2-1 ボン・クローネ帰還
『――長らくおまたせ致しました。あと数分後、ボン・クローネ駅に到着致します――』
乗務員のアナウンスが列車内に入った。稔とラクトは目を閉じて寝ていて、いびきなどは両者かいていない。けれど寝方は綺麗というわけではなくて、綺麗さだけを見れば五段階評価の二程度だ。
「……結局は、私が寝てもいいって言ったせいなんだろうけどね」
独り言を言うと、織桜は稔たちの方向に笑みを浮かばせた。読んでいた本は三〇分程度経ったと言ってもまだ読み終えていなかったが、実物の本というわけではなくて電子書籍であるから問題はない。
「あ……」
アナウンスが入れられた意味は、「もうすぐボン・クローネ駅に着きますよ」ということだ。そのため、急ごうとする気も無しに他人を起こそうとするようであれば、何も出来ないままにボン・クローネ駅に着いてしまう。
「起きろ!」
大きな声を出す織桜。起こさせるタイミングは、今を逃せば駅に着いてしまってから、もしくは駅に着いてもなお作業続行などとなる。他の乗客たちがそう多くないとはいえ、車掌に代表される乗務員に迷惑を掛けるべきではなく。あくまで乗せてもらっている身なのだからと、織桜は稔の肩を強く揺らした。
「……ん?」
脳という名の総合司令室から出された「目を瞑れ」という命令は、織桜による肩揺らしによって消えていった。たちまち「目を開けろ」という命令が下って、稔は自らが三〇分の睡眠を取っていたことを自覚する。
「金髪の女の子が不細工な俺を――って、こいつは織桜か」
「誰と勘違いしているんだ、愚弟。まさか二次元の嫁とでも勘違いしたか?」
「あいにく俺は二次元に嫁を作らない主義だからな。彼女は居るけど」
あくまで『嫁』は居ないけど『彼女』なら居ると主張する稔だが、織桜の前では同じことを言っているだけにしか聞こえなかった。オタクカルチャーにある程度の知識や理解を示している織桜であるが、流石に「俺の嫁」と言ってしまう人の心理は理解し難い。『嫁』と言うか『彼女』と言いうか、そんなことは関係が無い。結局は過程を踏んでいるか否かの違いしか無いからだ。
「愚弟はじつに馬鹿だな。所詮、二次元の女の子を自分の下に従えていることに快感を得ている時点で区別を付けようにも無駄だ。それは単なる『言葉の違い』にしか過ぎず、『意味の違い』なんて無いのだから!」
「なん……だと……」
「青いたぬき」などと色々な言葉で言われるロボットがいる某作品のキャラクターの発した台詞を、織桜はパロネタで有ることを知って使った。稔もそれは即座に見抜いたが、これまた典型的な返しを織桜に送る。
「すぅ……」
稔の肩を揺らした織桜だったが、まだラクトには肩揺すりなんてしていなかった。稔とラクトが二人共寝ていたことを織桜が把握していなかったわけではないが、駄弁っていたことに夢中になってしまってラクトの方にも「起きろ」という合図を出すまではいかなかった。
「胸でも揉んで起こさないと起きないんじゃないの? 耳かきで起きなかったし、身体反転させても起きないし」
「いや、身体を逆にした程度じゃ起きない人も居るだろ。それと、胸揉んだって起きるとは限らな――」
「召使とデートしてた主人が、よくもそんな綺麗事を言う」
「……」
織桜にその情報が流れていると稔は思わず、それを織桜の口から聞いたことには驚きを隠せないで口籠る。デートと解釈される事をしていたことを否定する為の根拠という根拠は無いから、反論しようにも無理があった。そのため、言われたことは間違いではないと判断するしか無い。
「私を貧乳だと侮辱するような愚弟だからな。さっきは私がやったから怒られたけれども、今回は愚弟がやってくれればいいと思ったんだけど……。寝こみくらい襲えよ、高校生男子さんよ」
「酷い急かし方だ、全く。呆れてしまうにも程があるぞ」
「建前じゃそう言ってるけど、どうせ本心になると色々と欲望が浮かんでるんでしょ?」
織桜は顔をほころばして稔を馬鹿にした。大切にしたい召使ということに変わりはなかったが、一応はサキュバスだから発育は悪くない。大きな胸を揉ませろとせがめば揉ませてくれる可能性は否定できないが、先程の信頼関係が失われそうになったことを考えると、稔は出したくなる手を止めてしまう。
「ある程度は優しく扱えよ、愚弟。強く揉まれるだけじゃ痛いだけだから」
「なっ、何その経験談!」
「貧しくても大人ですからねえ。まあ、それなりの体験はしてきてるってわけさ」
織桜は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。ほころばした顔が嫌味混じりに見えた先程とは打って変わって、今回は稔を応援するような笑みとも受け取れる。勝ち誇っているということの裏には、「やってみな」という挑発のようで先導のような言葉が有ったのだ。
しかし、この期に及んで稔はまだ手を出そうとしない。性欲を沈静化させる薬品でも飲んでるんじゃないかと心配するレベルで有ったが、異世界に来てからそんなものを彼が飲んだ試しはない。
(せっかく傷つけないように耳かきしてきたってのに、胸を揉むことを要求するとは……)
必ず選択しなければいけない絶対的な選択肢ではないから、「やらない」選択肢が無いわけではなかった。アスモデウス戦で餌食になった事からも分かるだろうが、稔には性欲が無いわけではなかった。強い理性で押し殺しているだけであり、それを壊しさえすれば狼のような野獣と化す。
「はよ選択しろや。揉むのか揉まないのか、それともセーブす――」
「セーブッ!」
「そんな手段は無いわ! 全てが全てゲームで決まる世界じゃねえんだぞ!」
異世界マドーロムはゲーム世界ではない。ゲーム世界で例えるとするならば、ログアウト不能のデスゲームに送り込まれたと言ってもいいだろう。とはいえここはゲーム世界ではないから、セーブなんて不可能なのだ。
「さあ、前者か後者か。選べ!」
愚弟と散々稔を愚弄してきた織桜は、稔が本音と建前で葛藤する姿に興奮し、熱くなってテンションが上がってきていた。ただテンションが上がってきた時に発せられた声は、全て俗に言うアニメ声だった。加えて顔面が放送事故という訳でもないから、稔も吐き気を催したりはしない。
「――お前のせいだからな、織桜」
「嫌だねん♪」
「可愛い子ぶるな! あと六年ちょっとで三十路だろアンタ!」
稔がそう言うと、織桜は一瞬にして黙りこんでしまった。どう考えても怒っているとしか受け取れないような織桜の表情は、稔からしてみれば目は口ほどにものを言う状態。その目つきでとぼけたことを言おうと言っても無駄だ。
「……女性に年齢の話とは、後でちょこっと魔法で懲らしめてやろうか」
「すいませんでした! 今のは口が滑っただけなんです!」
必死に火消しに走る稔。口が滑っただとか言葉の綾だとか言って逃げ切ろうと試みるが、織桜に与えられたダメージは相当大きくて、そんな弁解では到底和解に近いような状態に持っていけるようなものではなかった。そしてそんな弱みに付け入る形で、織桜は不吉な予感しか与えない笑みを浮かばせて言った。
「これはもう、『揉む』しか選択肢は無いね。あーあ」
「そんな! まだ俺、心の準備が――」
口頭ではそう言って胸を揉みたくないと言わんばかりのアピールをしてくれる稔だが、内心では「早くしたい」という気持ちと「待て」という気持ちの二つがあった。けれど、ある種パワハラ的な年上には逆らえないというようなことが合わさって、結果としてラクトの胸を揉む決意をした。
(なんでこんな……)
稔には女へ蹴りを入れたりする勇気なんて無い。母親でもなければ優しさ『だけ』を振る舞っていい人っぽく思われるくらいで、特に厳しく言うような事はしない。そしてそれが、今のこの状況にも影響した。
「――」
唾を飲み込んだ後、稔は深く息を吸って吐いた。人数的には違うけれど、四面楚歌という場面。逆らおうに逆らえず、レベルゼロの某作品の主人公が繰り出すような男女平等パンチなんざ出きっこなかった。だから稔は、結果としてしなければならなくなった。
「起きろおおおおお!」
稔の膝の上にちょうど掃除する側の耳がくるようなったために、少し通路側に頭がはみ出していたラクト。左耳を上に向けていたから左半身が上なわけだが、敢えて自分サイドに転換させてみる。彼女の大きな柔らかい果実の感触を足で感じながら、稔は揉みしだく為の準備を行って本題に取り掛かった。
だがその時。
「みっ、稔……?」
ラクトは気配を感じて目を覚ましてしまった。このままでは自分が変態扱いされかねないと、稔は身体を震わせて冷や汗をかいてしまう。けれど、ラクトはそんな稔を見て言う。
「……べっ、別に大丈夫だよっ?」
自身の主人が考えていたことを読むと、ラクトはそう言ってから稔の太ももに顔を埋めさせた。進化したスリスリに稔は和みそうになったが、無理して恥ずかしくなっているとしか思えなくて、胸揉みを続行する勇気が出ない。だがラクトは、そんな勇気が出ない主人に対して掛ける言葉が見つからない。
「愚弟に忠告しておくけど、揉まないとさっきの件は許さないよ?」
「ひっ……」
稔は織桜の強い言葉の口調に、腰を抜かすまではいかなかったが恐怖を覚えた。許されないことをしたのだという罪に対しての認識にしてもその償いにしても、別に彼は甘く捉えていたりはしていない。事態を重大に受け止めていたからこそ、恐怖は強いものとなったのだ。
ラクトは寝起きで心を読む非魔法の能力が十二分に発揮できてはいなかったが、これまで稔と織桜の間柄で起こった居座古座は大まかに分かった。ただ、胸を揉まれる対象者が自分で有ることはやめて欲しいと彼女は思う。私じゃなくてもいいじゃないかと言いたくなるが、逆らおうにも寝起きだったからまだ力が入らない。
「ラクト、本当にいいんだな?」
「やっ、やっと決心し――」
ラクトが言い切る前に、稔は顔を埋めているラクトを持ち上げた。ラクト自身から体重の数値は聞いていないため推測であるが、ラクトの体重を五五キロよりは少ないと判断できる程の重さだ。軽さを追求して生まれたロボットではない彼女だが、稔は軽さが軽さなのでそんなことを思ってしまった。
「わっ……」
持ち上げられたラクトは、稔の左右の太ももの間に配置された。膝の上に上げても問題ないほどの重さであったが、何一つとして言葉を発しなければ時間は長く感じてしまうもの。だから彼は、自分の負担軽減も兼ねて膝の上には置かないで座席の上に置いた。
そして、ラクトが前の方向を向いたと同時だった。稔はついにラクトに対しての胸揉み攻撃を開始した。パンツを穿いていない状態でのパンチラよりは酷い攻撃では無いから、ラクトも特に怒ったりはしない。むしろ、どんな感触であるかを稔に聞いてくる。
「柔らかいでしょ?」
「これが……」
「そのくらいの強さだったらランク落とさないから、ある程度やってていいよ。痛くないしマッサージみたいだからね。でも欲望に駆られて痛みを伴う揉み攻撃をしてきたら、いくら主人とただじゃおかないからな!」
召使が主人に逆らうことは原則としてするべきではない行動だ。ラクトも余程のことがない限り稔のことなんて裏切るつもりなど無い。一方で主人に対して怒ることを「原則として」から始まる文で禁じているようものはないから、怒ることに制限はない。一応の言論の自由が有るわけだ。
「はいはい……」
ラクトが忠告を稔にしてなお、ラクトに対しての稔による胸揉み攻撃が続く。「胸を揉むことを続けていい」と稔はラクト本人から聞いた後、彼女の身体を少し自分側に抱き寄せて更に続けた。ラクトは艶めきのある声を出したりせずに、ただただ稔からの攻撃を受けるだけに居た。
「別に感情を堪える必要はないんだが、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。そんな心配は要らないから、稔は続ければいい」
「そ、そうか……」
押し殺された感情が有りそうだと疑心暗鬼になる。召使に対してそんな思いを持ってしまう自分を情けなく思う稔だが、すぐにそんな思いを払拭して疑いの心を持ったり、疑いの目を向けたりしないようにした。
「稔、ちょっと強くなってきてない?」
「……痛い?」
「痛くはないんだよ。でもブラジャーと肌が、強くされると擦れ合っちゃってさ……」
「着心地が悪いってことか?」
「そういうことだね」
稔には到底理解し難い話で有ったが、それは女子特有の話だからだ。相談されても答えられる相手は織桜くらいしか居ないだろうとそちらに稔とラクトは視線を送ったが、織桜は減速してボン・クローネ駅へ向かう中で変わりゆく景色を堪能している。
「相談できっこなさそうだな」
「誰だって疲れてくるとそうなるもんだよ。装うとしても失敗してしまうんだ」
枕営業をしていたラクトが言うと、どうしても別の意味で聞こえてしまう稔。何を指すかはアダルト的な要素を含むために言わないでおいたが、ラクトには読まれてしまう。
「なぜそんなことを考えるんだ……」
小声でラクトに言われると、稔は吐き捨て呟くように「ごめん」と言った。けれど謝罪の言葉は要らなかった。指摘するとすぐに謝ろうとするのが稔だということはラクトも認識していたから、彼女は「謝るな」と言ったりはせず、「さすが思春期」と言ってやった。
「そろそろやめてもらえると……」
「あ、ああ。分かった」
されている側が傷つくのは駄目だと思っていたから、稔はラクトが言ったことをすぐに呑んでそれ相応の対応をしようとした。だが、謝った後すぐに言われたから少しばかし動揺した。
「お、織桜さん。ラクトの胸を揉むのは終わりなのですが、これで許して頂けるんでしょうか?」
「やり終えたか。んじゃ、許す。まあ、今後一切女性には基本的に年齢の話を振るべきじゃないぞ」
「まあ、女に限らず嫌がったら言わないのが正解だろうがな」
「それもそうだな」
修正を加える形で言う稔。それに織桜も賛同の意思を表明した。そしてその後、稔の左右の太ももの間に座っていたラクトが席を移動して元々の席に戻ると、それを狙ったかのようにアナウンスが入った。なんだかんだ、アナウンスが稔たちを狙ったように入るのは茶飯事と言える。
『――ご乗車ありがとうございました。終点、ボン・クローネ、降車ホームは一番線です――』
アナウンスが入り、その台詞通りに列車は入線していく。見えた窓の外には、既に王都へ向かおうとしている人達の姿。おみやげだったり手提げ袋だったりと、持ち物はまちまちだ。
そんな人達のことを見ていると列車が静止した。流石に列車の窓から降りたりはせず、正しくドアからボン・クローネ市の中心駅の地を踏んだ。そして次の行き先であるリートが宿泊するホテルを目指す前、稔は呟き吐き捨てるように言った。
「――帰ってきたぞ、ボン・クローネに!」




