれない負荷に襲われ、全身がギシガシと鈍い音を立てた。大きすぎて傍らにいることに気づけないようなスケールの何者かに、暴力的に翻弄されているような気がした。

『居心地が悪いな』

 そう考えながら、カムトは失速し錐揉み落下していた。瞬きのひまもなく海へと飲み込まれ、そのままさらに沈んでいく。衝撃はなく、痛みもなかった。

『ああ、ここはいいな』

 全身を包み込むやわらかな涼しさに、カムトは心地よさを感じた。

『やっぱり俺は、潜る者なのだろうな』

 群青の圧力に抱きしめられ安堵したカムトの頬を、人肌の熱を持つ微かなうねりが撫でる。同じリズムでの共振を、彼に促すように。

「カムト、戻ってきて」

 微かなうねりが、聞きなれた声を発する。うねりは五つの羽を拡げ、カムトの頬に羽ばたきを弾ませている。

「早く、早く戻ってきて」

『まだまだ、もっと深く潜っていきたいのに』

 カムトの想いとは裏腹に、うねりの羽ばたきが彼の躰を急速に浮き上がらせる。深海から水面を越え、彼の家のテラスへと。

「やっと還ってきてくれた。おはよう、カムト」

 指先でくすぐるようにカムトの頬を優しく弾きながら、カムナが彼を覗き込んでいた。その表情はひどく興奮していて、けれど少し戸惑っているようにも見えた。広いテラスの真ん中で、大きな円座に横たわっていた躰から夢の余韻を振り払いながら、彼はゆっくりと上体を起こす。そして、そいつを見つけた。翡翠の煌めきを騒々しいほどに撒き散らしているのにも関わらず、そいつはテラスの隅にひっそりと立っているように見えた。だから風景の何もかもと、精密に噛み合っているように感じられた。そしてその連動の内に、彼を誘っているようにも感じられた。それが何を形作る連動なのかは解らなかったけれど。

「森で出会って、ついてきてしまったの」

 カムナが肩をすくめ、小さな溜め息を漏らす。けれどその表情は、心底困っているというようではなかった。

「何だと思う」

 カムナの問いに、カムトは即答した。

「ムンだろう。ムイムンかウニムンかは解らないけど、ムンだろうな」

 その答えに、カムナが満面の笑みを浮かべる。

「やっぱりそうだよね、ムンだよね。精霊だよね」

「ああ、そうとしか思えないな」

「うん、私もそうとしか思えない。これってすごいよね。だって初めてだもの。森に精霊がいることは信じていたけど、実際に出会えるなんて思っていなかったもの」

 カムナの声が際限なく弾んでいく。今にも踊りだしそうなほど高揚していた。

「これは私たちが、大きなものと繋がったってことかな。広くて深くて渦を巻く純粋なものに触れられたってことなのかな」

 カムナの言葉が、さっきまで潜っていた夢の感触を思い出させ、カムトを澄み渡らせる。彼の奥底に閉じ込められていた深海の静謐から、赤銅色の鋭利な魚が急加速で水面を目指して泳ぎ出す。そしてあっという間に水面を、彼の背中の皮膚を破って飛び出しそこで霧散する。そんなイメージが一瞬彼を抱きしめた。じっとしていられなくなって、彼は勢いよく立ち上がる。それを待っていたかのように、そいつが彼に歩み寄る。

「クシタルコト、クシタルコト」

 カムトの目の前で立ち止まり、そいつはシャカシャカと無数の金属片が擦れ合うような音を全身から響かせた。それが盛大に笑っている声なのだと、カムトには解った。

「クシタルコト、クシタルコト。シャクドウハ、ジュンシンナホシノカケラ」

 そいつが、カムトに向かって粛々とお辞儀をする。

「サツリクカ、カクマイカ」

 そいつは四肢を大の字に伸ばし、ゆったりとしたリズムで、右に左に跳ね揺れる。

「サツリクカ、カクマイカ。モウスカ、モウスカ」

「ああ、そういうことか」

 カムトは頷き、そいつと同じように四肢をいっぱいに拡げる。

「申す、申す」

 そいつと同じリズムで、カムトも躰を左右に揺らす。

「サツリクカ、カクマイカ」

「カクマイ所望と申す、申す」

「モウスカ、モウスカ」

「申す、申す」

 カムトとそいつは揺れながら、二人で円を描くように跳ね動く。一周すると、四肢を拡げたまま同時に静止する。

「よし、浜でやろう」

「アア」

「カムナ、神棚から〈カク〉を取ってきてくれ。勝負することになったから」

「うん、わかった」

 風に解き放たれた花片のように、カムナが駆けだした。

 太陽はすでに天空の高みに至り、威風堂々と光を溢れさせていた。勿論その姿を正視することはできなかったけれど、砂浜に渦巻く熱気から、カムナはそれを強く感じた。いつの間にか風は止み、海面はただじっと蹲っている。静かに身を潜め、翻るときを待っているように彼女には思えた。あるいは、何かに魅入り、そこから際限なく空想を膨らませているようにも思えた。

『煌めきに魅せられているのかしら』

 砂浜の真ん中に立つムンに、カムナは目を向ける。鋭い陽光がムンの体表で弾かれ上品に笑うように煌めいている。全身をその煌めきに覆われたムンは、手足を持つ宝石にしか見えなかった。宝石と向かい合い、カムトが立っていた。その両手には〈カク〉が握られている。それは黒檀でできた八角柱の棒で、彼の前腕と同じくらいの長さをしている。日に焼けた彼が持つと、少し腕が伸びたようにも見えた。ムンが頭の角を両手で掴み、勢いよく引き抜く。翡翠に煌めいていたそれは、引き抜かれた途端に墨色の八角柱に変化した。

「どちらが先に攻める」

「ソチラカラ、ドウゾ」

「よし。じゃあ、俺が限から、おまえが展からだ」

 両者は素早く距離を取り、左前の半身で対峙する。前方に伸ばした左腕の〈カク〉は地面と水平に、後方に伸ばした右腕の〈カク〉は垂直に、両足も前後に開き膝を曲げてどっしりと腰を落とす。カクマイの始まりの構え、〈源庸の礼〉の構えで、二者は一旦落ち着く。

「さあ」

 カムトが、場の空気を巻き上げるように叫んだ。

「オウ」

 ムンが、その空気のすべてを受け止めるように声を上げた。

 カクマイが始まる。

「えい、えい」

 気を込めて叫びながら、カムトが回る。両脚を順に蹴り上げ、斜め上の空間を切り裂くように旋回する。一回転、二回転。旋回しながら彼はムンに近づいていく。その二回転目にピタリと合わせて、ムンが同じように旋回する。カムトの二回転、ムンの一回転。そしてそこから、二者は型を組み合わせる。砂を抉るように滑り込み身を沈め、カムトが天空を貫く勢いで両手の〈カク〉を突き上げる。それは〈限解求の型〉。そこに被さるようにムンが交錯する。それは〈展解求の型〉。二者の躰が一つに噛み合い、四本の〈カク〉がふわりと触れ合う。それは決してぶつかり合うのではなく、互いの心根を強く慈しむような触れ合い。

 カクマイとは、そうやって型と型を噛み合わせる遊戯だ。型を繰り出す舞者を限、それを受ける止める舞者を展、その役割を交互に繰り返していく。七十二種類ある限の型にはそのそれぞれに対応する展の型があり、限の舞者が繰り出した型に対応する型で、展の舞者は受け止めなければいけない。正確に受け止められていれば、四本の〈カク〉が綺麗に触れ合う。そうでなければ、〈カク〉は擦れ違うことになる。

 ムンが二度の旋回でカムトから離れ、「サア」と叫ぶ。「エイ、エイ」とすぐさま二度の旋回でカムトに迫る。「おう」と応えたカムトは二度目の旋回に合わせて一回転。ムンは左足を蹴り出し、左手は上段に右手は下段に突き出す。それは〈限清尖の型〉。カムトは半身で右膝を蹴り上げ、右手を上段に左手を下段に差し出す。それは〈展清尖の型〉。四本の〈カク〉はまた音もなく触れ合った。

 展の舞者は、迫ってくる限の舞者の旋回の間に繰り出される型を見極めなければいけない。そうして二度目の旋回に合わせて自身も旋回しながら、対応する型を出さなければいけない。限から展に移る舞者は、二度の旋回で離れる間に次の型を決め、それを繰り出しながら相手に迫る旋回を始めなければいけない。七十二種類ある型の中から、限の舞者は二十四の型を選び繰り出す。限と展は交互に入れ替わるから、合計で四十八の型を交錯させてカクマイは競われる。二回以上同じ型を繰り出してしまうと、そのときの限の舞者の負けとなる。〈カク〉が擦れ違えば、そのときの展の舞者の負けとなる。四十八種の型のすべてが噛み合えば、引き分けとなる。

 古の時代、カクマイは遊戯でなく儀式だった。世界の設計図を伝えるための儀式だった。あるいは、世界の設計図のフォーマットを伝える儀式だった。だからカクマイの型には、生命を含む世界の真相のすべてと、それを上書きする為の様式のすべてが刻まれているといわれている。

 カツンっと乾いた音が鳴った。それはとても小さな音だったけれど、カムナは聞き逃さなかった。彼女は、二人と共にその舞に加わりたいと思いながら、じっと見入っていたから。できることなら、二つの型が触れ合い創り出される紋様に溶け込みたいと願うほどに。

 それは限の舞者として、カムトが十四番目の型を繰り出したときだった。それを受け止めるムンの型がわずかに遅れ、触れ合うはずだった〈カク〉の減速が間に合わず、ぶつかってしまったのだった。それはつまりカムトが優位に立っていることを示していた。ムンは翻り旋回の速度を上げ、〈限懐察の型〉を繰り出す。難易度の高い型だったけれど、カムトはしなやかな動作で〈展懐察の型〉を纏い苦も無く受け止める。〈カク〉は綺麗に触れ合い、音は鳴らない。カムトも速度を上げながらムンの背後に回り込むように旋回して、次の型を繰り出す。受け止めるムンの舞がまたわずかに遅れ、さっきより大きな音が鳴る。二者が描く紋様がわずかに濁り、歪みが生じたことをカムナは感じた。二回転で離れたムンは、再びカムトに迫ることをせず、その場に片膝をついて〈カク〉を十字に重ねながら両腕を突き出す。そして叫んだ。

「エイ、エイ、エイ」

 それを見たカムトもその場に片膝をつき、同じように〈カク〉を重ねる。

「えい、えい、えい」

 それは〈中庸の礼〉。カクマイの途中で双方が一度だけ舞の中断を促す構え。限の舞者がそれをしたときは、展の舞者も無条件に従い、七呼吸の間だけ舞が中断される。

 一呼吸、二呼吸と、ムンが重低音の息を長く吐く。三呼吸目を吐き出した瞬間、ムンの躰が飛び散った。翡翠色の幻惑が風景を激しく撹乱し、カムナの目が眩む。それが収まったとき、ムンの色彩は瑠璃色に変化していた。その姿は古のゆったりとした衣装を纏った、すらりとした人型に。その衣装も、そこからはみ出た五体の先も、手に持つ〈カク〉も、すべてが瑠璃色に輝き、そしてその色彩は目まぐるしく身悶えていた。

「朕に枷を脱がせたのは、貴公が初めてなり」

 瑠璃色のそのひとが、楽しそうに言う。六呼吸、七呼吸。

「さあ」

 その人が叫ぶ。

「おう」

 カムトが応える。

「えい、えい」

 そのひとが旋回する。その動きは、今までと比べ物にならないくらいに、滑らかだった。流麗すぎて、瑠璃色の尾を引くように見えるほどに。人型が失われ、ただ瑠璃の色彩が躍動しているかのように。繰り出された型を、カムトが受け止める。ガツンっと鈍い大きな音が響いた。

『速い、速すぎる』

 瑠璃色の躍動に、カムトは翻弄される。

『違う、速いのではない。無駄がないんだ。いやそうではない。それさえも、巡っているんだ』

 全身の筋肉が無音の悲鳴を上げていた。

『もっと鋭く、もっと精密に』

 四肢の関節が、あらぬ方向に歪みそうになる。

「さあ」

「おう」

「えい、えい」

 〈カク〉が激しくぶつかる。何を考えている暇もない。けれど考えずにはいられない。

『どうなっているんだ。どうしたらいいというんだ』

「さあ」

「おう」

「えい、えい」

 手が痺れるほどに、〈カク〉が激しくぶつかる。自分が型を繰り出しているのか、それとも受け止めているのか、それさえも見失いそうになる。何もかもが、瑠璃色の疾駆が巻き起こす渦に飲み込まれていくようだった。

『追いかけろ、獣のように。あいつの躍動を削ぎ、組み伏せるために。もっともっと、追いかけろ、追いかけるんだ。いや違う。違うぞ。追いかけている限り超えられない。止まるんだ。止まらなければ』

 カムトはようやく気づく。

「えい、えい、えい」

 砂に片膝をつき肩を大きく上下させながら、カムトは〈カク〉を重ねる。

「えい、えい、えい」

 涼しげな表情で、瑠璃色のひとがそれに従う。

 一呼吸。カムトはまず息を整える。

 二呼吸。全身を緩め、もう一度緊張させる。

 三呼吸。相手と自分と風景に、まなざしを走らせる。

 四呼吸。カムナが胸の前で、貝のように両手を硬く握り合わせている。祈っているように思えた。

『いや、実際に祈っているのだろう』

 五呼吸。

『何に祈っているのだろう? 何を祈っているのだろう?』

 六呼……?

『いや、俺は呼吸をしていない』

 いつの間にか、自身の呼吸が止まっていることに気づく。

『時が、止まっている?』

 カムナの閉じられた手が、真紅に輝いていた。

『あの輝きが、時をとめているのかな』

 そんなことをカムトが考えたとき、瑠璃色のひとの声が聞こえた。

「〈カク〉は舞者の要なり。朕も貴公も舞者なり。カクマイの〈カク〉は品格なり」

 その声は外からではなく、カムトの内側から響いてきた。彼の胸の奥深くから。

『あれは、カムナの要なのかな』

 カムナの真紅の輝きを、カムトはじっと見つめる。

『俺も、あんな要を持っているのかな。要とは何だろう。世界に挑む心だろうか。世界と並び立つ心だろうか。違う、それは世界に抱かれる心…かな』

 そしてカムトは、六つ目の息を深く吸い、長く吐き出す。時が、また動き出した。

 七呼吸。

『大丈夫、俺はまだ舞える』

「さあ」

「おう」

「えい、えい」

 旋回して、カムトが型を繰り出す。瑠璃色のひとが、優雅にそれを受け止める。

「さあ」

「おう」

「えい、えい」

 旋回しながら、瑠璃色のひとが型を繰り出す。カムトが、ゆだねるようにそれを受け止める。〈カク〉がふわりと触れ合い、音はなかった。そのことが、カムトの心を澄み渡らせる。自身に流れ込んでくる躍動と自身が流し込んでいる躍動が寸分違わず重なり合い、それぞれが舞う想いを昇華させる。二人の舞者の間で遣り取りされた想いが、双方に笑みを浮かばせた。

 何が描かれているのかは、カムナには解らなかった。けれど何かが描かれていることは、間違いないことのように彼女には思われた。彼女は目を閉じ、砂を踏みしめる音に耳を澄ます。落ち着いた、けれど鋭い呼吸音に気持ちを重ねる。熟しすぎた龍殻果実の匂いを微かに感じる。そして再び目を開いたとき、自分が旅をしていることに気づく。

 カムナには見えた。型と型が触れ合うときに、そこから織物が溢れ出る様が。それは最初瑠璃色で、けれどすぐに様々な色彩に変じて風景を描き出す。帯状に流れる織物は、砂浜を埋め尽くし、海を埋め尽くし、空をも埋め尽くす。それはここではない、何処か遠い世界の風景。そこには誕生があり、死があり、創造があり、破壊があった。鬩ぎ合い、寄り添い合い、殺戮があり、慈しみがあった。それらを咀嚼するために、その風景には知性があった。

『違う、これはこの場所に辿り着くまでの世界の風景だ』

 いつの間にか、二人の姿が消えていた。カムナを取り囲み渦を巻く風景に魅せられながら、穏やかな気分で彼女は思う。

『それはそう。あの二人が、この風景、この世界そのものなのだから』

 そしてその世界の様式のすべてが、自分の内にも刻まれていることを、カムナは感じていた。すべての生命の螺旋のなかに、その世界の遍歴が織り込まれていることを。彼女は頬に手を当てる。知らぬ間に溢れ出た涙で、頬は濡れていた。その涙は、恐ろしさと歓びからくるものだった。

『私たちは、旅をしている。これまでも、そしてこれからもずっと』

 気が付くと、風景は元に戻っていた。カムトと瑠璃色のひとは離れて立ち、左手に束ねた〈カク〉を持ち、右手の拳を左胸にやわらかく添えている。それは〈果庸の礼〉。すべての型が噛み合い、カクマイは終わっていた。

 心地よい涼しさを孕んだ風が、役目を思い出したように吹き抜ける。

「次の年の同じ候に、また交わろう」

 瑠璃色のひとがニンマリと笑う。

「ああ、いいとも」

 カムトの答えに満足気に頷き、瑠璃色の人は滑るように海へと移動していく。

「おまえ、ムンじゃなかったんだな」

 カムトの問いに答えることなく、瑠璃色のひとは足下からゆっくりと海に取り込まれてく。あるいは、瑠璃色のひとが、海を取り込んでいるのかもしれない。その躰は海と色を合わせ、裾を拡げるように没していく。やがてそれは海面の盛り上がりにすぎなくなり、そしてそのあと平坦に納まり消えた。

 カムトは感じていた。湧き上がったものが窪んだ場所へと還り、世界が平衡する感覚を。そういえば、早朝にも似たようなことを感じたなと、考えながら。

「ねえ、あれはムンじゃなかったのね」

 波打ち際で、カムナが二三度水を掬う。そこに、瑠璃色のひとの余韻を探すように。

「ああ、たぶんワダツミだったんだろう」

「ワダツミって、海神様だったってこと」

「そう。きっと夏の終わりに、森に遊びに来ていたんだろう」

「すごい。じゃあ、カムトは神様とカクマイしたんだ」

「まあ、そうだね」

 どおりで手強いはずだなと、カムトは納得した。

「ねえ、教えてほしいことがあるの」

 波打ち際を離れ、カムナがカムトに歩み寄る。両手の滴が弾けるように散り、それが一瞬だけ空気と噛み合うための型を描いたかのように、カムトには見えた。

「なに」

「カムトの〈中庸の礼〉のとき、あの七呼吸の間に何を考えていたの」

「どうして」

「私には、あのときカムトが何かを考え、何かに納得したように見えたから。とても大切な何かに気づいたように」

 カムトは記憶の文字盤を巻き戻す。確かに重要な知恵を手にしたような気がするけれど、言葉にできるようなものは何も思い出せなかった。

「そうだな、そんな気はする。でも何だったか忘れてしまったよ」

「それでいいの? それって、とても大切なことじゃないの?」

「そうかもな」

 ふっと、カムトの奥底から言葉が浮かぶ。

「ありがとう、カムナ」

「え? 何が?」

 カムトは思わずはにかんでいた。

「解らない。けど、言いたくなった」

「何? 私、何もしてないよ」

「いいさ。ただ、言いたくなったんだ。それより昼飯にしよう。腹ペコだよ」

「そうね。そうしましょう」

 カムナと並んで、カムトは歩き出す。彼はまず腹を満たし、それから次の攻防の戦術をじっくりと練り上げようと考える。彼の身体は、燃料を欲していた。けれど同時に、彼の奥底からは燃焼による激しいエネルギーがわき上がり続けていた。だから、彼の身体は微塵も疲れを感じてはいなかった。舞い競い、限界を超えて酷使したはずなのに。

 カムトの奥深く、光乏しい深海で、赤銅の鋭利な魚が群れている。群れは細密な斑の旋回を繰り返し、洗練された渦を巻き上昇を始める。すぐにそれは赤銅の龍となり、奔放な螺旋を描きながら急浮上をする。そして水面を、彼の背中を突き破った次の瞬間、微細に分解され風景に織り込まれた。

 カムトは立ち止まる。力強い陽光に煌めく風景に、無数の赤銅の欠片たちが噛み合うのを彼は感じる。その心地よさを、彼は確かに感じていた。


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