月が固定化する時間帯
いつもこの時間になると、僕は足早に中庭を通り抜け、工学部棟一階にある自動販売機のもとへ行く。
大寒もとうに過ぎ、春分を迎えたはずなのに、今日は頬をなでる風が冷たく感じられた。
だから僕は、今日だけは約束の10分前には着こうと思い、地面を蹴った。
案の定、あの娘は来ていなかったが、
色んな想像をしながら吸うキャスターのバニラフレーバーは、僕の全身を優しく包み込む。
吹き出した煙で散乱される街灯の光は、まるで雨上がりの雲間から架かる”天使の梯子”を想起させた。
だけど、僕の思いとは裏腹にあの娘は来ない…。
主観時間ではとうに30分は過ぎている。そんな時、僕は腕に巻き付けられた時計を見ることはないのだ。
結局僕は太陽の沈みゆく様を、ただ、眺めていた。地平線に吸い込まれる太陽の動きは速い。半分も隠れれば、ほら、"一瞬"なんだ。
目指す場所を見つけてからの時間経過は早いのだ。
太陽が半分も隠れた頃に、同じく西の空に浮かぶ光の陰がある。
まるで亡霊のように浮上するあの姿を見て、僕は戦慄した。
進むべき道を失ったあの頃の僕と、ひたすら前だけを見て歩み続けるあの娘の関係にそっくりだったからだ。
こんな劣等感に満ちた考えを振り払うように、一番星を探す。
すると、あの月よりも激しく輝く星をさらに上の方向に見つけた。
宵の明星かなぁ。
期間限定でしか、僕たちに姿を見せることが出来ないあの星は、いつもカタチを変えるから尊く思える。
さらに夜の帳が下りると、月の下の方角に、すこし控えめな黄色い星が輝きだす。
木星である。
内惑星、衛星、外惑星、そして地球が奏でるワルツは、神秘的だけど踊り出すことはない。
一定のリズムを刻むこともなければ、静止したままである。
月を中心に金星が示す長針、木星が留める短針の位置は、7時の時刻を指したままだからだ。 腕時計は見なくていい。 空の時計が僕の主観時間を刻んでくれる。
だから、僕は一時たりとも待っていないのだ。
3つの相対位置は変わらない。その関係のまま、西の空に存在感を増して輝きだすだけだ。
僕はふと後ろ振り向く。すると月明かりが僕を土台にして投影する影に隠れるようにして、あの娘は座ってた。
月、僕、あの娘が並んで作る位置関係は、まるで皆既日食なんだ。
それでは存在に気づけない。だけど、なんで今、解ったんだろう。
ふと、西の空を見上げる。 すると月はずいぶん地平線に近づいていて、木星は完全に見えなくなっていた。
そういうことだったのか。 僕はなぜだか腑に落ちた気分になって、あの娘と手を繋いでいつもの並木道を歩きだす。 とまってた時計の針がまた、動き出す。